聖書の言葉を聴きながら

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「安息日の主」(マルコによる福音書2:23~28)

安息日の主」

 

 2023年2月5日(日) 復活節前第9主日

聖書箇所:マルコによる福音書  2章23節~28節

 

 ある安息日にイエスが麦畑を通って歩いて行かれたときのことです。弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めました。すると,それを見たファリサイ派の人々がイエスに向かって24節「御覧なさい。なぜ,彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問い質しました。弟子たちが麦の穂を摘んだのは明らかに他人の畑でした。しかし,他人の畑の麦の穂を摘んだから非難されたのではありません。申命記23章26節には「隣人の麦畑に入るときは,手で穂を摘んでもよいが,その麦畑で鎌を使ってはならない。」と書かれていて,弟子たちがしたのは許されている行為でした。

 聖書に書かれている律法,戒めにはよく読んでみると面白いもの,なるほどと思わされるものが多くあります。この申命記にある律法も旅人や貧しい人が飢えをしのぐために手で摘んで食べる分には人の麦畑から、もらってもいいと言われているのです。

 この律法の前にはこうも書かれています。「隣人のぶどう畑に入るときは,思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが,籠に入れてはならない。」まさか人の畑から頂くのに「思う存分満足するまで」などと書かれているとは思いませんでした。

 律法は,神に従って歩み,神の許で共に生きるために与えられた恵みの言葉なのです。本来は神の恵みが律法から溢れてくるのです。しかし,わたしたちの罪はその恵みから離れていこうとしてしまいます。

 さて,ファリサイ派の人々がイエスに問い質したのは弟子たちが麦の穂を摘んだのが安息日だったからです。この安息日については十戒の中に出てきます。出エジプト20章8節~11節には次のように記されています「安息日を心に留め,これを聖別せよ。六日の間働いて,何であれあなたの仕事をし,七日目は,あなたの神,主の安息日であるから,いかなる仕事もしてはならない。あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り,七日目に休まれたから,主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 

 ファリサイ派というのは,律法をきちんと守って神の御前で正しい人であろうとする熱心な人たちでした。だから,この戒めも正しく守ろうとしていました。正しく守ろうとするとき,人々は一体何が仕事に当たるのかを考え始めました。ユダヤ教にはミシュナーと呼ばれる聖書の解釈を記した本があるのですが,その中に安息日の規定もあり,そこに安息日にしてはならないことが39書かれています。その中に,種を蒔いたり,刈り入れをしたり,脱穀してはならないという項目があるのです。弟子たちの麦の穂を摘むという行為は,安息日にしてはいけない行為,仕事であるとファリサイ派の人々は考えたのです。

 

 実はファリサイ派の人々のような律法をきちんと守って正しい人であろうとする考えが生じたのには理由があります。かつてユダヤの人々は,神を信頼し,神に従って生きるという神の民の務めを大切にしない時代がありました。丁度,紀元前700年前後の預言者イザヤが預言していた時代です。神が悔い改めを求めて遣わされた預言者の言葉に耳を傾けなかった人々は,ついにはバビロニアによって滅ぼされ,責任ある指導者たちはバビロニアの首都バビロンに連れていかれてしまいました。これをバビロン捕囚と言います。このバビロン捕囚はおよそ50年続きましたが,捕囚の身となった人々は反省をして,きちんと信仰生活を全うしようと考えました。神殿はありませんから,祭儀に関する戒めを守ることはできません。人々は割礼と安息日を守ることを自分たちの信仰のしるしとしました。そして,捕囚が終わってユダヤに戻ってからは、なお一層安息日を守ることを重んじるようになりました。こういう流れの中で,ファリサイ派のような律法を厳格に守り,神の御前で正しい人であろうとする人たちも現れてきたのです。彼らの熱心は,自らの不信仰に対する反省から生まれてきたものであり,神の御前で正しい人であろうとする良い思いによって支えられてきました。

 

 しかし,どこまでもわたしたちはこの世にあっては罪人なのです。キリストによって罪贖われており,赦されており,罪に支配されておりません。けれども,抱えている罪がまるっきり消えてしまった訳ではないのです。信仰から生まれ,良い思いによって支えられてきたものであっても,神の思いそのままということはないのです。わたしたちは絶えず神の言葉によって照らされ,新たに導かれていかねばならないのです。ファリサイ派の人々は,律法に込められた神の恵みを見失っていました。自分を誇り,正しい人であることを満足させるための律法になってしまっていました。

