聖書の言葉を聴きながら

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マタイによる福音書 27:32〜54

2020年4月5日(日)主日礼拝  
聖書:マタイによる福音書 27:32~54(新共同訳)


 今週は受難節最後の週、受難週です。今週の金曜日が、キリストの十字架を記念する受苦日です。きょうはキリストの十字架の場面をマタイによる福音書から聞いてまいります。

 イエスゴルゴタという処刑場に連れて行かれます。ゴルゴタというのは聖書にあるように「されこうべの場所」という意味です。
 わたしはこの十字架の場面以外でされこうべという言葉を使うことがありません。若い人はもはや使わない日本語かもしれません。訳によっては「髑髏」としているものもあります。ここは小さな丘で、二つの洞穴があり、それが頭蓋骨の目のところのように見えると言われています。(新共同訳聖書 聖書辞典、新教出版社

 兵士たちは「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとします。これは痛みをやわらげる麻酔の効果があると考えられていたものです。十字架に付けるため手と足に釘を打ち込みますから、騒ぎ暴れるのを抑えるためでしょう。しかしイエスはなめただけで、飲もうとされませんでした。

 兵士たちは「イエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合いそこに座って見張りをして」いました(35, 36節)。
 「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書き」が掲げられていました(37節)エルサレムの指導者たちは王に従う者ではなく、自分たちが王として振る舞うために真の王であるイエスを亡き者としたのです。
 「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられて」いました(38節)。

 十字架の前を通り過ぎる者たちは「頭を振りながらイエスをののしって]言います。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしりました。

 ここには人間にとって最も辛いことが、凝縮されているかのようです。理解されない、拒絶される、捨てられる、あざけられる、あなどられる。肉体的な痛みと精神的な苦しみのすべてがイエスの十字架に注がれました。
 ペトロの手紙一はイエスの十字架を次のように語ります。「『この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペトロ 2:22~24)
 罪がわたしたちにもたらしたすべての痛み・苦しみをイエスは負ってくださったのです。わたしたちが義によって生きるようになるためです。わたしたちが生きるための主の十字架なのです。主の十字架によってわたしたちは罪から救い出され、支えられて生きるのです。

 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで」続きました。これは「まことの光」(ヨハネ 1:9)であるイエス キリストを拒絶し捨てたことのしるしです。
 そして「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれ」ました。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味」です。裁かれるべきわたしたちに代わってイエスは神に捨てられてくださいました。この言葉は神に捨てられたと感じる人々、神はもうわたしを顧みてくださらないと感じるすべての人々の思いを担って祈られた祈りです。イエスはすべての人に代わって神に裁かれたのです。

 「そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者も」いました。」当時、苦しむ正しき人にはエリヤが天から助けに来る、という信仰があったようです。
 ある人が「すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませよう」としました。けれど「『待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう』」と言う者たちもいました。
 酸いぶどう酒とは酸っぱいぶどう酒のことです。英語の訳を見ますと、ビネガーと訳されているものもあります。ワインから作った酢、ワインビネガーのようなものでしょう。これは苦しみを軽減するものと考える人もいたようです。苦しみが軽減されればエリヤが来ないかもしれないので「待て」と言ったのでしょう。
 「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られ」ました。(45~50)

 すると、イエスが十字架を全うされたしるしがいくつか起こりました。
 マタイによる福音書は、イエスにおいて旧約が成就したことを伝えようと編纂されています。
 第一に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。この垂れ幕は至聖所の入口にかかる垂れ幕と言われています。イエスの十字架による完全な贖いによってもはや贖いが必要なくなったことのしるしです。
 第二に「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れ」ました。イエスの十字架によって罪が贖われたために、罪がもたらした死が取り除かれたしるしです。
 第三に「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と」告白をします。彼らはユダヤ人たちがどういう罪状でイエスを訴えたか知っていました。彼らは神の言葉(旧約)について何も知りませんでしたが、自分たちが目の当たりにしたイエスの十字架とそのしるしを見て、恐れを感じてイエスは「本当に神の子だった」と告白しました。「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ 45:22)という御言葉の成就のしるしです。

 「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守って」いました。
 イエスが十字架に掛かられたのが紀元30年頃、マタイによる福音書が編纂されたのが紀元80年頃と考えられています。ここには50年ほどの時間がありますが、その間に十字架の目撃者、イエスの証人たちが口伝で伝えていたものが、次第に福音を伝える資料として書き記され、福音書に編纂されていったと考えられています。
 イエスが十字架で死んだという事実が、旧約の成就であるというのは信仰の理解です。ほとんどの人は十字架で信じることはできませんでした。その十字架が教会のしるしとなりました。神のわたしたちを救うという思いが真実であり、イエスが救いを成し遂げてくださったことを聖霊が教えてくださったのです。イエスの十字架が神の救いの御業であることを聖書は証ししています。だからこそ聖書は神の言葉なのです。

 イエス キリストの十字架こそ、あなたのための救いの御業だと、神は語りかけ、わたしたちを救いへと招いていてくださるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが成し遂げてくださったわたしたちの救い、イエス キリストの十字架を聞くことができて感謝します。御子の命までかけてわたしたちに与えようとしてくださる救いの恵みを心開いて受けることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 7:21〜25

2020年4月1日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:21〜25(新共同訳)


