聖書の言葉を聴きながら

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「良い知らせを伝える者」(イザヤ書52:1〜12)

  「良い知らせを伝える者」

 

 2021年11月5日(日) 主日礼拝【待降節第2主日礼拝】 

聖書箇所:イザヤ書  52章1節~12節

 

 きょうは待降節第2主日です。

 

 7節に「良い知らせ」という言葉が出てきます。「良い知らせ」とは「福音」のことです。新約には「神の福音」「キリストの福音」という言葉が出てきます。ここでも「良い知らせ」は、神がもたらしてくださる「福音」として語られています。

 

 「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、シオンに向かって呼ばわる。」(7節)

 

 イザヤ書は預言書ですから、きょう読んだ言葉も預言です。預言だということは、まだ実現していない内容だということです。つまり、今はまだ喜べるような状況ではないということです。

 

 まだ喜べるような状況ではないのに、「立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。」(2節)「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」(9節)と呼びかけます。そして「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。」(10節)と語ります。

 

 聖書は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ 11:1)と語ります。イエスも復活を信じられなかったトマスに対して「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ 20:29)と言われました。そしてイエスご自身「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 1:15)と「神の国が来た」ではなく「神の国は近づいた」「まだ来ていない、明らかではない、しかし近づいた」と語られました。

 

 神の民は、神は真実であり、神の言葉も真実であることを信じて生きるために召されました。神はご自身を証しする手段として、神の民が神を信じて生きるという仕方を選ばれたのです。

 

 ここには「贖う」という言葉が出てきます( 9節)。「贖う」というのは、代価を支払って自分のものにすることを言います。当時であれば、奴隷を代価を支払って自分のものにすることを「贖う」と言いました。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」(9節)と告げられています。主ご自身が、ご自分の民を贖われた。つまり、主が代価を支払って、わたしたちをご自分のものとしてくださったのです。

 

 わたしたちは、これがイエス キリストを指し示していることを知っています。神がご自身のひとり子をわたしたちの救いのために贖いとしてくださいました。イエスご自身が言っています。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ 10:45)。神の民は「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ」ました。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ 3:24~25)のです。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得て」(コロサイ 1:14)いるのです。

 

 重ねて申し上げますが、罪によって囚われていたわたしたちを救い出すために、神が代価を支払われたのです。払う必要のない方が、ひとり子の命までかけて救ってくださったのです。

 

 わたしたちが罪に囚われたのは、わたしたちが神の言葉に背き、罪を犯したからです。神にわたしたちの代価を払う責任はありません。けれど、わたしたちを罪から救い出すために、神は囚われから解放する代価としてひとり子を世にお遣わしくださったのです。

 

 そして、その代価は十字架において支払われました。その様は、5節後半から語られているとおりです。「支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえわたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」(5, 6節)。イエスは朝9時から午後3時まで、十字架でさらし者とされました。「支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られ」ました。けれど、イエスが十字架を負い抜いてくださったので、わたしたちは「『見よ、ここにいる』と言う者」が神ご自身であったことを知ったのです。

 

 そして十字架の主を仰ぎ見るとき、救い主が罪のただ中に来てくださり、救いを成し遂げてくださったことを知るのです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ 1:23, イザヤ 7:14)。イエス キリストの救いの御業は、まさに6節の「見よ、ここにいる」という御言葉の成就、預言が出来事となって実現したのです。

 

 「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。」(10節)。

 

 救い出された民は、約束の地を目指して旅立ちます。「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。」(1節)「しかし、急いで出る必要はない/逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」(12節)。主の恵みに、そして主ご自身に包まれ守られて、神の民は歩み続けます。

 

 もう一度言います。これは預言です。この言葉を聞いたとき、この言葉は出来事になっていませんでした。なる気配もありませんでした。神の民は、神の真実を証しするために、見ずして信じること、神を信じて生きることを求められるのです。

 

 神の民は、一人ひとり神の証し人です。わたしたちは「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(7節)者なのです。神の麗しさに与る者たちなのです。

 

 わたしたちは見ずして信じる者。神の真実を証しする者。良い知らせを伝える者。それを確認する時、それが待降節です。

 

 

祈ります。

天の神さま、待降節のこの時、わたしたちの罪のため神さまのひとり子がこの世に来て下さったことを心にとめ、思い巡らし、信じて過ごして行くことが出来ますようにお願いいたします。

このお祈りを、主イエス・キリストの御名よりまして、御前におささげいたします。

アーメン