聖書の言葉を聴きながら

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「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23:39~43)

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

 

 2022年3月6日(日) 受難節第1主日 

聖書箇所:ルカによる福音書 23章39節~43節

 

 1.

 イエスと一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人がいました。マルコによる福音書(15:27)とマタイによる福音書(27:38)では「強盗」と書かれています。過越祭のために赦されたバラバは「暴動と殺人」(23:19)の罪で逮捕されていましたから、もしかしたら、バラバの仲間という可能性もあります。いずれにしても、十字架はローマの市民権を持つ者には適応されない重い刑なので、ローマ帝国に対する罪を犯した者たちでしょう。

 

 この者たちは、一人はイエスの右側に、一人はイエスの左側に、十字架に付けられました

(23:33)。 

 

 すると、その一人がイエスに言います。(37節)「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 メシアは、ヘブライ語です。ギリシャ語はキリスト。つまり、「救い主」を表しています。

 「救い主なら、自分を救い、俺たちも救え。救うのが仕事だろう。自分の仕事をちゃんとやれ!」

 彼は十字架に掛けられていますから、ローマ帝国に対する反逆、神の民ユダヤ人をローマの支配から解放するために罪を犯したのかもしれません。彼は、神の民の解放のために働くとき、神が味方してくださるはずと思っていたのかもしれません。しかし、神は味方してくださらなかった。救い主と言われたナザレのイエスも、今自分の隣で十字架に掛けられ、何もできずにいる。彼は、神に対する不満が止まりません。彼はイエスに悪口を言い続けたのです。

 

2.

 すると、十字架に付けられたもう一人が彼をたしなめます。(40節)「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」彼はイエスと自分たちの違いに気づいています。自分たちは、自分がやったことの報いを受けている。しかし、イエスは何も悪いことをしていない、と。この人も十字架に掛けられているのですから、彼もまたローマに対する反逆、ユダヤ人の解放のために働いていたのではないでしょうか。彼は、民の間で評判になっているイエスのことを耳にします。イエスの姿を見たことがあるかもしれません。彼は民の救いのために命がけでローマに反逆します。しかし、民がキリストだと噂するイエスは、自分たちのような行動はしません。けれど、イエスのもとには遊女や取税人といった、人々から軽蔑されている「地の民」と呼ばれていた人々が集い、イエスは彼らと食事を共にします。彼の心は揺さぶられます。自分たちとは全く違うイエスの行動は、何なのか。自分たちこそ民の救いのために行動しているはずなのに、彼の心にはイエスがいるようになりました。

 

 それが今、イエスと共に十字架に掛けられているのです。彼の中で言葉にならなかった思いがほとばしります。(42節)「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。今、イエスも、彼も、十字架に掛けられていて、死を待つばかりです。しかし、彼はイエスに未来を見たのです。救い主が神の国の権威を持って再臨する未来を見たのです。遊女や取税人さえも迎え入れるイエス、指導者たちに妬(ねた)まれ十字架まで負わされているのに、十字架の上でさえ嘲られているのに、(34節)「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成し、祈るイエス

 

3.

 彼がどれだけ聖書に親しんでいたかは分かりませんが、イザヤ書53章の「主の僕の歌」を思い出したかもしれません。先週もこの箇所のお話は、してきました。今日は皆さんと共に聖書を開き、イザヤ書53章4節~12節を読んでみたいと思います。私が読みますので皆さんは目を追って黙読していただければと思います。(イザヤ 53:4~12 旧約p1149)「(4)彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。(5)彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(6)わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。(7)苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。(8)捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。(9)彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。(10)病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。(11)彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。(12)それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

 

 彼は思います。この方こそが、本当の救い主ではなかろうか。今、自分の前には死しか見えないけれど、この方は十字架によって救いをもたらすことができるのではないだろうか。彼はイエスに向かって告白するのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。と

 

4.

 イエスは彼に答えます。(43節)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

 「はっきり言っておく」の「はっきり」は「アーメン」です。アーメンとは、ヘブライ語で「真実」という意味です。ですからここは「真実をもってあなたに告げる」という表現です。神の国の奥義を語るときに使われる表現です。

 

 イエスは、一緒に十字架に付いている彼の告白、願いに対して、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。「楽園」というのは、口語訳聖書では「パラダイス」となります。「パラダイス」という言葉は旧約をギリシャ語に訳した七十人訳聖書で、エデンの園の訳語に使われています。ですから、パラダイスということの方が重要だと思います。神の民は、楽園つまりパラダイスという言葉に、神が祝福された命が満ちた世界を当てはめたのです。

 

 そして、それ以上に大切なのは「あなたは今日わたしと一緒に」という言葉です。イエスが一緒にいてくださる所、そこがパラダイスなのです。この世界、この空間のどこかにパラダイスがあり、地獄があるのではありません。主が一緒にいてくださる所こそ、パラダイスであり、主がおられない、神を見出すことができない、祈りが空しく消え去っていく所こそが地獄なのです。

 

 ですから、聖書では「わたしと一緒に」「わたしに立ち帰れ」「主と共に」「主に従って」という主と共にあることを表現する言い方がいくつもあり、そしてたくさん出てきます。イエスがお生まれになったときも天使は告げます。(マタイによる福音書 1:23)「その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。我々と共におられる神、そのお方が救い主なのです。そしてイエスご自身、(マタイによる福音書 28:20)「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されました。この主イエス・キリストと共にある、そこに救いがあり、そこにこそ神の祝福と恵みと永遠の命が満ちあふれる世界が開かれてくるのです。

 

5.

 イエスは、ご自身に望みを置く者を拒絶されません。それが死の直前であったとしても遅すぎることはないのです。一緒に十字架に掛けられた彼は、その生涯で神が与えてくださったことを心に留めて歩み、人生の最後に救い主に出会いました。その彼に対して、主は言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

 

 聖書はまた、告げます。(ヘブライ人への手紙 3:15)「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない」。

 

 すべての人の前に主の招きがあるのです。神がお造りになったすべてのものを救いへと招くために、世界の各地に教会が建てられ、主の復活の日ごとに御言葉が語られ、説教によって解き明かされているのです。繰り返して言います。すべての人の前に、主の招きがあるのです。そしてそのためにこそ、主イエス・キリストは人となられ、世に来られました。

 

 今、神は皆さんを主イエス・キリストへと招いておられます。主に心を向け、主に望みを置きましょう。この十字架に掛けられた人と同じように「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。イエスに願う者すべてに対して、イエスは答えられるのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

 

 

 

祈り

 

 主イエス・キリストの父なる神様、 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と私たちを招いてくださいます。感謝いたします。どうか、私たちがこころをかたくなにせず、あなたの招きの声を聴くことができますように。十字架に掛けられた人と同じように「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願う者とさせてください。主イエス・キリストの御名を通して祈ります。