聖書の言葉を聴きながら

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「キリストの十字架によって」(マルコによる福音書3:7~12)

 「キリストの十字架によって」
 
 2023年3月12日(日) 受難節第3主日
聖書箇所:マルコによる福音書  3章7節~12節
             
 2月19日の礼拝で3章1節から6節を読みましたので、本日はその続きとなります。

 1節から6節までのところで、安息日に関する律法について、イエスファリサイ派の人々との間に、決定的な対立が生じてしまいました。イエスは、ファリサイ派の人々が持っていた、自分たちこそは、聖書に従って正しく生きており、他の人々よりも優れているという誇りを打ち砕いてしまいました。一方、ファリサイ派の人々も、思想面では相容れないヘロデ派の人々と結託して、イエスを殺す相談を始めました。

  7節、イエスは会堂を去り、弟子たちと共にガリラヤ湖の方へと立ち去られました。 ガリラヤの一帯から集まってきた大勢の群衆がイエスに従いました。また、南のユダヤエルサレム、イドマヤからも、東のヨルダン川の向こう側からも、さらには遠く北のティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、イエスのそばへと集まって来ました。

 それほどにイエスのなさったことは人々に衝撃を与えました。とりわけ、イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せてきたのです。9節では、群衆にイエスが押しつぶされる危険を感じるほどであったと述べられています。そのため、イエスは弟子たちに小舟を用意するようにと命じられました。

 この小舟は身の安全を図りながら、説教するために用いられました。4章1節には、イエスが舟に腰を下ろして、湖畔の群衆に語りかけたとあります。さらに舟は、群衆からスムーズに、離れるためにも使われました。4章36節に、弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出したと書かれています。 数えきれないほど大勢の人々が集まってくる。これは、伝道のためには、絶好の機会であるように思えます。しかし、イエスは、このチャンスを生かそうとしているようには見えません。
 
 3章の13節では、イエスは山へと退かれて、群衆から離れていかれことがわかります。 イエスは、大勢の人が集まることで、良しとはされませんでした。癒しを求める人々の求めには応えますが、それを感謝して喜んでくれれば、それでよいというお考えではありませんでした。

 イエスは、自分を正しく知ることをお求めになられます。イエスの語られる教え、語る言葉、そしてイエスのなす行為、業において。さらに、十字架へと向かう言葉と業において、ご自分を正しく理解することを求めておられるのです。

 正しく理解することを求められるのは、イエスに従い、イエスと共に生きるためです。3章11節に、汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだと、あります。続く12節で、イエスは、自分のことを言いふらさないようにと汚れた霊どもを厳しく戒められています。「あなたは神の子だ」という汚れた霊の告白自体は正しいものです。しかし、汚れた霊は、決して、イエスに従い、イエスと共に生きてはいません。口先だけでは、告白になりません。言葉は出来事となるのです。
 

神の愛は、言葉だけでなく、イエス キリストという出来事となったのです。そして、
 
エス キリストは、言葉と業において、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。心と体は一つであることを指す言葉として、心身一如という言葉があります。まさに神の思いは、出来事となり、キリストの言葉と業、キリストのすべて、イエス キリストそのお方において、救いは、成るのです。
 
 この、自分のことを言いふらさないようにというイエスのお考えは、汚れた霊に対してだけではなく、弟子たちに対しても同じでした。8章27節以降のところで、そのことが、また、このマルコによる福音書におけるイエスの教えの核心となる部分が出てきます。

 8章27節から35節までをお読みします。聖書を空けてみたいと思います。8章27節、新約聖書77ページの上の段、「27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに,『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは,メシアです。」30するとイエスは,御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。続く31節、それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って,弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 
 弟子たちも、イエスをメシアだと正しく告白することはできます。けれども、十字架が理解できませんでした。十字架は罪人の思いを越える神の御業です。イエスの御業が成し遂げられ、復活によって、罪と死が打ち破られて、初めて理解できるのです。イエス キリストに従い行く信仰によって受け入れることのできることなのです。それまでは、誰にも、自分のことを話さないようにと、弟子たちを戒められたと30節にあります。

 大勢集まってくる人々やこの世の成功、称賛に背を向けて、イエスは十字架へと進まれるのです。頭では「イエスが救い主だ」と分かっていても、従っていくことができないのが、この十字架です。しかし、十字架抜きでは、イエスを正しく知り、理解することは、できません。わたしたちは、自分の力だけでは十字架を理解しえないし、ましてや自分の十字架すら負うことができません。罪あるわたしたちには決してできません。

 しかし、そんな中、信仰の決断をして、キリストに自分自身を委ね、キリストに担って頂いたとき、わたしたちは初めて、キリストの十字架によって救われたことを知ることができるのです。キリストに支えられて、一歩一歩、思いも、言葉も、行いも、自分自身のすべてが、キリストの恵みによって支えられ、導かれて、キリストと共に歩み始めていることを知ることができるのです。

 目に見える体は一緒であっても、お互いが理解できていない、共に生きていない現実があります。罪ゆえに、家族ですら危機にさらされています。罪の中で、言葉も業も混乱し、矛盾が生じています。キリストの十字架の赦しによって、わたしたちも、お互いに赦し合い、愛し合うのでなければ、キリストの愛に慰められ、愛に満たされて、互いが本当に向かい合うことも、共に生きていくこともできないのです。

 だから、イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と命じられます。十字架に向かって生きていかれるイエス キリストこそが、わたしたちを救いで満たし、共に生きる恵みを与えてくださる救い主なのです。

 

 

 受難節のこの時、主イエスの恵みを、十字架を通して、深く味わいたいと思います。