聖書の言葉を聴きながら

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「わたしに従いなさい」(マルコによる福音書2:13~17)

「わたしに従いなさい」

 

 2023年1月22日(日) 降誕節後第4主日

聖書箇所:マルコによる福音書  2章13節~17節

 

 イエスは家を出て,再び湖のほとりに出て行かれました。すると群衆が皆そばに集まって来たので,イエスはそこでも人々に教えられました。家でも外でも,イエスは集まってくる人々に神の国の福音を語り,教えられました。それは神と共に生きる道でした。

 そして通りがかりにアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて,「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は立ち上がってイエスに従いました。

 

 聖書の記述は簡潔です。そのため何が起こったのだろうかと考えさせられます。

 レビはイエスの回りに集まって来た人々の中にはいませんでした。彼は仕事中でした。彼自身がイエスに興味があったのかどうか分かりませんが,彼は仕事をしなければなりませんでした。イエスについて行く暇はありませんでした。

 レビは税金を集める徴税人でした。ファリサイ派の律法学者が言っていますが,徴税人は罪人と並べられるように,人々から軽べつされ,嫌われる存在でした。当時のユダヤローマ帝国支配下にありました。ですから徴税人というのは,ローマの税金を集めていたのです。人々は自分たちを支配する異邦人の手先となって働く徴税人を軽べつしていました。徴税人は決まった額をローマに納めなければなりませんでしたが,余分に集めたものは自分の懐に入れることができました。これは金になる仕事だったようです。人々は自分たちからお金を巻き上げていく徴税人をますます嫌いました。そして徴税人はそれ故いよいよお金を頼りとして生きるより他はありませんでした。

 レビはいつものように仕事をしていました。税金に自分の懐に入るお金を上乗せして徴収していました。レビにはイエスについて行く暇はありませんでした。

 イエスのそばに集まっている人々は彼に関心など持っていません。税を支払うために彼のところに来た人々も仕方なしに来たのであって,彼自身には関心がありません。

 

 ただイエスお一人がレビに心を留められました。たとえ世の誰もが関心を持っていなかったとしても,イエスが関心を持たず忘れてしまっている人はいないのです。

 テモテへの手紙Ⅰの2章6節でイエス「すべての人の贖いとしてご自身を献げ」るために世に来られました。イエスにとって命を懸けなくてもよい人,どうでもいい人は一人としていないのです。

 

 イエスはレビが収税所に座っているのを見かけて,「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は立ち上がってイエスに従ったのです。

 一体何が起こったのでしょうか。

 彼は仕事を放り出してイエスに従ったのです。レビは元々イエスのうわさを聞いて関心を持っていたのでしょうか。それがイエス本人から声をかけられて一も二もなくついて行ったのでしょうか。もしかしたら,そうかもしれません。

 けれどレビだけでなく,イエスに声をかけられ招かれたシモンもアンデレも,ヤコブヨハネもそうでした。おそらく初めて会ったのに,仕事をしていたのに,彼らはイエスに従いました。

 彼らは自分に向かって語りかけられるイエスの声を聞いて,救い主に出会い,神に出会ったのです。

 

 実に不思議な出来事です。けれどその不思議によってわたしたちは信仰に導かれていくのです。

 考えてみれば,わたしたちの方が不思議かもしれません。

 レビはイエス本人に会い,イエスから声をかけられたのです。わたしたちはイエスに会ったこともないのに信じています。

 わたしたちもまたわたしたち自身に向かって語られ呼びかけられたイエスの言葉によってイエスご自身と出会い,神と出会ったのです。

 レビも、うわさぐらいしか知らなかったかもしれません。しかし,わたしたちもどれだけイエスのことを知っていたでしょうか。十分知り尽くしたから信じたのでしょうか。そうではありません。

 

 イエスがわたしたちを心に留め,わたしたちに語りかけ,出会ってくださったから,わたしたちはイエスに従ったのです。ヨハネによる福音書15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とイエスご自身が言われているとおりです。

