聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 95

マタイによる福音書 10章 42節~11章 1節(聖書協会共同訳)


 わたしがキリストを信じるとき、わたしが救われるだけではない。キリストの弟子であるこのわたしにされたことは、たとえ冷たい水一杯であっても、キリストが報いてくださる。わたしが報いることができなくても、わたしが忘れてしまっても、キリストが必ず報いてくださる。
 わたしがキリストを信じるとき、神の救いの御業のために用いられ、神の恵みは広く広く注がれていくのである。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 54

申命記 7章 6~8節(聖書協会共同訳)

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。
あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった。
ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、また、あなたがたの先祖に誓われた誓いを守るために、主は力強い手によってあなたがたを導き出し、奴隷の家、エジプトの王ファラオの手から、あなたを贖い出したのである。


 神はわたしたちを宝の民としてくださった。わたしたちに対する愛の故に。神の御業の根柢にはわたしたちに対する愛がある。神が愛されるが故にわたしたちも神を愛するのである。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一 4:10)
「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一 4:19)


ハレルヤ

 

ローマの信徒への手紙 8:1〜4

2020年6月3日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 8:1〜4(新共同訳)


 「従って」とパウロは言います。
 パウロは3章(21節)からずっと「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)について語ってきました。
 言葉を尽くして「キリストによる義」を語ってきたことを踏まえてパウロは言います。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

 「キリスト・イエスに結ばれている」とは、キリストを救い主と信じる信仰によってイエス キリストご自身のただ中に入れられていることを表しています。
 新約が書かれているギリシャ語では「エン クリストォ イエスゥ」英語だと「in Christ Jesus」一番新しい「聖書協会共同訳」では「キリスト・イエスにある者」となっています。これは、イエス キリストご自身、つまりイエス キリストの救いの恵みに頭のてっぺんから足の先まで、前も後も、右も左も、上も下も、イエス キリストに包まれていることを表します。一部分でイエスとつながっているのではなく、自分という存在が丸ごと、欠けなくキリストの救いに与っているのです。自分自身のどこをとってもキリストの救いが満ちているのです。キリストの救いが及ばないところはもはやわたしにはないのです。だから「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる」ことがないのです。イエス キリストによって罪が贖われ、義とされたのです。

 パウロはさらに言います。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
 すべての人に影響を及ぼす法則というものがあります。たとえば重力の法則。この地上で生きる限り、すべての人が重力の法則の影響下で生きています。同様にすべての人に明らかなのが、死の法則です。すべての人が必ず死を迎えます。そして、信仰を持つ人、聖書を神の言葉と信じる人なら分かるのが、罪と死の法則であり、命をもたらす霊の法則です。
 聖書に導かれる人は、死が罪によってもたらされたことを知っています。神と共に歩めなくなった罪を抱えてしまったがゆえに、命の源である神から離れてついに死に至るのです。善人であっても誠実な人、親切な人であっても、罪を抱えてしまったがゆえに死に至るのです。
 その誰をも支配する罪と死の法則を打ち破るのが、命をもたらす霊の法則です。この命をもたらす霊とは、聖霊のことです。聖霊なる神が、わたしたちをイエス キリストのただ中へ導き入れ、キリストの復活の命、永遠の命に至らせてくださいます。ですから、この罪と死の法則に勝利する法則は「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」と呼ばれているのです。命をもたらす霊、聖霊が働いてくださるとき、死から命へとわたしたちを支配するものが大転換するのです。

 続けてパウロは言います。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。
 「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」とは、罪を取り除くことです。律法は罪を指摘します。そして罪の贖いが必要であることを教えてきました。旧約には数多くの贖いの規定があります。わたしたちは贖われなければならない罪人です。しかし、罪人が律法をなすことによって罪そのものを取り除くことはできません。罪がなくなるということは、神の御心に生きるということです。律法に全精力を注ぎ込んだ律法学者やファリサイ派でさえ、イエスに「偽善者」と言われてしまいます。罪を抱えたまま自分の努力で神の御心に生きることはできません。
 この罪を取り除くことを、神は救いの御業としてなしてくださいました。神は、御子を人としてこの世に送り、人の罪を人となられた罪なき御子イエス キリストにおいて裁かれました。神が罪に決着をつけてくださったのです。神が罪を裁いて、けりをつけてくださったのです。

 「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」
 律法の要求とは、神との正しい関係です。神と共にあり、神に依り頼み、神に導かれて生きることです。自分の善悪を離れて、神の御心を祈り求めるのです。そのために神は罪を裁いて、わたしたちを罪から解放してくださったのです。イエス キリストのただ中にあって神の子とされ、新しくされて、イエス キリストのただ中で恵みから恵みへと生きるのです。神の恵みの中にあってこそ、律法の要求=神の御心は満たされるのです。

