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「恐れなく喜ぶ」(マルコによる福音書2:18~22)

  「恐れなく喜ぶ」


 2023年1月29日(日) 降誕節後第5主日
聖書箇所:マルコによる福音書  2章18節~22節
 
 ある時、イエスのところに人々がやって来てこう尋ねました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
 ここで断食について問われています。律法では贖罪日に断食することを定めています。贖罪日というのは、1年に1度、全イスラエルの罪を清め贖うための犠牲が捧げられる日です。その他にも哀悼のしるしとして、悔い改めのため、罪の告白と祈りのためなどの時に断食をしました。
 
  ファリサイ派と呼ばれる熱心に律法を守ろうとしていた人々は、もっと頻繁に週に1日ないしは2日断食を行っていました。もちろん罪から離れ、神に従って生きるためです。彼らからするとイエスと弟子たちは罪人や徴税人たちと一緒に食事はする、断食はしない、本当に神に従って生きようとしている人たちなのかどうか分からない、うさん臭い、どうもあやしい、そんなふうに見えたのです。
 また、洗礼者ヨハネの弟子たちも断食をする習慣を持っていました。彼らは悔い改め、神の御前で自らを振り返り、節制して神に従おうとしていました。彼らも断食を全くしないイエスと弟子たちの在り方には疑問を持っていたのかもしれません。
 
  それに対してイエスはこうお答えになりました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
 イエスは断食をすべきではないとは考えていませんでした。ご自身、福音宣教の前に荒れ野で40日間断食をされましたし、今回の答えでも弟子たちが断食する日が来ると言われました。ただし、今はしないのです。それは、今が花婿を迎えた婚礼の時だからです。ユダヤでは婚礼は大変重視されていました。婚礼の祝いは何日も続きましたが、ユダヤ教の教師もこの祝いに参加するため聖書の教育を中断するほどでした。神がなさる祝福の御業の前で日常の事柄を中断して祝いに駆けつけるのです。
 丁度、イエスに従う弟子たちはこの祝いに招かれた客のようなものである、と言われたのです。喜びの場、祝福の場では断食はしないのです。
 
 そして、祝福を注がれ、喜びをもたらす花婿はイエス キリストのことです。
 イエスが来られ、イエスが共におられるとき、わたしたちは日常が中断され、祝いの場へと招かれるのです。
 例えば、礼拝がそれを表しています。日常が中断され、神が備え給う祝福の場へと招かれるのです。そこにはイエス キリストがおられます。キリストを通して神の言葉を親しく聴き、神がわたしたちを愛していてくださること、神がわたしたちの救いの神であることを喜ぶのです。
 そして、礼拝でのキリストとの出会いが、教会においてだけでなく毎日の生活においてもキリストがわたしと共にいてくださり、御手をもって導いていてくださることを知るようになるのです。
 
 礼拝への招きは、イエス キリストとの出会いへの招きであり、祝福への招きです。礼拝へは行かねばならないのではありません。行儀よく静かに座っていなければならないのではありません。眠気をこらえて説教を聴かなければならないのでもありません。
 礼拝への招きは、神の祝福への招きです。
 神の祝福により新しい生活、新しい人生が始まるのです。
 神の愛によってわたしの命が造られました。神は独り子イエス キリストを遣わしてまでわたしを救ってくださいます。神はわたしと共に生きてくださり、わたしを祝福してくださいます。
 神の招きは神を喜ぶことへの招きであり、わたしを喜ぶことへの招きです。
 わたしたちはもっと喜んでいいのです。恐れなく喜んで大丈夫なのです。
 
 しかし、イエスは花婿が奪い取られる時が来ると言われます。その日には、弟子たちは断食することになると言われます。これはご自身の十字架を指して言われた言葉です。わたしたちが本当に恐れなく喜ぶためには、イエスがわたしたちの罪を負わねばなりませんでした。わたしたち自身の罪の重さ、そしてそれに優る神の愛の大きさを知るとき、真の悔い改めをもって断食するのです。
 キリストを信じるゆえになされる断食は、ファリサイ派の断食やヨハネの弟子たちの断食とは違っていました。キリスト者の断食は、自らの清めのための断食ではなく、深い悔い改めと感謝の喜びをもってなされる断食なのです。見た目は同じように見える断食であっても意味は全く違うのです。
 だからイエスはこう言われました。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」
 
 イエスによって全く新しいものが与えられました。
 新しいものを古いもののように取り扱い、一緒にしようとすれば、破れは一層ひどくなってしまう。良さを受け取るどころか、かえってダメにしてしまう。
 律法を守るようにイエスを努力目標にして自分で頑張るのではありません。イエスは律法の一つではありません。
 律法そのものがイエスを指し示し、イエスが来られるのを待ち望んでいました。
 
 そしてこうも言われました。「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
 
 神がついに独り子を遣わされ、救いの約束を成就されたその全く新しい出来事に気づかなければなりません。自分の古い思い、肉の思いにイエス キリストを押し込めようとしてはなりません。イエスを自分の都合に合わせて利用するのではなく、イエスの新しさの中に自分が入っていくのです。
 コリントの信徒への手紙Ⅱにこのように記されています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)
 
 キリストとの出会いの中にわたしたちの新しい命があります。
 それは神が用意してくださった古びることのない新しさ、祝福に満ちた新しさです。
 そこには悔い改めと感謝があります。尽きることのない喜びがあります。
 神ご自身が用意してくださった全く新しい出来事へとわたしたちを招いておられるのです。
 

 

 

長老の祈り
天の神さま、独り子イエスさまを与えてくださり罪に恐れることなく喜んで歩めるようにして下さりありがとうございます。
神さまの招きにこたえつつ、日々を歩んで行くことができますように。
この祈りを主イエスキリストの御名によりましておささげいたします。
アーメン!