 この手紙を書きましたパウロは、元々ユダヤ教ファリサイ派に属していました。ファリサイ派というのは、律法を日常生活において厳格に守ろうとした人々です。パウロファリサイ派の一員として生きていたときには、律法に関して非の打ち所のない者だと確信していました(フィリピ 3:6)。

 しかし、イエス キリストと出会い、イエスが救い主(キリスト)であることを知って、今まで確信を持っていた自分の信仰が、救い主を理解できない、救い主を拒絶してしまう誤った信仰であったことに気づきます。
 そして、イエス キリストを信じたとき、それまで執着していた自分から解放されていったのです。
 ファリサイ派は、律法をちゃんと守っている自分が大事です。律法を守っている自分が誇りです。律法主義は、自分が律法を守っていることを神に評価されること、律法を守っている自分が誇りであること、律法を軽んじ守らない者を裁く(見下す)ことがセットになっています。
 それが、イエス キリストを信じたとき、律法主義から解放され、自分から自由になるのです。そして自分自身を新たに見ることができるようになったのです。

 パウロは、自分の(誇りを得る)ために律法を守るするのではなく、神の救いの恵みから自分自身を知っていったのです。
 アメリカ合衆国長老教会の子ども向けカテキズムも「あなたは誰ですか」という問いを立て、それにわたしは「わたしを愛してくださる神さまのものだ」と答えています(『みんなのカテキズム』一麦出版社)。神の恵みの中でこそ、わたしたちは自分自身が何者であるかを知るのです。

 パウロはキリストと出会い、キリストを信じたので、もはや自分で自分の正しさを弁明する必要がいっさいなくなりました。パウロはキリストの救いの中から自分を理解していきます。
 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」(21節)。パウロは善をなしたい、神の御心に従いたいと願っています。
 「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(22~23節)。パウロは、神に従いたい内なる自分と、罪を抱え込み神に従えない自分がいるのに気づきます。その両者が分離できずに共存しているということに気づきます。自分は罪人であることをやめられないのです。

 ちなみに律法と法則という言葉が出てきますが、これはどちらも同じ単語「ノモス」という言葉です。日本語だと律法は神の戒めを指す特別な言葉なので、文脈によって律法と法則と訳し分けています。

 近代哲学の父と呼ばれたデカルトは「我思う故に我あり」と言いましたが、わたしたちはこの「我思う」をやめられません。神の御心とは違う自分の善悪で考えることをやめられないのです。自分は自分であることをやめられません。
 神は、わたしたちをロボットのようには造られませんでした。神の命令に機械的に従うものではなく、神の思いを受け止め、理解して、神に従う決断をするもの、つまり神を愛するものとしてわたしたちを造られました。けれど、そこに罪が入り込んできたため、神を愛し、神と共に生きることができなくなってしまいました。

 古来、自分自身への執着を断ち切り、神や仏と一体になる、宇宙を動かす真理と一体になるための修行が、宗教(清めの儀式、修験道、座禅など)やヨガ、気功、あるいは武術(武を通して天人合一を目指す)などで行われてきました。自分自身への執着を断ち切ることが大事だということに気づいていました。わたしはこの分野に興味があるので、それぞれの分野の達人たちのエピソードを読んできました。それぞれに驚くべきエピソードがありますが、しかし死を打ち破って復活した人はありません。古来人類が様々に積み上げてきた修行では、罪がもたらす死の問題を解決することはできません。
 神は、修行など人間の努力の先で救いに至るのではなく、神の救いの御業、神の恵みの中で、キリストと一つにされることによって、罪ある自分自身から解放され、神の子として新しく生きる道を与えてくださいました。それが、イエス キリストの福音として、聖書が語り、教会が宣べ伝えてきた事柄です。

 わたしたちは、神が与えてくださる救いが確かだからこそ、罪人である自分自身を絶望することなく知ることができるのです。パウロは言います。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)。
 これは、救いを知っているからこそ言える言葉です。救いを知っているからこそ、罪がもたらす悲惨をごまかさずに受け止めることができるのです。

 だからパウロはすぐに続けて言います。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)。パウロは知ったのです。イエス キリストこそが罪からの救いを与えてくださるのです。
 これには、パウロファリサイ派であったことも関係しているのではないかと思います。パウロは、祈りや断食、施しを含む律法に従うという言わば修行のような生活をしてきました。しかしそれではキリストを理解することができませんでした。パウロは自らの努力、熱心の延長で救いに到達するのではないということに気づかされたのです。
 さらにパウロは、キリストの十字架と復活を知っています。そして、復活のキリストとの出会いが決定的でした。それは人の思いを超え、罪さえも超えて、神が人間の歩みの中に、わたしの人生に入ってきてくださり、わたしと出会い、救いの御業をなしてくださる証しです。キリストは、誰かが来てほしいと願ったから世に来られたのではありません。弟子たちも復活してほしいとは願いませんでした。パウロは、キリストの迫害者で、キリストと出会いたいなどとはこれっぽっちも思っていませんでした。けれどキリストは来てくださり、出会ってくださったのです。神が、わたしの人生、わたしの命に決定的な関わりを持ってくださるのです。

 今わたしはいろいろと説明しました。しかしパウロは、イエス キリストに圧倒され、イエス キリストの恵みに包み込まれています。だから、言葉になりません。これまでくどいくらいに語ってきたのに、あまりの素っ気なさです。しかし、この言葉は、この手紙のすべての言葉を込めたパウロ信仰告白です。
 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)。