 

 礼拝は主の日ごとにイエスに出会い,イエスが今も新たに語りかけてくださる声を聴くために,主ご自身が備えてくださったものです。

 主がわたしたち一人ひとりの名を呼んで,召し集めてくださっているのです。

 だからわたしたちも,レビと同じように立ち上がって様々のやるべきことをおいて集うのです。わたしたちは信じたときと同じように,主に出会い,主の声を聴いているでしょうか。

 

 イエスの招きは,レビに大きな喜びをもたらしました。仕方なしにではなく,自分に関心をもって声をかけられたのはいつ以来のことだったでしょうか。

 レビはイエスと,一緒にいる人たちを自分の家に招きました。そこにはレビがイエスを招いて食事をするという話を聞いて集まって来た徴税人や罪人も大勢いました。

 ところが,イエスと一緒にいた人でこの場を喜ばない人がいました。ファリサイ派の律法学者でした。

 ファリサイ派というのは,分かれている,分離している人たちという意味で,律法を熱心に守り,きちんと守らない汚れた人たちからは分かれている,分離しているという意味でその名が付けられていました。

 このファリサイ派の律法学者は,イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て,弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い質しました。ファリサイ派の人たちにとって神の戒めを守らない汚れた人たちと一緒に食事をすることはあり得ないことでした。朱と交われば赤くなるのです。

 すると,イエスはこれを聞いて言われました。「医者を必要とするのは,丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは,正しい人を招くためではなく,罪人を招くためである。」

 

 イエスが来たのは,罪人を招くためだとはっきり言われます。

 

 自分の正しさ,知恵,力に自信のある人はイエスを必要としないのです。自分に自信のある人は,神の御心を理解しようとはしません。既に分かっていると思っているからです。そして,自分の自信を深めるために行動し,しばしば神の御業を拒絶してしまいます。この人がどうだったかは分かりませんが,ファリサイ派の人々は後にイエスを殺そうとします。

 自分への自信というものは神を拒絶していることさえ分からなくしてしまうのです。

 

 わたしたちは罪赦された罪人として今集まっています。イエスの救いがわたしには必要だと信じています。わたしたちはイエスの愛と赦しの中で自分自身の罪を,わたしが罪人であることを知らなければなりません。

 

 宗教改革者のルターという人は友人のメランヒトンにこういう手紙を書き送っています。「あなたが恵みの説教者であれば,作り物の恵みでなく,本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば作り物の罪でなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救いたまいません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ喜びなさい。彼こそは,罪と死とこの世との勝利者です。私たちがこの地上にいる限り,罪を犯さざるを得ません。この地上での生は,義が私のものとなるというようなものではありません。ペテロが言うように,私たちは義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望むのです。この世の罪を取り除く小羊・キリストを神の大きな恵みによって私たちが知るに到ったことで十分です。たとえ日に千度殺人を犯しても,どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって,私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎるとあなたは思うのですか。大胆に祈りなさい。最も大胆な罪人になりなさい。」

 

 わたしたちは悔い改めて立派になってしまったキリスト者を演じる必要はありません。わたしたちは常にイエスの救いを必要としています。きょうも,明日も,あさってもです。

 イエスは,わたしたちが人には見せない心の奥底に隠してある罪も,自分では気付いていない罪もご存知です。

 そして,わたしたちのすべての罪をご自分の命を懸けて贖ってくださいました。

 イエスはわたしたちの本当の姿を知ったうえでわたしたちを招かれます。

 誰が忘れ去ってもイエスはわたしたちをお忘れにはなりません。

 イエスはわたしたちを招くために来てくださいました。

 わたしたちを救うために命を懸けてくださいました。

 わたしたちはレビと一緒にイエスの言葉を聴いて喜びましょう。

 

 イエスは言われました。「わたしに従いなさい。」