聖書の言葉を聴きながら

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「苦難の僕、主イエス・キリスト」(ルカによる福音書23:32~38)

  「苦難の僕、主イエス・キリスト

 

 2022年2月27日(日) 復活節前第7主日 

聖書箇所:ルカによる福音書 23章32節~38節

 

 イエスが十字架に付けられます。他に二人の犯罪人も、イエスと共に刑を受けるため、刑場へと引かれていきました。

 

 イザヤ書 53章12節にはこう書かれています。「わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

 

 イエスは多くの人の罪を贖い、自分の民とするために、十字架を負われました。

 

 当時、刑場となっていたのは、「されこうべ(髑髏)」と呼ばれている場所でした。他のマタイ、マルコ、ヨハネの三つの福音書はこの場所の「ゴルゴタ」という呼び名を記しています。ローマの人々に向けて編纂されたルカによる福音書は、おそらくローマの人々にはゴルゴタという通称を知らせる必要を感じなかったのでしょう。

 

 その場所で、イエスを連れて来たローマ兵たちは、イエスを十字架に付け、二人の犯罪人も一人はイエスの右に、もう一人は左に十字架に付けました。

 

 そのときイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、自分を十字架に付ける者たちのために執り成しの祈りを献げました。

 

 この箇所は私たちが使っている新共同訳聖書では、〔 〕に入れられています。新共同訳の凡例を見ますと「後代の加筆とみられているが、年代的に古く重要である箇所を示す」とあります。ここでこの箇所が後代の加筆かどうか論じるのは、福音書が伝えようとしているメッセージから離れていってしまうので、適当ではありません。それは説教ではなく、聖書研究の務めです。わたしはこのままイエスの祈りとして聞いていますが、その理由として二つをお伝えしておきます。

 

 一つは、聖書の底本を確定するために日夜研究している聖書学者たちが本文から外さず、括弧に入れてでも本文に残したということ。

 

 もう一つは、ルカがこの福音書に続いて編纂した使徒言行録において、ステパノが石で打たれて殺される場面で、ステパノの「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒 7:60)という祈りを記しています。これは主イエスの十字架の祈りに導かれたからこそ祈られた祈りだと思うからです。

 

 イエス キリストがわたしたちの救い主として、わたしたちの罪を負ってくださったことと、わたしたちの救いのために執り成していてくださることを証しする祈りがこの祈りです。イエスが主であってくださるので、わたしたちキリスト者は、主の贖いと執り成しとに与って、救いの御業に仕え、わたしたち自身も執り成しの祈りを献げていくのです。

 

 さて、人々はイエスの十字架のもとでイエスの衣服を分けようとして、くじを引いていました。詩篇 22編19節には「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」と書かれています。ここでもキリストの十字架において旧約の言葉が成就したのです。旧約は来たるべき救い主イエス キリストを指し示していたのです。

 

 そして、最高法院の議員たちは、イエスをあざ笑って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 

 最高法院の議員たちは、神の民イスラエルを神の言葉に従って導く務めを負う者です。ですから、一般の人よりも神の言葉に親しんでいる人たちです。

 

 彼らはイエスをメシア、選ばれた者と言っています。メシアというのはヘギリシア語でキリスト、油注がれた者という意味です。油注がれた者とは、神によって務めに選び出された者のことです。

 

 きょうの冒頭の箇所で、イザヤ書 53章12節を引用しました。「わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」これはイザヤ書の中でも「主の僕の歌」と呼ばれるものの一節です。この主の僕の歌の冒頭(42章1節)で、神はこう言われました。「見よ、私の僕、わたしが支える者を、わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」

 

 神が支持する主の僕、神が喜ぶ神が選ばれた僕は、苦難の僕です。彼は、自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられました。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしました。主の僕は、苦難を担い、自らを献げ、執り成しをしたので、彼は神からおびただしい人を自分の民として受け取りました。

 

 主の僕は、自分を救うために選ばれたのではなく、自分を救うために遣わされたのではないのです。神の民を、そして神が造られた世を救うために、苦難を担い、命を献げるのです。

 

 議員たちは、神の言葉に親しんでいても、神の御心を理解していませんでした。ローマの兵士たちも同じです。彼らもイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒を突きつけながら言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 

 神を知らず、神を求めない者は、罪によって信仰の目、心の目が閉ざされ、神の御心を理解できません。

 

 しかし、そのような罪をも贖い、救いの御業を成し遂げられる神は、イエス キリストの十字架において、ご自身の約束が成就し、神の真実が全うされたことを証しされます。嘲りのただ中で、一言も発しませんが、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書かれた札が、十字架の最初から最後まで掲げられ、証ししていたのです。

 

 神の真実は、どれほどの時が経とうと、朽ちることなく、空しくなることなく、罪の世の闇の中で光り続け、神を証しし続けています。

 

 イエス キリストこそ、自分の救い主であり、真実の王と信じる者は、神がなしてくださったこのキリストの救いに与るのです。

 

 

 

祈ります。

父なる神さま、今この世は渾沌の中にあります。どこに真実があるのか分からなくなるような状態です。

しかし、そのような中にあってもイエス様はその身をもって救いの約束を示してくださいました。ただその約束に依り頼み日々を歩んで行くことが出来ますように切にお願いいたします。

この祈りを、貴き主イエス・キリストの御名によりましておささげいたします。

アーメン!