聖書の言葉を聴きながら

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「救いの道を歩んで生きる」(ルカによる福音書21:20〜24)

「救いの道を歩んで生きる」

 

2021年7月25日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章20節〜24節

 

 きょうの箇所は、5節から続くエルサレム神殿の破壊、ユダヤ滅亡についてのイエスの言葉です。

 この福音書を編纂したルカは、1章3節に出てくるテオフィロなる人物に福音書を献呈しています。ルカは、イエスの言葉が真実であることと、いかにローマ帝国が強大であっても、滅びゆくものであって、依り頼むことはできない、ということを伝えようとしています。

 紀元66年にユダヤ戦争が始まります。紀元70年にエルサレム神殿は破壊されます。そして紀元73年までユダヤ戦争は続きます。ユダヤという国は滅び、ユダヤ人は流浪の民となります。

 ルカはイエスのこの言葉を、おそらく直接ではなく、伝え聞いていたのだろうと思います。ルカはエルサレムに関するイエスの預言が真実であったことを確信し、テオフィロに今はローマが滅びるなどと考えられなくても、ローマに依り頼み、ローマを誇りとするのではなく、神に依り頼むこと、そして神が遣わされたイエス キリストこそ、あなたを救い支えてくださる方であることを伝えるために、この部分を丁寧に書いたのだろうと思います。

 

 ここでイエスは「逃げなさい」と言われます。罪の世の過ぎゆくもの、神の裁きを受けるものと一緒に滅ぶことのないように逃げよ、と言われます。

 それは「書かれていることがことごとく実現する報復の日」だからだと言われます。神の民であるユダヤ人の罪に対する裁きがなされることを表しています。神の民の務めは、神を神として生きることです。しかし、ユダヤ人は神の救いの業を拒絶し、イエス キリストを捨ててしまいました。

 ヨセフスという歴史家が『ユダヤ戦記』という書物を残しています。その『ユダヤ戦記』には、この戦争で110万人が殺され、97,000人が捕虜とされたとあります。

 「彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」

 以来1900年、ユダヤ人は国を失ったまま流浪の民となりました。1948年にイスラエル国が建国されて「異邦人の時期」は満ちたのでしょうか。そうではない、と思います。なぜなら、悔い改めて、武力に頼らず神に依り頼んで生きるようにはなっていない。イエス キリストを神が遣わした救い主だと信じるに至っていないからです。

 

 イエスは「逃げなさい」と言われました。逃げると言えば、創世記19章のソドムとゴモラが滅ぼされる場面を思い起こします。19章15節~17節と23節~26節へと読んでみましょう。「夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」」・・「太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」

きょうの箇所とよく似ています。おそらくイエスは、ソドムとゴモラの出来事を踏まえて「逃げなさい」「都に入ってはいけない」「報復の日」だと言われたのだろうと思います。未来を予見して語るというよりも、聖書に記されていることが実現するという意味合いで語られたのだと思います。

 裁かれるものに心引かれてはなりません。ロトの妻のように裁きに巻き込まれてしまいます。エルサレムから離れなくてはなりません。ヨセフスが記すようにエルサレムと共に滅んでしまった人たちは大勢いたのです。そして、ローマが裁かれるときにはローマから離れなくてはなりません。ローマは当時の世界の最先端の文化、文明を誇る大帝国です。ローマが滅びるなどと誰も思いはしません。しかしルカがテオフィロ福音書を献呈してから1900年余り、ローマはもはや歴史の彼方、遺跡において当時を忍ぶばかりです。

 

 それでは、わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世に依り頼まない信仰を持っているでしょうか。わたしたちが暮らす日本もまた今の時代の最先端、豊かな文化と文明のただ中で生きています。けれど、わたしたちはこの世が不動のものではない徴を与えられています。76年前の戦争、26年前の阪神・淡路大震災、10年前の東日本大震災原子力発電所の事故、5年前の熊本地震、そして今の新型コロナウイルス。わたしたちの国はとても豊かでありながら、実に不安定、不確かな存在です。この日本もまた、神の御業の中で過ぎ去り、裁かれる存在です。

 原子力発電所の事故では多くの人がふるさとを失いました。流浪の民となりました。誰も責任を取ってはくれません。ふるさとを返してはくれず、以前の生活を返してはくれません。もちろん失われた命を返してはくれません。3月11日が近づけば思いだし、過ぎれば忘れて別の事へと思いは向かいます。8月15日と同じです。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみが」あるというイエスの言葉どおりのことが起こるのを、わたしたちは見て知っているのです。

 

 わたしたちは、この目に見える世界で生きています。この世界にある様々なものを必要とし、様々なものに支えられて生きています。けれどわたしたちは、それらのものを創り、それらを備え与えてくださる神へと思いを向けなくてはなりません。わたしたち自身も、わたしたちの周りにあるものも、神が創り、治め導いておられます。そして神だけが永遠に真実なお方です。神が遣わしてくださった神よりの神イエス キリストだけが「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」お方ですとヘブライ人への手紙13章8節にあります。ローマの信徒への手紙1章25節で、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」と言われていたとおりです。

 

 わたしたちは、命の源であり、世界の源である神を知り、神と共に生きる者です。神の救いの御業が一人ひとりの上に、世界に成されることを祈り、そのために仕えていく者たちです。

 ルカもまたテオフィロの救いを願い、この福音書を読むすべての人の救いを願ってこの箇所を丁寧に記しました。

 どうか皆さんが神の裁きを逃れて、救いへと入られますように。聖書に記されている神に祝福されたすべての聖徒たちと同じように、神に導かれ、神に祝福されて救いの道を歩んでいかれますように。

 

 

祈ります

 

天の父なる神様

わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世に住んでいます。 あなたが「逃げなさい」と言われたとき、あなたの裁きを逃れ救いへと入れますように、裁かれるものに心引かれ裁きに巻き込まれないように、あなたに導かれ、あなたに祝福された救いの道を歩んでいけますように。

アーメン

 

 


この説教は、2017年3月26日に語ったものですが、長老がその説教原稿を読み込んで、「5年前の熊本地震」の後に、「そして今の新型コロナウイルス」と付け加えて語って下さいました。