 だからパウロは、救いの平安の中で自らについて語ります。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(25節)。
 人は自分に都合の悪いことから目を背けようとします。古くから「縁起でもない」と言って都合の悪いことは言葉にしないようにしてきました。最近では、都合の悪いこと、マイナスなことは考えずに、もっとポジティブに行こうなどと言われます。また自虐史観だとか言って、都合の悪い歴史から目を背けます。日本の技術はすごい、日本人は素晴らしい、クールジャパンと言って、神ではなく日本人であることを誇りとして生きていこうとします。
 しかしそのようなことでは罪から解放されません。病気になって症状が出ているのに、都合の悪いことから目を背け、考えないようにしていたら、病気は進行し、大変なことになってしまいます。

 罪から救われるためには、罪を知らなくてはなりません。そのためには、矛盾するようですが、救いに満たされることが必要なのです。キリストの救いに満たされていくとき、わたしたちはそこで初めて自分の罪を知ることができるのです。なぜなら、罪に対する確かな赦しを神ご自身が備えていてくださることをキリストにあって知るからです。救いの恵みに守られ支えられて初めて、わたしたちは自分自身というものを知ることができるのです。

 わたしたちは、キリストを知るとき、救い主と出会うとき、神がこのわたしを知っていてくださり、愛していてくださること、このわたしを救ってくださることを信じることができるのです。復活のキリストは、わたしたちに喜びと平安を与えてくださるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは本当にわたしたちを知っていてくださいます。そして本当に依り頼むことのできる救い主を遣わしてくださいました。どうかわたしたちもパウロと同じ平安と喜びに与らせてください。あなたがよかったと喜んでくださった自分自身を知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

マタイによる福音書 20:17〜28

2020年3月29日(日)主日礼拝  
聖書:マタイによる福音書 20:17~28(新共同訳)


 教会には教会暦という暦があります。キリストの生涯の主な出来事を、1年を通して記念していく暦です。今は受難節です。今年は4/10(金)がキリストの十字架を記念する受苦日です。きょうと来週は、キリストの受難について聞いていきたいと思います。

 イエスは十字架を負うためエルサレムに向かいます。その途中、イエスは十二人の弟子だけを呼び寄せて話をされました。それは今回の目的である十字架の話でした。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(18, 19節)
 エルサレムで、イエスは祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、彼らはイエスに死刑を宣告すると言うのです。祭司長や律法学者は旧約の民イスラエルの指導者ですから、本来なら一番イエスを理解し、受け入れなければならない人たちです。しかし彼らはイエスを理解し受け入れるどころか、拒絶し死刑にするためローマ帝国の総督ピラトに引き渡すと言うのです。神の民であっても、罪人は神を拒絶し、背を向けるのです。神に従うのではなく、神から自由になって自分の思いのままに生きることを求めるのです。

 ところで、イエスが十字架と復活の話をされるのは3度目です。(16:21、17:22~23参照)弟子たちにしても理解しがたい、受け入れがたい話です。けれどイエスを理解するには欠かすことのできない話を、イエスは繰り返し話されました。

 そのときゼベダイの息子たちヤコブヨハネの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。そこでイエスは「何が望みか」と尋ねました。二人の母は言います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」(21節)
 イエスが話された十字架と復活の話をどれだけ理解できたかは分かりませんが、この親子はイエスが王座に着かれる日が近いのだろうと感じました。そこでその日には、二人の息子がイエスの両脇に、イエスに次ぐ地位に就けることを願ったのです。
 神の国到来のときにイエスのそば近くで共にいるというのは、よい願いであろうと思います。しかしイエスは言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(22節)
 杯というのは、神から与えられる苦しみ・苦難を表します。二人はすぐさま「できます」と答えます。イエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われます。これはヤコブは最初の殉教者となり(使徒 12:2)、ヨハネはパトモス島に流刑となり、そこでヨハネの黙示録を記した(黙示録 1:9)と言い伝えられている二人の苦難を示していると言われます。
 しかし続けて「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(23節)と言われます。ここでイエスは、罪に背を向け、神に従う信仰の姿勢を明らかにされます。イエスは、神の御心に従えない罪を贖うため、わたしたちに代わって神に従ってくださいました。御心に背かず、つまり罪を犯さず神に従った最後は十字架の死だというのに、それでも最後まで神の意志、御心に従われたのです(フィリピ 2:8)。ひとり子を遣わしてまで罪人を救おうとする神の御心にこそ救いがあるのです。どんなによいと思える自分の思い・願いよりも、ひとり子を遣わしてまで救おうとされる神が、ヤコブヨハネによい場所を備えていてくださるのです。イエスの弟子はそのことを知らなければなりません。

 ヤコブヨハネの思いを知った他の弟子たちは、二人に抜け駆けされたと思い、腹を立てました。弟子たちの誰もが、他の弟子たちよりもイエスによく思われたい、評価されたいのです。主に喜ばれたいという思いは、間違ってはいません。しかし、イエスから目をそらし、他の兄弟姉妹たちに思いを向け、比べ出すと間違ってしまいます。
 そこでイエスは一同を呼び寄せて言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(25節)これは、2000年前のユダヤだけでなく、現代の日本も同じです。
 「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」とイエスは言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26~28節)

