聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「永遠の生命」(ダニエル書12:1〜3)

「永遠の生命」

 

 2021年11月21日(日) 主日礼拝【逝去者記念礼拝】 

聖書箇所:ダニエル書  12章1節〜3節

 

 きょうは逝去者記念礼拝です。私たちの教会では毎年11月に、先に天に召された兄弟姉妹たちを覚えて逝去者記念礼拝を守っています。

 今、ダニエル書を読みました。聖書の中では、今日読んだ箇所で初めて「永遠の生命」という言葉が出てきます。このダニエル書は、迫害の時代に書かれました。困難の中の希望として、神は幻を示されました。

 幻という言葉は、日本語では、実際には無いのに、あるように見えるものや、たちまち消えてしまう、はかないものという意味で使われます。

 しかし、聖書では意味が異なります。幻は、神の御業を示すものであり、未来への希望です。神は未来への希望として、永遠の生命を示されました。

 「国が始まって以来かつてなかったほどの苦難が訪れる。しかし、その時、お前の民、あの書に記された人々は皆救われる。また多くの者が地のちりの中の眠りから、目覚める。」と今日の聖書で示されます。

 迫害の時代は、未来には、もはや死しか待ち受けていないように思われるときです。そしてたとえ迫害の時代ではなくても、この世にあっては、未来に希望が全く見いだせず、 死しか見えない、死が目前に迫ってくるときがあります。死がすべてを覆い尽くしていくように思われるとき、神は、そこに、永遠の生命という幻、つまり希望をお与えになりました。

 

 神はダニエル書に先立つ預言者イザヤの時代に、既に先触れとしてこう語っておられました。イザヤ書25章8節「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」。そして、ダニエル書の時代に至って、神は、永遠の生命という言葉を使ってお語りになったのです。

 

 神は、創世記に記されているように、人をご自分に、かたどって造られ(創世記 1:27)、神と結ばれて生きるものとして、人に命の息を吹き入れられました(創世記 2:7)。

 神は、人を祝福され(創世記 1:28)、「極めて良かった」と喜ばれました(創世記 1:31)。

 命は、造られたその始まりの時から神の祝福に溢れ、命そのものにも喜びが満ち溢れていました。しかし、そこに罪が入り込んで、死がもたらされました。そのため、神は、私たちを命の喜びに至らせるために、救いの御業をなしてくださって、私たちを永遠の生命へと導いてくださいます。

 そのために、神は、ひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしくださいました。キリストによって、死は打ち破られ、復活されたキリストの命が現れました。コリントの信徒への手紙1の15章20節と22節のところで 「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」と語っておられます。

 イエス キリストの復活によって、命は、死によって終わるのではなく、復活の命、永遠の生命に至ることが明らかにされたのです。

 

 いつの時代も、人は必ず死を迎えます。どんなに文明が進み、医学が進歩し、どんなに便利になり、快適になったとしても、必ず人はこの世で死を迎えます。

 わたしたちの社会では、楽しいことが増え、自由にできることが増え、生きていることを楽しみ、死についてあまり意識せずに生きていくことができるようになりました。

 けれども、必ず一人ひとりの前に、死が立ち現れる時が来ます。すべてのものが過ぎ去り、たったひとりで、死の前に立たなければならない時が必ずやって来るのです。そのような時を迎える私たちに、神はイエス キリストによって永遠の生命を示し与えてくださいます。

 

 イエス キリストは、ヨハネによる福音書11章25節でこう語られます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

 イエス キリストを見るときに、神がわたしたちをどのように導こうとしてくださっているのか、どこへと至らせようとしておられるのかが分かります。そして、既に神の御許へと召されていったどの命も、決して虚しくなることはなく、永遠の生命への復活へと導かれていることを知るのです。

 

 聖書はこう語っています。テサロニケの信徒への手紙1の4章13節、14節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

 

 今、生きている私たちも、既に地上の生涯を終えた者も、キリストの復活の光の中で見ることができるのです。惜しみなく注がれるキリストの命の喜びの中で見ることができるのです。私たちは、祝福の中で命を与えられ、救いの恵みへと導かれていくのです。

 

 だから神は最後にダニエルに、こう言われたのです。今日はお読みしていませんが、ダニエル書の一番、最後の、12章13節のところ、旧約聖書の1402頁、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 とあります。

 この箇所は、口語訳聖書ではこう記されています「終わりまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終わりに立って、あなたの分を受けるでしょう」

 当時は、まだ、この最後に与えられる「あなたの分」が何を意味するのか、人々は知りませんでした。しかし、今、私たちは、一人ひとりの分として、神のひとり子イエス キリスト ご自身が与えられていることを聖書から知らされています。

 イエス キリストが最後の晩餐で、弟子たちに与えたように、聖晩餐において、私たち一人ひとりの前にキリストご自身、キリストの命を表すパンとぶどう酒の杯が差し出されるのです。そして主ご自身が「取って食べよ」「この杯から飲みなさい」と言って、ご自身の命をわたしたち一人ひとりに差し出してくださることを、聖晩餐によって覚え続けるのです。

 

 命は自分のものであっても、私たちの自由には決してなりません。私たちは自分の性格も能力も自分で選んだのではありません。命は、神の恵みによって与えられたものです。そして、私たちの命を見て、神は「極めて良かった」と喜んでくださるのです。

 自分を省みるとき、いろいろと足りないものを感じます。けれども神は、「極めて良かった」と喜んでくださっているのです。神は、喜びをもって、私たちをご覧になり、そして私たちが罪によって滅びないように、キリストをお遣わしになりました。イエス キリストの復活の命、永遠の生命がわたしたち一人ひとりに差し出されています。

 

 今、生きているわたしたちも、先に召された愛する一人ひとりも、神によって、命が与えられ、そして「極めて良かった」と喜んでくださり、キリストによって、永遠の生命が差し出されているのです。

 だから、安心して終わりまであなたの道を行きなさい。神が与え、神が召してくださる。

 神が召されるとき、あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、「あなたの分」の、神のひとり子イエス キリストを受けるのです。キリストの命に与るのです。そのことによって、神が共に生きたいと願っていてくださることを、喜ぶことができるのです。

 

 私たちには、決して失われることがなく、奪い去られることのない喜び、希望が与えられています。それを共に確認し、主から慰めと希望を受け、新たな力を得て、また歩み出していきたいと願っています。

 

 

祈ります。