聖書の言葉を聴きながら

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「『見よ』と主は言われる」(イザヤ書42:1〜17)

  「『見よ』と主は言われる」

 

2021年11月28日(日) 主日礼拝【待降節第1主日礼拝】 

 

聖書箇所:イザヤ書  42章1節~17節

 

 

 きょうは待降節第1主日です。きょうの聖書の冒頭 1~4節は「主の僕の歌」と呼ばれるものの最初のものです。この「主の僕の歌」は42~53章にかけて4回出てきます。「主の僕の歌」は最終的にメシア=救い主を指し示していると考えられています。ですから、待降節に説教する箇所とされてきました。

 

 

 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもないこの地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」と1~4節にあります。

 

神は救いの御業のために一人の僕をお立てになります。彼は「裁きを導き出す」ために召されました。1節の終わりにも、3節の終わりにも「裁きを導き出して」と出てきます。4節の「裁きを置くときまでは」も「同じ単語が使われています。これは「ミシュパート」という単語です。旧約に406回出てくる重要な言葉です。口語訳では「道を示す」と訳されて新共同訳では「裁き」と訳されています。この「ミシュパート」は神の言葉、神の戒め、あるいは神の御心が教えられることによって確立されていく「神と共に生きる」ということを意味しています。

 

 「神と共に生きる」ことは「救い」そのものです。罪によって「神と共に生きる」ことができなくなった罪人を、神と共に生きられるようにするのが救いなのです。ですから、僕は救いの御業のために召されたのです。

 

 

 道を示すために召された「僕」は、神によって「民の契約」とされ、世界の人々の「光」とされたと6節にあります。

 

 聖書の旧約・新約の「約」は「契約」の「約」です。わたしたちが神に立ち帰るために立ててくださったのが契約です。わたしたちは絶えず変わりゆく世にあって、いつも不安を抱えています。その罪故に不安なわたしたちの平安と希望のために、神はわたしたちと契約を結んでくださったのです。神の真実な約束によって、わたしたちが平安を得、希望を持って生きることができるように、神は契約を結んでくださいました。

 

 そして、神が召された「僕」=救い主こそ、神が立ててくださった契約そのものです。救い主は、罪人を照らす光です。「盲人の目を開き」囚われ人を「獄屋」から解放してくださいます。わたしたちも罪に囚われ、神ご自身が見えなくなっています。わたしたちも「光」である救い主と出会って、罪から解放され、神を仰ぎ見る者とされていくのです。

 

 

 「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前にわたしはあなたたちにそれを聞かせよう。」と9節にあります。

 

 わたしたちの思いを超えた新しいことを神はなさいます。誰が想像したでしょうか。

 

真に神である神のひとり子が人となって世に来られるということを。しかも、罪人を救うために神のひとり子が十字架で命を献げるなんて。さらに死を打ち破って復活されるなんて。

 

 人は常に未来を予想します。しかし、神の新しさは、人の予想を超えるのです。人の考えの中に、神を捉えきることはできないのです。

 

 8節で神は言われます。「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さずわたしの栄誉を偶像に与えることはしない。」わたしたちは、神を理解し尽くしたかのように、神について語ることはできません。ただ神ご自身だけが神の栄光を現すことができるのです。ヨハネによる福音書1章14節ではこのことについてこう述べています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」神であるお方が人となって世に来られ、神がわたしたちの救いであるという神の栄光を現してくださいました。

 

 

 真に神であるお方が、真に人となられた。主であるお方が、僕になられた。誰も予想しない、誰も期待してもいないことを、神はなしてくださいました。「わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう。」イエス・キリストがお生まれになる遙か昔に、神はすでにその救いの御業をお語りくださいました。このことの故にわたしたちは、40章8節の御言葉「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」を「アーメン、主よ真実です」と聞くことができるのです。

 

 

 神の真実な約束を聞いた民は命じられます。10節にこうあります「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。」神が救いの御業をなされることを聞いて、民は歌うのです。「新しい歌」とは新しく作られた歌ではなく、新しい心で歌う歌です。自分の思いを超える新しい言葉を聞いて、驚き喜ぶ新しい心で歌う歌です。「山々の頂から叫び声をあげよ。 主に栄光を帰し主の栄誉を島々に告げ知らせよ。」11~12節のように世界の人々が、神を喜び讃える歌声を耳にするように歌うのです。神は歌う喜びすらなかったところに讃美の喜びを造り出してくださるのです。

 

 

 けれど、この喜びを生み出すために、神は自ら苦しみを担ってくださいました。14節に「わたしは決して声を立てず黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ激しく息を吸い、また息を吐く。」とあります。神は全能の神だから、何の苦もなく救いの御業をなされたのではありません。神はわたしたちのための苦しみを担われました。苦しみを担ってまでわたしたちを救われるのです。16節にこうあります「わたしはこれらのことを成就させ見捨てることはない。」

 

 そして救い主もまた、苦しみを担うためにこの世に来られました。わたしたちを救うために人となって世に来られました。

 

 

 1節と9節で「見よ」と神は言われます。神自ら成し遂げられる救いの御業に注目せよと言われます。主の僕として救いの業を成し遂げられたイエス・キリストを見るのです。

 

 「主の僕の歌」は,詳しくは「苦難の主の僕の歌」と言われます。わたしたちのために苦難を負うことをいとわない本当の救い主がここにいるのです。自分自身が苦難を負って,わたしたちのために神と共に生きる道、救いの道を開かれました。

 

 

 わたしたちは「見よ」と言われています。イエス・キリストを見よと言われています。この方において主の御業がなされ,救いが成し遂げられました。わたしたちは今、救い主の到来を待ち望む待降節のただ中において、旧約の民と共に、全世界の神の民と共に、喜びをもたらす驚くべき 神の言葉を聞いているのです。

 

 

 

 祈ります

 

 私たちは、常に先を予想して動こうとします。しかし神様は私たちの予想を超えて動かれます。 主であるお方が、僕になられ、誰も予想しない、誰も期待してもいないことを、神はなしてくださいました。私たちも新しい歌を主に向かって歌えるように、イエス・キリストを見ることができるように、喜びをもたらす神の言葉を常に聞いていきたいと思います。

 

アーメン