 「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」神の治めたもう国は、権力による支配はではないのです。神の国では、そしてキリストのからだなる教会では、この世的な力で治めるのではありません。ペトロは、長老たちに対して「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」(1ペトロ 5:3)と書いています。パウロも「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」(2コリント 1:24)と言っています。
 支配者ではなくて「仕える人」「僕」になりなさいとイエスは言われます。「仕える人」とは、普通「給仕」とか「執事」と訳される言葉。「僕」は「奴隷」のことです。

 ここで「偉くなりたい者、いちばん上になりたい者」はと言われています。では「自分は偉くなんかなりたくないからいいや」と言えるかというとそうではありません。父は、子どもたち一人ひとりに神の愛に生きることにおいて偉くなって欲しいのです。すべてのキリスト者は、神に喜ばれるという意味で偉くなることを求めるのです。パウロはフィリピの信徒への手紙でこう言っています。「わたし自身は既に(キリストを)捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3:13~14)

 わたしたちが忘れてはならないのは、イエス キリストの姿です。キリストの仕える生涯によってわたしたちは救われました。このキリストに従い、仕える道を行くときにこそ、多くの人と神の恵みを分かち合い、神の祝福に与ることができるのです。
 キリストの救いは、わたしたちを神の恵みを分かち合う世界へと導いてくださいます。わたしたちは、キリストと共にある自分ではなく、キリストご自身に目を向けるのです。そこに聖徒の交わりが生まれ、主イエスの許で共に生きる恵みが現れるのです。キリストの十字架と復活が導く神の国を仰ぎ見て、わたしたちは共に歩むのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 主イエスの十字架に至る歩みが、あなたの恵みを分かち合う神の国に生きる幸いへと導いてくださることを感謝します。常にイエスを仰ぎ見て、与えられた所で仕える道を歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 7:14〜20

2020年3月25日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:14〜20(新共同訳)


 パウロはここで霊と肉という対比をしながら語ります。
 「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。」(14節)

 霊的とは、神の御心に適っている、神と共にあることを表しています。ここでは、律法は神の御心であり正しいものであるということを述べています。
 一方、肉とは、この世に属していることを表します。この世に属し、滅びに至るものを表します。そしてパウロは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14節)と言います。これは自分が罪の支配に置かれていることを表しています。

 わたしにとって、ここが信仰の難しいところです。パウロはキリストに出会って救われたのではないでしょうか。それなのに「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」とはどういうことでしょうか。わたしは、救われたと言うときにはもはや罪とは関係なくなることをイメージします。しかし現実にはそうはなりませんでした。パウロと同じ思いでした。キリストを信じて洗礼を受けたら、罪とは関係なくなり、キリスト者らしく愛に生きる者となれると期待していましたが、そうではありませんでした。
 わたしのこの考えは、律法主義と同じでした。自分で自分を見て、満足しようとしているのです。信仰を持って自分は成長した。優しくなった。赦せるようになった。愛せるようになった。キリストを信じたのは間違いではなかった。そんな手応えを欲しているのです。
 しかし救われたというのは、神に従い神と共に生きる新しい命を与えられ、新しく生きるようになったことで、神の国での完成を目指して常に途上にあるのです。繰り返し悔い改めながら、何度でも許されながら、新しくされながら、キリストと共に神の国への道を歩むのです。罪の世にあって罪を抱えながら生きる、それを忍耐しながら神の国を望み見て生きるのです。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

 話を戻します。パウロは律法主義で生きていたときは、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ 3:6)と言うことができました。しかし、神が遣わされた救い主イエス キリストを理解できなかったことに気づいてからは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14節)と自己理解が全く変わります。
 律法主義というのは、律法を形式的に守ることで自分は神の御心に適って正しく生きていると自己満足するあり方です。
 しかし、キリストに捉えられ、キリストを知ってからは、このように自分を理解します。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15節)。

 律法を形式的に守っても、それでは神の御心には適わないことに気づきました。そして神の御心を思うようになり、神の御心に従って歩みたいと思っても、それを行わず、自分がこうありたいこうしたいと思うことをしてしまうことに気づくのです。つまり、神の御心と自分自身とが対立し、信仰では神の御心に従いたいと思っていても、自分自身がまさってしまうのです。それを「かえって憎んでいることをする」(15節)とパウロは言うのです。

 このパウロの自己理解は、一般にいい人ほど理解できません。いい人は、自分の善意が神の御心とは違っているということになかなか気づけません。善意の人は、自分が罪人であることがあまり分かりません。
 しかしパウロはキリストを理解できなかったことにより、キリストを遣わされた神の御心が自分には全く理解できなかったことに気づきました。そして自分がこれまで歩んできた律法主義の誤りに気づきました。罪人は、神の御心が理解できない、そして神と同じ思いになれないのです。
 そんな自分の姿を思い巡らし、律法について考え直すとき、パウロはこう思い至ります。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」(16節)