 教会は、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩めるように、神から託された務めをなします。礼拝を中心に、祈りをささげ、御言葉を学び、福音を宣べ伝え、聖徒の交わりをなしていきます。すべては、神の御業に応えて、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩むためであり、神がわたしたちと共にいてくださることを感謝し、神を喜び讃えるためです。

 教会は、わたしたちの自由にすることはできません。教会もわたしたち自身も、神のものです。キリストがその命をかけて贖い取ってくださったものです。キリストがこの教会の、そしてわたしたちの主であります。神に献げ、神に従って歩むのです。
 神と共にあるところに救いがあり幸いがある、それこそが教会が証しする事柄、教会に託された聖なる務めなのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたち一人一人を、そしてわたしたちの教会を、イエス キリストのただ中に置いてください。キリストの恵みに包まれて、感謝と喜びをもって歩ませてください。父・子・聖霊なる神を証しし、救いの御業のために清め整えてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖句で辿る聖書 110

レビ記 20章 4~5節(聖書協会共同訳)


 もし自分の子どもをモレク神に献げた者に対して、この地の民があえて目をつぶり、その者を死刑にしないなら、私はその者とその家族に顔を向ける。その者だけではなく、その者に倣い、モレク神を慕って淫らなことをするすべての者を、民の中から絶つ。


 子ども犠牲に献げる(生け贄とする)信仰があったようである。神は子どもを犠牲にすることを禁じられる。それを知りながら見過ごすことも禁じられる。子どもは共同体の中で守られなくてはならない。


ハレルヤ

 

ヨハネによる福音書 20:19〜23

2020年5月31日(日)主日礼拝  聖霊降臨節
聖書:ヨハネによる福音書 20:19〜23(新共同訳)


 その日、すなわち週の初めの日の夕方。これはイエスが復活された日曜日の夕方のことです。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。
 金曜日にイエスが十字架に付けられ殺されました。安息日である土曜日があけて、ユダヤ教の指導者たちが今度はイエスの弟子たちを捕らえ、殺そうとしているかもしれません。彼らは人目につかないように注意をはらい、家の戸の鍵もかけていました。
 すると、そこへイエスが来て真ん中に立たれて「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れに捕らわれ、全く平和ではない弟子たちに語りかけられました。そして、釘打たれた手と槍で刺されたわき腹とをお見せになりました。十字架に掛けられ葬られたイエスが、死を打ち破り復活されたのです。閉ざされた扉も、鍵も、妨げることはできません。

 「平和があるように」とイエスは言われます。新約はギリシャ語で書かれています。ここではギリシャ語で平和を表す「エイレーネー」という言葉が使われています。しかしイエスが話しておられたのはギリシャ語ではありません。最初期にキリストが伝えられたのは、ギリシャ語が共通語として語られる世界でした。ですから新約はギリシャ語で書かれました。しかしイエスが話しておられたのはおそらくアラム語でした。アラム語というのは、かつてシリアやメソポタミアで紀元前1000年ごろから紀元600年頃まで広く話されており、現在でもレバノンなどで話されている言葉です。ですがイエスがこの場面で語られたのは、ヘブライ語のシャロームだろうと思います。シャロームは挨拶の言葉として日常使われていましたので、ここでイエスが使われたのはヘブライ語のシャロームであろうと思います。シャロームは、相手の平和を祈る好意と祝福を表す挨拶です。しかし、イエスのこの言葉は、単なる挨拶ではなく、文字通り平和をもたらすために語られたのです。

 聖書においてこの平和という言葉は、神との正しい関係にあるものに約束されたものでした。
 イエスが弟子たちの真ん中に来られて「あなたがたに平和があるように」と言われたとき、手とわき腹とをお見せになりましたが、これは今目の前にいるのが間違いなく彼らの知っているイエスであることを証しすると同時に、イエス キリストの裂かれた肉、流された血、すなわちキリストご自身の命によって罪が贖われ、神との平和がもたらされる証しなのです。
 十字架へと進み行かれるイエス キリストを見捨てて逃げ去るより他なかった弟子たちの所へ、キリストご自身が来てくださって「あなたがたに平和があるように」と語り、招いてくださるのです。平和はキリストのもとにあり、キリストから注がれるのです。この平和は、キリストが命をかけてわたしたちのために獲得してくださったものです。逃げ去り、おびえている弟子たちにも差し出され、招かれます。どんな罪や弱さをも超えてキリストの平和は差し出されているのです。そしてイエスご自身にわたしたちは招かれているのです。

 聖晩餐は、その目に見えるしるしです。キリストの肉と血がわたしたちの前に差し出され、キリストご自身の命によって平和が差し出され、平和へと招かれているのです。ローマの信徒への手紙にはこうあります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマ 5:1~2)「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」(ローマ 5:10~11)
 弟子たちは主を見て喜びました。イエスが死を打ち破って復活され、平和を告げてくださいました。イエスは弟子たちを恐れから平和へと導かれました。