 イエスは過ちに気づかせるためにこう言われました。25節、26節「ダビデが,自分も供の者たちも,食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか,一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき,ダビデは神の家に入り,祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ,一緒にいた者たちにも与えたではないか。」これはサムエル記上21章に記されている出来事です。実はダビデはこの時サウル王に命を狙われており,追われていました。ダビデはうそをついて,祭司が食べることになっている供えのパンをもらい受け,伴の者たちと一緒に食べたのです。あのダビデも律法を破っている,それが聖書に書かれている,神はあなた方が考えているような仕方で律法を守らせようとはしていない,イエスはこのことをファリサイ派の人々に気付かせようとしたのです。うそがいい訳ではなく,律法をないがしろにしていいのでもありません。しかし,律法が守られているかどうか監視したり,自分を誇ったり,自ら満足するような仕方で守られるものではありません。神に従い,神の許で共に生きる恵みとして律法は与えられたのです。

 

 そしてイエスはさらにこう言われました。27節「安息日は,人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから,人の子は安息日の主でもある。」

 安息日は,神がわたしたちに恵みとして与えてくださったものです。人が安息日のためにあるのではありません。

 実に安息日はわたしたちに神の創造の御業と救いの御業とを覚えさせてくれる時であります。創世記1章27節以下を見ると次のように記されています。神は創造の第六日に「御自分にかたどって人を創造され」(27節)「祝福」(28節)されたのです。そして第七日に「神はすべての創造の仕事を離れ,安息なさ」り,「第七の日を神は祝福し,聖別され」(2章3節)たのです。神は共に生きるわたしたちのためにすべてを整えてくださり,神の祝福と安息の憩いの中へと導いてくださるのです。わたしたちは主の日ごとに過ぎし週も,そして来る週も主がわたしたちを祝福してくださり,御業をなしてくださり,わたしたちを主の許にある安息の憩いへと導いてくださることを覚えるのです。

 十戒出エジプト記だけでなく申命記にも書かれているのですが,その申命記5章12節~15節には安息日の戒めとして次のように記されています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神,主が命じられたとおりに。六日の間働いて,何であれあなたの仕事をし,七日目は,あなたの神,主の安息日であるから,いかなる仕事もしてはならない。あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,牛,ろばなどすべての家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば,あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが,あなたの神,主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために,あなたの神,主は安息日を守るよう命じられたのである。」

 

 奴隷として苦しんでいた民を主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された,つまり神が救いの御業をなし、神がわたしたちを救ってくださった,そのことを思い起こす日として安息日が与えられているのです。安息日ごとに神は変わらずにわたしたちの救いの神であることを確認させてくださるのです。そしてその救いの恵みは,あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,牛,ろばなどすべての家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々,つまり神の民と共に生きるすべての人々に与えられ,差し出されているのです。この神が今もわたしたちのために創造の御業をなしてくださり,今でも,そしてこれからも救いの神であってくださることの確かなしるしとして安息日が与えられたのです。まさしく,安息日は恵みとして人のために定められたのであり,決して人が安息日のためにあるのではないのです。

 

 そしてイエスは最後にとても大事なことを言われました。28節「だから,人の子は安息日の主でもある。」人の子というのは,イエスがご自分を指して使われた言葉で,当時救い主を指す言葉として用いられていました。ですからこの言葉は,救い主であるイエスご自身が安息日の主であるということを言っているのです。

 それは,イエスご自身の十字架と復活によってわたしたちを罪から救い出し,わたしたちをご自身の姿と同じくなるその日まで日々新しくしてくださるからです。

 安息日がわたしたちに示す創造と救いの御業は,イエス キリストにおいて成し遂げられ,なされ続けているからなのです。ですから,安息日において最も大切なのは,安息日の主であるイエス キリストと出会い,イエス キリストと共にあるということ,イエス キリストを喜ぶということなのです。礼拝は,祈りも讃美も説教も,そのすべてはイエス キリストとの出会いのために備えられいるのです。

 

 わたしたちを礼拝に招いてくださった主,わたしたちを罪から救い,日々新たにしてくださる主,ご自身の命の恵みを惜しみなく注ぎ続けてくださる主,この主イエス キリストとの出会い,その恵み,喜びが皆さん一人ひとりに豊かに注がれることを心から祈ります。