 パウロはこんな風に考えます。パウロは神に従って歩みたいと願っています。キリストを知るに至って、神が律法を通して何を願っておられるかを知りました。そしてパウロは神の御心に従いたいと思っています。つまり律法を正しく行いたいと願っています。
 キリストを知る前まではできていました。律法主義は形式的ですから、この律法を守るにはこうすればいいというのが決まっています。しかし、キリストを知ってからは、律法を与えてくださった神の御心を思うようになりました。
 神の御心の核心は、ひとり子を遣わすほどに愛しておられる、ということです。聖書における「愛」とは、共に生きようとすることです。神はわたしたちと共に生きようと願っておられます。それに対して、律法主義は自分が正しく生きることを考えます。愛が「共に」であるのに対して、律法主義は「自分が」が中心になります。
 律法主義は、自分のことを考えています。けれど、神はなぜ律法をお与えになったのか、キリストに出会ってからそのことを思うようになったときに、律法主義のあり方を神は願っておられないことに気づきました。自分が正しくて自分が評価される、そのように自分のことばかり考えることを神は願っておられない。神と共に、隣人と共に、神の恵みの中で共に生きるためにはどうすればいいのか、そのための道を律法は示しています。しかし律法主義はそのことを全く考慮してきませんでした。
 パウロは、共に神に従って歩むためには律法をどう受け止めていけばよいのかを考えるようになりました。そこに、神に従おうとする信仰と、自分の中の「こうありたい」という自分自身の願い、あるいは「こうあるのがよいと思う」と考える自分自身とが争い、いつも自分がまさってしまう。神の御心と自分自身が相容れないことがパウロには明らかになってくるのです。

 先ほど言いましたように、いい人はここで自分の「こうしたい」「こうあった方がいい」という思いを批判的に捉え、「神の御心はどうだろうか」と考えてみることがなかなかできません。自分自身の考えが神の御心とは一致しないのだということを忘れてしまいます。ですからいつも、神の御心よりも自分自身がまさります。しかし神の御心と自分自身が相容れないことが、パウロには明らかになってきました。

 そこでパウロは一つの結論に至ります。「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(17節)わたしの中に住んでいる罪が、神と共に歩むことを妨げている。
 「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(18節)
 善とは、神の御心です。そして罪は、神の御心から離れることです。
 「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(20節)

 少々理屈っぽくなりますが、「わたし」が律法を行うとき、必ず「わたし」が律法を解釈します。例えば、わたしたちが人を愛するとき、こうすることがこの人のためになる、この人の助けになる、この人に喜ばれるだろうなどと「わたし」が考えます。このとき「わたし」は自分の価値基準に照らして判断します。そのとき神の御心に従いたいと思っていても、神の御心が直接分かる訳ではありません。良いか悪いかを判断する「わたし」を通して判断します。しかし、罪人の救いのためにひとり子を献げる神の御心は、自分の思いとは全く違っていて理解し尽くすことも、すべてを受け入れることもできません。わたしたちは、神の御心を直接、正しく、正確に理解することはできません。罪を抱えているので、神の御心そのものを純粋に理解するということはできないのです。
 わたしはどうやっても神と一つにはなりません。これを創世記は、善悪を知る木の実を食べたと表現しています。もう神と違う善悪を抱いてしまったのです。罪人は神とは違うのです。

 パウロはキリストと出会い、キリストを知ったことによって初めて罪を知ったのです。努力や工夫ではどうしようもない、存在そのものが神と違ってしまっている罪を知ったのです。
 そして、どうすることもできない罪人を救うために、ひとり子を救い主として世に遣わされる神の御心を知るに至りました。キリストご自身も、民を救うためにその命を献げて贖いを成し遂げ、死を打ち砕き、命の道を開かれました。パウロは、キリストとの出会いによって神の恵みの広さ、長さ、高さ、深さに圧倒されたのです。
 だからパウロはフィリピの信徒への手紙でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:7~9)。

 わたしたちの救いはイエス キリストにあります。キリスト以外にはありません。キリストに罪を贖って頂き、赦して頂くことが必要です。キリストを信じることを通してキリストと一つにされる。キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活する。キリストの命に与るのです。そしてわたしたちは神の子とされるのです。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」のです(2コリント 3:18)。

 だから教会は、キリストを宣べ伝えてきたのです。この人を見よ、この方によってわたしたちは救われる。この方によって新しくされる。朽ちることのない希望と平和はキリストから来るのです。何ものもキリストの代わりにはなりません。イエス キリストこそ、わたしたちを罪から救い、神の国へと導き、永遠の命でみたしてくださるただ一人のお方なのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちにキリストを知る信仰を与えてくださり感謝します。キリストを知らずして罪を知ることはできず、キリストを信ずることなく罪を知るとき、わたしたちは悲しみと絶望の中に陥ります。キリストを信じる信仰を与えられ感謝します。どうかイエス キリストが救い主であることをさらに深く知り、信じて歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 10:18〜21

2020年3月22日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 10:18~21(新共同訳)


 パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。ただし救いのためには、間違いを正さなくてはなりません。10:2~3でこう言っています。「彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
 イスラエルは律法による自分の義を求めるのではなく、イエス キリストを信じる信仰による義、神が与えてくださる神の義を受け取らなくてはなりません。なぜなら、10:4で言っているように、キリストこそ律法の目標だからです。信じる者すべてに義をもたらす律法の目標だからです。

 ところでパウロは、18節で「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言います。
 わたしたちは、新約の諸文書からイエスが語られた言葉、イエスの救いについて語られた言葉を聞いています。しかし、ローマの信徒への手紙が書かれた頃、まだ新約ができていません。福音書もまだ書かれていません。
 ですから18節で「彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです」と言われると、「どういうことでしょう?」と問わずにはいられません。キリストを信じられるほどキリストの言葉を聞く機会はあったのでしょうか。もちろんこの手紙の宛先であるローマの教会にいるユダヤ人たちは、キリストのことを聞いて教会に来ているのですから、彼らは聞いたのです。しかしこの手紙では、神の民として導かれながら、キリストを信じないイスラエルの救いはどうなっているのかを問うています。
 ちなみに、イスラエルは父祖アブラハム以来の長い歴史の中で、イスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。