 その弟子たちにイエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 もう一度その事柄を確認するようにイエスは「平和があるように」と言われました。そしてそれに続く言葉は、キリストの平和に与る者はキリストの務めを担うことを明らかにしました。聖書における平和は、神との正しい関係にある者に約束されたものだと申しました。神との正しい関係にある者は、神と共に生き、神の御業に仕える務めに召されているのです。

 しかし、イエスのもとから逃げ去るしかなかった弟子たちにキリストの務めが担えるのでしょうか。
 たとえ復活のキリストに出会い、キリストを捨てて逃げたことを心から反省し、悔い改めたとしても、弟子たち自身の力によるのだとしたら担えないと言うほかはありません。神の務めを担うのは、人間の善意や良心、真心によってできるものではありません。神と共に歩み、神に用いられ祝福して頂くのでなければ、なすことのできない務めです。だからイエスは、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。

 聖霊なる神は、キリストとわたしたちとを一つにし、キリストの恵みをわたしたちのものとし、神と結び合わせてくださいます。創世記には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2章7節)とあります。神の息、神の霊を受けて、神にかたどられて造られた人は生きるものとなりました。キリストの救いがなされ、キリストの新たな命に生き始めるときにも神の霊、聖霊が注がれるのです。
 わたしたちはキリストに出会い、キリストを通して父なる神の愛を知り、父なる神がキリストの名によって遣わされる聖霊ヨハネ 14:26)を受けるのです。こうして父・子・聖霊なる神の交わりの中に入れられ、神と共に歩みつつ神の務めを果たすのです。

 イエスは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言って、イエスご自身が託され担われてきた救いの務めを弟子たちに託します。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」罪の赦しの務めが弟子たちに託されました。
 これは神の民に託された第一の務めです。神の民がするのでなければ、誰もすることがない神の民固有の務めです。何が罪なのか、どこに救いがあるのかを明らかにし、人々がキリストの平和に与っていけるようにしなければなりません。この務めが弟子たちに託され、今教会に託されているのです。
 この務めを担うためには、務めを担う者自身キリストの平和に与らなくてはなりません。キリストを仰ぎ、キリストの傷を見、「あなたがたに平和があるように」と言われるキリストの声を聴いて、差し出された平和を受け取って招きに応えなければなりません。聖霊を注いで頂かなくてはなりません。

 イエスは「あなたがたに平和があるように」と二度念を押すように言われました。神の平和の内に生きよ、神と共に生きよ、とイエスは招いておられます。平和はものではありません。共に生きる関係の中に平和は生まれてきます。イエスは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)さらに多くの人を平和に与らせるために、イエスは平和をつくり出す務めを託して弟子たちを遣わされるのです。

 命も救いも平和も、すべてはキリストから生まれます。そしてイエスは「受けよ」と言われます。イエスは十字架を負い、命さえも与えてくださいました。息を吹きかけ聖霊を与えてくださいます。わたしたちを神の子とし、神を父と呼べるようにしてくださいました。イエスはわたしたちの喜びのためにすべてを与えてくださいます。だからイエスが与えられる務めもまたわたしたちの喜びのためなのです。
 祈りつつ仕えていきましょう。イエスが与えられた務めは、わたしたちの力で成し遂げられるものではありません。神と共に歩み、神が祝福してくださるところで出来事と成っていきます。神は今も生きて働いておられます。代々の聖徒たちと共にわたしたちも「主は生きておられる」と讃えつつ仕えるのです。わたしたちは神の証人、神の恵みの証し人として神の平和の中に招き入れられたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この年も心新たに聖霊が注がれる恵みを覚えることができて感謝します。あなたが与えてくださる恵みを受けて生きることができますように。与えられた務めをそれぞれが祈りつつ担っていくことができますように。どうかあなたの平和をもたらし、あなたに在る喜びに与らせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

5/31から通常の礼拝に戻ります

 新型コロナウィルス感染拡大に伴って、礼拝に集うのを控えてもらい、集会を休会にしてきましたが、5/31(日)から礼拝に集ってもらう通常の礼拝に戻します。
 この間、礼拝説教も通常の続きではなく、『はじめてのカテキズム』を用いた説教を行いましたが、通常の礼拝に戻すのに伴い、以前からの続きのヨハネによる福音書とローマの信徒への手紙の説教に戻します。
 また機会があれば、カテキズムによる説教をしてみたいと思います。

 

聖書通読のために 94

マタイによる福音書 10章 40~41節(聖書協会共同訳)


 イエスは「見えない神のかたち」(コロサイ 1:15)である。イエスを信じるとき、神を信じており、イエスを受け入れるとき、神を受け入れる。
 イエスは遣わした弟子たちを受け入れる者は、イエス自身を受け入れることになり、受け入れた者は遣わされた弟子たちと同じ報いを受ける、と言われる。
 神は遣わされる。遣わした者を通して新たな関係を造り出していかれる。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)