 さてパウロは、旧約の詩編を引用して、イスラエルはイエスの言葉を聞いたと言います。つまり、旧約の言葉はイエス キリストを指し示しており、キリストを待ち望むように伝えている、ということです。18節「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです(詩編19:5)。イスラエルはエジプトでも、バビロニアでも、地中海世界に散っていっても、どこにあるときにも神の言葉と共に歩んだのです。そして神の言葉が語られるとき、イエス キリストを指し示しているのです。

 わたしが旧約の説教を準備する際には、その旧約の御言葉がイエス キリストとどう繋がるかを考えます。つまり旧約の成就がイエス キリストであるという理解です。本来、旧約を正しく聞くと、イエス キリストと出会ったとき、旧約の御言葉が実現していることに気づくのです。旧約はこれから来られる救い主を指し示し、新約は既に来られた救い主を証ししているのです。

 しかし、多くのイスラエルは気づきません。気づかないだけでなく、彼らの熱心・信仰は、正しい認識に基づくものではない(10:2)と言われているように、御言葉に触れていても、間違った理解へと進んでいっています。
 けれどパウロは、この状況も神の救いの計画の内であって、旧約で証しされている、と言うのです。

 まずイスラエルにとって権威であるモーセの名を出して語ります。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう。」(19節 申命記 32:21)
 まず救いに与れるはずのイスラエルではなく、異邦人にキリストの福音が伝えられ、救いへと導かれ、イスラエルがねたみ・怒る立場に置かれることが、既に告げられていることを指摘します。
 続いてイザヤ書を引用します。「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」(20節 イザヤ 65:1)神が異邦人に自らを示し、見出されるようにしておられることが啓示されているのです。

 パウロは同胞イスラエルの救いについて思い巡らしたとき、頑ななイスラエルを信仰に導くため、神が敢えて不信仰を許容し、忍耐しておられることに気づいたのです。神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)

 だからパウロがここで最後に引用するのは「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(21節 イザヤ 65:2)という言葉なのです。

 神の招きの御手は、不従順で反抗する民に差し出されているのです。
 パウロに対しても、まだ迫害者であったときに復活のキリストを通して、神はこの招きの御手を差し出してくださったのです。
 その同じ御手が、わたしたちにも差し出されています。
 神の招きの御手は、不従順で反抗する民に差し出されているのです。しかも、その手は引っ込められることなく、一日中差し伸べられているのです。だから、その手を取ろうとしたときに、もう遅かったということはないのです。気づいたその時に神の御手はわたしたちの目の前に差し出されているのです。

 だから今、イスラエルがまだキリストを信じていなくても救いの希望が開かれているのです。そしてわたちたちが愛する者、親しい者の救いを思うときも同じです。救いも希望も、神の愛と真実にあるのです。そしてわたしたち罪人の信仰も、この神の愛と真実に支え守られているのです。

 不信仰な者、背く者を救われる神がおられます。不信仰な者、背く者を愛される神がおられます。この神は、罪を裁く神でもあられます。この神が罪を裁くとき、ご自身のひとり子を救い主としてお与えくださいます。ひとり子の十字架において罪を裁かれます。わたしたちがどうすることもできなかった罪に決着を付けてくださいます。神が裁かれるとき、そこから和解の福音が現れ、復活の命が現れます。不信仰な者、背く者を愛される神においては、すべてがわたしたちの救いのためになされます。神は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働」かせてくださるのです(ローマ 8:28)。

 だからわたしたちは救いを安心して喜ぶことができるのです。自分の不信仰に対する恐れからも解放されているのです。イエス キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神の前に立ち塞がることのできるものは何もありません(ローマ 8:39)。

 神の御心を求めて、神の言葉に聞く者は、神を知ることができます。神に出会うことができます。神はご自身を求める者に、希望と慰めを与えてくださるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べていてくださることを感謝します。不信仰も頑なさも救いのご計画に入れていてくださることを感謝します。わたしたちの未来に希望を備えてくださっていることに感謝します。主よ、あなたの御心が成りますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 7:7〜13

2020年3月18日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:7〜13(新共同訳)


 神は、律法による自分の義ではなく、信仰による神の義によって、わたしたちを救おうしておられるとパウロは語ってきました(3:21~5:21)。そして6章では、救いに入れられた者が救いにふさわしく、罪から離れて神と共に生きることが正しいことを明らかにしました。そして前回のところ(7:1~6)では、キリストと結び合わされ、キリストのものとされたのだから、もはや律法によって自分の義を立てることから解放され、キリストと結び合わせてくださった聖霊により、自分を神に献げ、神に向かって生きる者とされていることを示しました。

 そこできょうの箇所です。パウロはまた問いかけ、否定して話を進めます。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。」(7節)
 神は律法による自分の義を求めてはおられない。神の救いは、わたしたちをキリストと結び合わせ、キリストのものとし、律法から解放した。そう語るほどに「では律法は罪なのか」という問いが投げかけられます。パウロは「決してそうではない」と答えます。

 「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(7節)
 律法がなければ、神の御心が分かりません。神に従うことも、神に背き神から離れることも区別がつきません。すべては自分の思いの赴くままです。救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。

 「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。」(8節)
 罪は神の御心が明らかになるところで、人を神から引き離そうとします。逆に律法によって御心が明らかにならなければ、神から離れようとすることも生じず、罪は働く機会を得ることができません。御心が示されると同時に、罪が働き出すのです。ここに罪人の悲しみがあります。

 では、律法がなければよかったのでしょうか。しかし律法がなければ、神の御心を知ることもありませんし、神に従うことを祈り求めることもありません。そして罪に気づくこともありません。罪を知らなければ、救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。
 パウロは「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」(9, 10節)と言っています。
 ところで、パウロは律法なしで生きたことなどありません。フィリピの信徒への手紙の中で「律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ 3:6)とパウロは言っています。そのパウロがなぜ「かつては律法とかかわりなく生きていました」(9節)と言ったのでしょうか。
 それは、復活のキリストに捉えられて律法主義の誤りに気づいたからです。

 律法主義というのは、律法を形式上守ることで自分は神の御心に適って生きていると自己満足するあり方です。
 例えば、十戒の「安息日には何の業をもしてはならない」(出エジプト 20:8~ 10)という戒めに対して、自分は何km以上歩いていないし、何文字以上書いてもいない、何kg以上の荷物も持っていないから律法を守っていると考え、一方イエスが病人を癒やすと律法に反していると怒り出すような考え方です。

 パウロはかつてファリサイ派の一員であり、律法主義の中で生きていました。ですが、復活のキリストが出会ってくださったことにより、律法主義の間違いに気づき、本来神が律法を与えてくださった意図を全く理解していないことに気づいたのです。なぜなら「律法の義については非のうちどころのない」と言えるほどに律法を守っていたのに、イエス キリストを理解できませんでした。イエス キリストが救い主であることを知ったとき、自分が神の救いを拒絶してきたことを気づいたのです。今まで律法を学び行ってきたけれど、神の御心を全く理解できなかったことが分かりました。今までの自分の信仰のあり方が間違っていたことに気づいたのです。
 だからパウロは言います。「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(11節)パウロは、神が差し出していてくださる命を拒否していたことに気づいたのです。

 そして律法主義の間違いに気づき、キリストを救い主として信じると、自らの罪に分かるようになりました。パウロはこの7章のもう少し後のところでこう言います。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ 7:18~20)

 パウロは律法主義は捨てても、律法を捨てた訳ではありません。パウロは神の御心をなしたい、善をしようと願います。しかし、神の御心をなしたいと欲しても、それをする力が無いことに気づきます。自分の思い、自分の考え、罪ある自分自身がなくなりません。自分とは別に罪があるのではなく、自分自身がまさしく罪人なのです。罪人であるこのわたしが救われなければならないのです。罪の世にある限り、何度でも悔い改め、聖霊により新しくされ、清め続けて頂かなくてはなりません。わたし自身が神の国に入り、救いが完成するまで救われ続けなければなりません。

 しかしこの世は、律法主義であることを求めます。現在、わたしたちの周りには数え切れないほどの法律があります。そしてわたしたちの行動が法律に触れるかどうか問われています。裁判ともなれば、まさしく律法主義と同様に、法律に適っているかどうかが問題となります。つまり、罪の世は律法主義であり、罪人は律法主義を抱え持っているのです。
 しかしパウロは、神がキリストを遣わして、キリストと共に死に、キリストと共に復活するその恵みを知ったのです。キリストを知り、救いを知ったとき、パウロは律法主義から解放されたのです。

 キリストの救いを経験したパウロは、律法と罪を理解し直しました。その理解が12, 13節に書かれています。「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。」

 律法が善いものであっても、罪あるわたしは善く用いることができません。罪を正しく知るとき、いよいよキリストの救いを求めます。そして自分の業も自分自身も神の御手に委ねるのです。そしてキリストの掛け替えのなさに気づくのです。
 エフェソの信徒への手紙で、パウロはこう書いています。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ 3:17~19)

 パウロは、ローマの人々が律法と罪を正しく知り、キリストの救いを切に求めるようになってほしいと願ってこの手紙を書いています。そして今、キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神ご自身が、キリストの救いを求め、救いに与ってほしいと願って、このローマの信徒への手紙を通してわたしたちに語りかけておられるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 どうか律法と罪を正しく知り、律法主義の自己満足から救い出してください。キリストと一つに結び合わせ、その十字架と復活に与ることができますように。キリストと共に死に、キリストと共に生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 5:1〜9a

2020年3月15日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:1〜9a(新共同訳)


 ガリラヤのカナで二回目のしるしをなされた後、イエスは祭りがあったのでエルサレムに行かれました。
 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊がありました。

 新共同訳聖書には3節の終わりに十字のしるしがあり、4節がなく、5節になっています。ヨハネによる福音書の最後まで行くと、そこに「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」とあって、3節の後に4節として文章の書かれている写本があることを示しています。
 ちなみに聖書の原本というのは残っていません。原本というのは最初に書かれたもののことです。この場合最初に書かれたヨハネによる福音書のことです。原本から書き写された写本、写本から書き写された写本というように聖書は伝えられてきました。ヨーロッパで15世紀の中頃、グーテンベルク活版印刷術を発明して、最初に印刷された書籍が聖書でした。それまではずっと写本で書き写されてきました。おそらく4節を書いた人は、ここの状況説明がもう少し必要だと考えたのだと思います。3節後半から4節はこう書かれています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」(3b~4)
 ですから池のそばの回廊には、癒やしを求めて「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(3節)のです。

 「さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人が」いました。何の病気かは分かりませんが、この後を読みますと、自分で自由に動くことのできない状態だったことが分かります。
 「イエスは、その人が横たわっているを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と」言われました。
 一体何を聞いているのでしょうか。「そんなこと聞かないでください。良くなりたいに決まってるじゃないですか」と止めたくなります。けれど、彼の答えはそうではありませんでした。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」彼から出てきたのは諦めを自分に言いきかせる言葉でした。

 この池の周りに集まっている人たちは、皆病を抱えた人たちです。そしてそこにも、一番を目指す競争、他人のことをかまってられない競争があるのです。そして自由に動くことができず、助けてくれる友もいない彼は、この競争に勝つことはありませんでした。
 イエスの問いは、彼の置かれている状況と今の彼の気持を明らかにしました。

 人はなかなか事実と向き合うことができません。受けとめることができません。自分にとって都合の悪いことは、気づかないふりをする、なかったと思い込もうとします。しかし、イエスの言葉が見ないようにしていた事実、気づかないようにしていた事実を明らかにします。
 彼は、病を抱えていても競争社会におかれていて、諦めに潰されそうになりながら、助けてくれる者もいない中で一人生きていかねばなりませんでした。

 イエスは大勢人がいる中で、どうして彼に声をかけたのでしょうか。サマリアのシカルの女性と同じく、彼を知っておられたからでしょう。
 しかし、そこにいた人たちは皆、癒やしを必要としていました。人は問います。「なぜ全員癒やしてあげないのだ。」
 人は罪の現実を受けとめきれません。病に苦しみ続けている人がいる。飢えで死んでしまう人もいる。戦争で奪われてしまう命がある。自分は小さく力も乏しいけれども、神は全能ではないのか。苦しみを放置し続ける神などどうして信じられるのか。大学生時代、わたしがクリスチャンだと分かるとしばしばそう問いかけられました。
 当時は友人たちが納得する答えを言うことはできませんでした。今でも充分な答えはできないだろうと思います。それでも、キリストと出会い、「いと小さき者の一人にしたのはわたしにしたのである」(マタイ 25:40)と言ってくださる神を信じた人たちが、自分に与えられたいと小さき者の一人に仕えていく中で、神が救いの業をなし続けてくださっていることを、今は知っています。

 福音書はこの出来事に、イエスが救い主=キリストであるしるしを見たのだと思います。イエスは知っておられる。大勢の人がいても、イエスは知っていてくださる。誰が知らなくても、イエスはわたしの苦しみ・悲しみを知っておられ、わたしを見つめ、語りかけてくださる。もう無理と諦めている心に「良くなりたいのか」と語りかけてくださる。イエス キリストと出会うとき、そこに救いが起こることを福音書は知ったのです。
 讃美歌第2編 210番に黒人霊歌の「わが悩み知りたもう」があります。原曲は「NOBODY KNOWS(誰も知らない)」という題で、最初の歌詞は「誰も私が経験してきた苦しみを知らない しかしイエスは知っておられる」と歌われます。誰も自分に気づいていない、気にもしていないとしても、他の誰が知らなくても、イエスは知っていてくださる。38年間病に苦しみ、ベトザタの池のほとりに横たわる以外何もできない男の前に、イエスは来て「良くなりたいのか」と語りかけた事実が、苦しみ・悲しみに覆われ諦めに満たされていく人々の慰めとなり、希望となってきたのです。

 彼は一番に池に入ることはできませんでした。しかしその彼の許に、イエスの方から来てくださいました。
 旧約のヨブもキリストの到来を待ち望みました。ヨブは言います。「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。」(ヨブ 19:25~27)
 罪の世で傷を負いながら生きるわたしたちには、わたしたちを本当に知っていてくださるイエス キリストが必要なのです。

 イエスは彼に言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)すると、彼はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。
 人となり、神の御心を出来事とされたイエスの言葉は、出来事となります。

 牧師として仕えてきて、一番欲しているのは、癒やしの賜物です。癒やしの賜物があれば、この務めがどれほど喜びに満ちたものになるだろうかと思います。しかしわたしに与えられたのは、癒やしの賜物ではなく、イエス キリストを伝える務めでした。無力の中で、苦しむ人・悲しむ人の重荷を思い、キリストに執り成し祈る務めでした。ヨブと同じようにキリストとの出会いを待ち望む務めでした。
 そんなわたしにイエスは語りかけられます。「起き上がりなさい。」自分の無力にうずくまらずに、あなたに語りかける神の言葉を聞いて、託された務めを果たしなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(20:27)。

 皆さんは何から「起き上がりなさい」と言われているでしょうか。

 救いの完成する日、この癒やされた男の喜びが、すべての人の喜びになるのを待ち望みながら、わたしたちは神の救いを信じて、仕えつつ歩むのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 名もなき者さえあなたは覚えていてくださり、主は知っていてくださることを感謝します。わたしたちの前に歩み来たり、わたしたちと共にいてくださる主を知ることができますように。主の御言葉により、諦めから希望へと導かれますように。主が語りかけてくださる「起き上がりなさい」を聞いて、あなたの御力を受けることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン