聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 12:17〜21

2021年1月17日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:17〜21(新共同訳)


 今読みました箇所は、改めて説明しなくても、言っている内容は皆さんよくお分かりだと思います。ただわたしの中では「自分には無理」という声が絶えず聞こえてきます。できることなら、きょうの箇所は飛ばしたかった所です。

 聖書が教えているとおり、わたしたちが抱えている罪は、神とも、他者とも善悪が違ってしまっているということです。「おかしいだろ。違うだろ」と思うことが世には溢れています。近頃の政治に関するニュースで腹を立てずに聞けるものは、わたしにはほとんどありません。そして自分の罪深さは棚に上げて「神さまは何故裁かれないのだ」と神さまにまで腹を立てています。神がわたしに対してどれほど忍耐してくださっているかを考えもせずに、19節「神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」って書いてあるけど神さま何もしないじゃん、と考える自分がいるのです。

 これは教会の外の世界だけではありません。中会・大会の議員資格を得て30年、日本キリスト教会の中でも「これはおかしいだろ」と思うことはたくさんあり、どうしても必要と思う所では、質問もし意見もしてきました。けれど、教会の中、信仰を同じくする人たちの間でも、善悪を共有することはほぼできません。念のために申し上げておきますが、わたしが考え・感じる「わたしの善悪」を共有することはできないのです。聖書が言うように、わたしたちは皆、罪人なのです。自分ではどうすることもできない罪を抱えているのです。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ 3:10)のです。

 ではどうしたらよいのでしょうか。神はわたしたちに「悔い改め」の道を備えてくださいました。悔い改めの本来の意味は「立ち帰る」ということです。反省するでも落ち込むでもなく、立ち帰るのです。バラバラな善悪を抱えているわたしたちが唯一のまことの神の許に立ち帰るとき、出会うことができるのです。自分の善悪に固執しないで、自分が罪人であることを神の御前で覚えつつ、神の御業・導きに自分自身を委ねていくのです。
 神は共に歩もうとして、絶えず語りかけてくださいます。そして御子イエス キリストが活ける神の言葉となって世に来てくださいました。イエスは「わたしに従いなさい」(マタイ 9:9、マルコ 2:14、ルカ 5:27)と招かれます。しかしイエスが進まれる道の先には、十字架があるのです。十字架は自分自身を神の御手に委ね、神の御心に生きることです。神はイエス キリストにおいて「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行う」道を開かれました。そしてイエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)と招いておられるのです。

 聖書は、18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧めます。
 「できれば」というのは「自分が関わることのできる範囲では」という意味です。わたしたちが関わることで目指すのは、すべての人と平和に暮らすことです。聖書が言う平和とは、共にあることを喜べる関係です。神と共に、隣人と共にあることが喜べる関係です。神の祝福を祈り合える関係です。イエスは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)イエス キリストにより神の子とされ、神の子として生きるわたしたちは、平和を目指すのです。

 19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
 平和を目指すとき、妨げになる問題の一つは怒りです。先ほども言いましたが、わたしたちは罪を抱えており、一人ひとり善悪が違います。いろいろな場面で「おかしいだろ。違うだろ」が出てきます。
 わたしなど怒らない日がありません。血圧が下がるはずがないな、と自分で自分にガッカリします。心理学や仏教などの「怒りを手放す」をテーマにした本を秘かに読みますが、残念ながらそれでわたしの怒りが解決したことはありません。今のところ「やはりこれしかないんだろうな」と思っているのが、聖書が教える赦すことと神に委ねるということです。

 怒りは重い枷のようなものです。気になって気になって仕方ないもの、前に進むのを妨げるおもりのようなものです。怒りがあることでさらにイライラし、怒りが増していきます。聖書が示す赦すことも神に委ねることも、怒りを自分から切り離すことです。

 ここで一番大事なのは、神が今も活きて働いておられる、神は自分の怒りを知っていてくださり、裁きをしてくださるということを信じられるかどうかです。神が信じられないときには、神に怒りを任せることはできません。
 わたしたちは直ちに裁いてほしいのですが、なかなか神は裁かれません。わたしたちは神にさえイライラさせられ、神に対してさえ怒りを感じます。
 神に従い歩んでいた旧約の民も神に訴えます。詩編 94:1~4「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。/主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。/彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。」
 この祈り・願いが聖書に収められているということは、神はこの祈りを祈った民の思いを知っていてくださり、受け止めてくださったということです。

 神を信じ、怒りを委ねるためには、わたしたちは神を知らなくてはなりません。神はわたしたちに都合良く業をなしてくださる方ではなく、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと・・忍耐しておられる」(2ペトロ 3:9)お方です。「信じる者が皆永遠の命を得る」(ヨハネ 6:40)ようにとひとり子をお遣わしくださるお方です。
 けれど、神は罪を見逃されるお方ではありません。ひとり子を十字架に掛けてまで罪を裁かれます。しかし神が裁かれるとき、そこから和解の福音が溢れ出てきます。
 わたしが自分の気の済むように裁いたら、そこには恨みしか残らないでしょう。それでは憎しみの連鎖、テロの時代と呼ばれる今の時代が終わることはありません。神の御業こそ、罪からわたしたちを救い出し、罪がもたらす怒りからも解放してくださるのです。

 だから21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と聖書は勧めるのです。神の善をもって悪に勝ちなさい、と勧めるのです。
 これは旧約のときから言われてきました。詩編 37:1~9「悪事を謀る者のことでいら立つな。/不正を行う者をうらやむな。・・主に信頼し、善を行え。/この地に住み着き、信仰を糧とせよ。/主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。/あなたの道を主にまかせよ。/信頼せよ、主は計らい/あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」

 この神の言葉を信じ、神を信じるには、イエス キリストが、その十字架がはっきりと見えていなければなりません。だから神はわたしたちを礼拝に招かれるのです。
 イエス キリストこそ、すべての人と平和に暮らすために、人となって世に来られました。ご自身には罪がないのに、わたしたちが生きるために十字架を負ってくださいました。そして自分で復讐せず、神の怒りに委ねられました。自分の命を狙うファリサイ派や律法学者にも神の国の奥義を語られました。「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行」われました。イエスこそ敵に対して神の善を行い、敵の頭に燃える炭火、神の裁きを積まれました。
 神の裁きは滅ぼすためのものではありません。悔い改めへと導き、罪から離れ、神と共に生きるためになされます。神の救いの業である裁きも、わたしたちを救いへと導き、和解の福音へ与らせてくださるものです。

 ここで勧められていることは、きょう決断してきょう変わるという事柄ではありません。信仰はすべてそうですが、キリストに従い、神と共に歩み続ける中で変えられていきます。聖書は語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ 1:6)

 わたしたちは神を信じ、キリストを仰いで、善き業をなし、罪に勝利していくのです。イエスは言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)


ハレルヤ


父なる神さま
 主イエスは自らの命をかけて、神の国に至る救いの道を開いてくださいました。どうかわたしたちに先立って行かれるイエス キリストを仰ぎながら、歩ませてください。どうかあなたの善をもって、悪に勝ち、平和に暮らしていくことができるように導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 146:6b〜10

2021年1月13日(水) 祈り会
聖書:詩編 146:6b〜10(新共同訳)


 きょうは146篇の後半、6b節からです。
 便宜上、1節の中に複数の文章があるとき、最初の文を a 、次の文を b 、3番目の文を c として区別します。きょうは6節の2番目の文章からとなります。

 6b節「とこしえにまことを守られる主は」。この言葉は、146篇の前半と後半をつなぐ、この詩篇の核となる言葉です。なぜ神を助けと頼み、神を待ち望む人は幸いなのか(5節)。それは神が「とこしえにまことを守られる」お方だからです。わたしたちを見捨てることなく、見放すことのない真実なお方だからです(ヨシュア 1:5)。

 146篇の後半は、その神の真実がどのように現されるかを数え上げていきます。6bから9節まで「主」を主語とした文章が積み重ねられます。
 主は「虐げられている人のために裁き」をしてくださり「飢えている人にパンを与えて」くださいます。
 主は「捕らわれ人を解き放ち」、主は「見えない人の目を開き」、主は「うずくまっている人を起こされ」ます。主は「従う人を愛し」、主は「寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まして」くださいます。そして主は「逆らう者の道をくつがえされ」るのです。

 おそらく詩人は、バビロン捕囚からの解放をよく知る世代なのだろうと思います。神は、義のためにご自身の民をも裁き、国を滅ぼし、そのために異邦人をさえお用いになりました。
 義というのは、神との正しい関係を表します。神の憐れみ・慈しみによって「神さまは赦してくださるから何をしたって大丈夫」と神を侮るのではなく、神に感謝し、神を喜び、神に従って共に生きることを、義と呼びます。
 詩人は、預言者が立てられ、神の言葉が語られる。神の言葉を侮る民が裁かれ、国が滅びる。異邦人が神の裁きに用いられる。神の民がバビロン捕囚に連れて行かれる。50年の後、捕囚から解放される。この一連の出来事をよく知っているのだろうと思います。
 そして詩人は、この一連の出来事を通して、神が与えてくださっていた、神と共にそして隣人と共にという「共に生きる」恵みを再確認したのでしょう。詩人は、国が滅び、神の言葉ではなく、真(まこと)の神を知らない異邦人に支配されることを通して、神が与えてくださっていた恵みに気づいたのです。そして「神は何という大きな恵みを与えてくださっていたのか」という驚きと感謝に満たされたのです。
 聖書を見ていくと、神は奇跡によって癒されたり、助けたりもなさいますが、戒めにより、助けを必要とする人たちも共に生きることができる共同体をお造りになります。神の国という言葉がありますが、国という単語は治める・支配するという動詞から派生した言葉です。神が治めておられる所、つまり神の言葉に従い、神と共に生きる所に神の国は現れます。神の民は、神に従うことを通して神の国に生き、神を証しするのです。

 聖書の戒めは、罪の世で神と共に生きるために与えられたものです。
 申命記 16:11にはこうあります。「あなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。」
 さらに申命記 24:17~22ではこう命じられています。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」

 神の救いの御業に与った者は、神の救いの御業に倣い、憐れみを注ぎ、虐げられている人・飢えている人と共に歩むのです。今、引用した申命記の戒めが、出エジプトと結び合わされていることに心を留める必要があります。神の民の歩むべき指針の根本には、神の救いに与ったから、神の救いに与っているから、という神の救いの御業との深い関わりがあります。
 社会的弱者に対する助けや公平は、聖書の記述よりもさらに古いバビロニアの法典にも見られます(月本昭男『詩編の思想と信仰 VI』pp.273~274)。おそらくそれらの影響があると思われますが、聖書の記述の大事な点は、神の救いの御業とのつながり、神の慈しみ・憐れみという視点から語られていることです。神とのつながりの故に戒めに従うことが求められるのです。

 神の救いの御業に伴う慈しみは、今日の人権に基づく法律に勝るとも劣りません。わたしが最も驚いた戒めの一つが、申命記 23:25~26にあります。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」わたしの祖父も百姓をしていて、米や野菜を作っていました。わたしも耕運機を動かして手伝いをしましたが、こんなことは考えられません。現代でもあり得ない戒めが、神によって与えられ、神の言葉により共に生きる共同体が形づくられていたのです。

 詩人は、これら神の救いの御業は、主が「とこしえにまことを守られる」お方であるからだ、と理解しています。

 神の民は、神の機嫌が悪くならないように神の顔色をうかがいビクビクしながら従うのではありません。神のとこしえの真実に守られ支えられ、恵みに与って、喜び感謝しつつ、安心して従うのです。
 だから詩人は、自分自身が受け、神の民も受けてきた救いの恵みを思い起こし、とこしえにまことを守られる主を仰ぎ見ながら告白します。1~2節「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。/命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。」
 そして主にある兄弟姉妹に呼びかけます。10節「主はとこしえに王。/シオンよ、あなたの神は代々に王。/ハレルヤ。」
 ハレルヤは「ヤ(主、神)をハレル(讃美)せよ」という意味です。

 神が王として治める神の国にこそ、信じることのできるとこしえのまこと・真実があります。罪の世で苦しむ者を見捨てることも見放すこともなさらない慈しみがあります。わたしたちが共に生きることのできる義があります。
 今、詩人と共に、わたしたちに注がれている救いの恵みを思い起こして頂きたいのです。そして詩人と共に、主を誉め讃えつつ歩んでいきましょう。主にある喜びに共に与って、この主が開かれた新しい年を歩んでいきたいと思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人があなたを知り、あなたの言葉と業の意味を知って驚きと喜びに満たされたように、わたしたちも、礼拝によりあなたを知り、御言葉を通して御旨を知り、祈りを知り、讃美を知ることができますように。どうか恵みから恵みへとあなたと共に歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 6:33〜40

2021年1月10日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:33〜40(新共同訳)


 イエスは群衆に言われます。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)

 イエスの許に集まってきた群衆は、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人たちを満たした奇跡・しるしを経験した人たちです。彼らは、イエスが病人たちにされたしるしを見て、イエスの許に集まってきました。そして今度は、自分たち自身が五つのパンと二匹の魚の奇跡を体験しました。こうしてさらに関心を抱いた彼らは、湖を渡ってまでイエスを探してやって来ました。

 その彼らにイエスは言われます。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)
 集まった人たちが「神のパン」で考えるのは、出エジプトの荒れ野の旅で、神が与えてくださったマナのことでしょう(出エジプト 16章)。そこで彼らはマナをイメージしながら、イエスに言います。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6:34)。
 イエスは彼らに「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6:27)と言われたので、これこそ求めるべきパンだと思ったのでしょう。それは間違いではありません。しかし、罪人の理解は残念なことにずれていってしまいます。

 イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)
 イエスは、ご自身が「天から降って来て、世に命を与える」「神のパン」だと言われます。イエスご自身こそ「永遠の命に至る食べ物」であると言われたのです。永遠の命に至る食べ物・命のパンを頂くには、信じて受け取るのです。だから「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(6:29)と言われたのです。
 「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」(6:36)イエスを見ても信じないのです。彼らは言います。「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」(6:30)けれど、彼らは既にパンと魚の奇跡を体験しているのです。けれど信じないのです。信じて共に歩もうとはしないのです。
 つまり、人々は神が与えようとしているものが分からないのです。神がわたしたちに必要だと考えているものの意味も大切さも分からないのです。

 イエスは言われます。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)イエスご自身が命のパンなのです。イエス キリストを信じて受け入れるとき、この世の滅びゆく命とは違う永遠の命を受けます。イエスを信じるとき、新しい命に満たされていきます。「永遠の命にはまだ足りない」と飢えることも渇くこともありません。
 神が与えようとしておられる永遠の命は、神と共に生きる命です。死をもたらした罪から解放されて、神と共に生きる命です。
 ヨハネによる福音書は、神がイエス キリストを遣わされた理由を「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と記しています。ですから「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(6:37)とイエスは言われます。
 わたしたちは「自分は拒絶されるのではないか」「門前払いされるのではないか」という不安を持つ必要はないのです。わたしたちの救いのために人となってこの世に来られ、十字架まで負われたイエスが「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(6:37)と言われているのです。

 さらに「それは父の御心である」とはっきり言われます。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(6:38~40)
 イエスは「一人も失わないで・・復活」させてくださいます。それが父の御心だからです。イエスは五千人の給食の際も「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6:12)と言われました。これは、父が与えてくださったものはパンも人も、一人も失わず、少しも無駄にならないようにされるイエスの救いの御業を示しておられたのでしょう。

 そしてわたしたちは、イエスにより復活させて頂くのです。そのためにイエスは死に至ってくださいました。死に囚われているわたしたちの手を取り、死から救い出し、導き出すために、イエスは自ら死のただ中に来てくださいました。イエスが死の中にまで来てくださいます。だからわたしたちは死んでも大丈夫なのです。死んだらおしまいではないのです。死の先に復活が備えられています。イエスは、死の中にまで希望を携えてきてくださいました。

 それを「父の御心である」とイエスははっきりと言われます。神が与えようとしているものが分からない人々に、見ても信じない、自ら経験しても信じない人々に向かってはっきりと言われます。わたしたちが罪から救い出され、復活することは、父なる神の御心なのです。

 そして父の御心をなすために、イエスは人となって世に来られ、十字架を負われ、死をその身に負われ、死のただ中に立ち、そこから神の国に至る復活の道を開かれました。そしてわたしたちの手を取り、死から復活させてくださるのです。

 この救いに与るために、聖霊も働いてくださいます。イエス キリストがわたしの救い主であることの確信を、聖霊が与えてくださいます。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)と聖書が教えるとおりです。

 このように、父なる神も・御子イエス キリストも・聖霊なる神も、わたしたちの救いを願い、御業をなしてくださっています。だからわたしたちは一人も失われないのです。父なる神も、御子イエス キリストも、聖霊なる神もわたしたちへの愛で満ち満ちておられます。この満ち満ちた神の愛から失われる者は一人もないのです。だからわたしたちは、安心して信じるのです。

 イエスは、神が与えようとしているものが分からない人々に対して、神の御心を明らかにしてくださいます。
 ヨハネによる福音書は、ここで1章のイエスが神の言(ことば)であるということと(1:1, 1:14)、4章のサマリアの女性の話 −イエスが「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われると、女性が「主よ、渇くことがないように・・その水をください」とイエスの話を理解できなかったこと− を(4:14~15)重ね合わせながら記しています。
 ヨハネによる福音書は、イエス キリストを通して神を知るのだということを伝えようとしています。イエスが語られたこと、イエスがなされたこと、イエスご自身を通して、わたしたちは神を知るのです。イエス キリストを通して、わたしたちはひとり子を遣わすほどにわたしたちを愛しておられる神を知ることができるのです。

 だから聖書はこう祈ります。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ 3:17~19)

 だからわたしたちは、イエス キリストへと思いを向けていくのです。キリストを信じ、安心して生きていくのです。わたしたちはこの不安な世の中、この不確かな世にあって、イエス キリストを信じ、神を信じて生きていけるのです。わたしたちの救いも命も、そして未来も、わたしたちを愛して止まない神の内にあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いのため、復活のためにイエス キリストをお遣わしくださり、感謝します。イエス キリストを通して、あなたの御心を深く知ることができますように。どうか信仰から信仰へとイエスと共に歩み、永遠の命に生きるあなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 146:1〜6a

2021年1月6日(水) 祈り会
聖書:詩編 146:1〜6a(新共同訳)


 きょうの146篇から詩編最後の150篇までの五つの詩編は、詩編を締めくくる讃美の詩編が続きます。この五つの詩編は、最初と最後にハレルヤがあります。ハレルヤは「ヤ(主、神)をハレル(讃美)せよ」という意味です。150の詩編、様々な詩編がありましたが、最後は讃美で締めくくられます。

 1節「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。」2節「命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。」
 詩人は、神と共に生きるという経験を重ねてきています。神に包まれ、神を感じつつ生きています。1~2節を読むと、「讃美しなければならない」とか「讃美すべきだ」といった義務感は全く感じません。神に造られたもの、神と共に生きる者の欠かすことのできない当たり前の行為として讃美が語られます。
 詩人は自分の信仰を確認するように、自らに「主を賛美せよ」と語りかけます。詩人にとって讃美は、信仰告白に通じる意味合いがあるように思います。詩人は自らの神経験に導かれて「命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」と告白します。どういう信仰生活をすると、こういう信仰が育まれるのだろうかとうらやましく思います。まるで呼吸をしているだけのように、信仰の言葉が出てきます。詩人は、神の御前にあり、神と共にあり、神に包まれて生きています。

 詩人は、神を知っています。神の導きを知っています。だから言います。3~4節「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。/霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。」
 詩人は、イスラエルが北イスラエルも南ユダも滅んだことを思い起こしていたのでしょうか。預言者イザヤは語りました。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。/彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。・・エジプト人は人であって、神ではない。/その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。/主が御手を伸ばされると/助けを与える者はつまずき/助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」(イザヤ 31:1, 3)
 残念ながら人間には救う力はありません。死に至れば、土に帰り、人の思いも失われます。
 「彼の思いも滅びる」は他の新しい訳を見ると、「彼の企ても滅びる」(聖書協会共同訳)や「彼の計画は滅び失せる」(新改訳2017)と訳していて、人間の抱いている計画のはかなさが感じられます。聖書は語ります。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言 29:21)

 ここまでのところで「魂」「霊」という言葉が出てきました。人は、人間が目に見える体だけでないことを感じてきました。他にも「精神」や「心」という言葉も使われます。目に見えないものを表現しているので、重なり合う部分もあって、明確に区別するすることはできませんが、その言葉の特徴はあると思います。
 霊という言葉は、神とのつながり、目に見えないものとのつながりを表します。聖書は当然、神とつながることを勧め、聖霊を受けるようにと語ります。ヨハネによる福音書では、復活されたイエスが弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ 20:22)
 ちなみに霊という言葉は元々「動く空気」という意味で、呼吸や風も意味します。そこからも命とつながりのある言葉として理解されています。4節では「霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる」と、霊が失われるとき、命も失われるという理解が示されます。これは、創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という理解から来ているものです。詩人も、神は命の源であり、神とのつながりが失われるとき、命もまた失われるという信仰に立っています。

 ですから、詩人は命の源である神に依り頼み、神と共に生きるところに、命があり、幸いがあると考えています。5~6節「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人/天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」
 詩人は、神を仰ぎ見るとき、神の御許に救いと命と未来を見ます。だから詩人は1節「わたしの魂よ、主を賛美せよ」と自分自身に語りかけるのです。

 魂という言葉は、感情・意思・思考など心や精神という言葉で表されるもの、そして命も含めたその人自身を表す言葉です。詩人は、自分自身を余す所なく神へと向けていこうとしています。聖書の別の表現だと、イエスが第一の掟として言われた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして(あなたの神である主を愛しなさい)」(マルコ 12:30)と同じことを言っていると思います。
 詩人は、自分の喜びが神にあることを確信して、自分自身に呼びかけます。「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。」詩人は、造られたものすべてを愛し、その救いのために今も生きて働かれる神の御業の中で生きています。この喜びを表すには、讃美がふさわしいのです。だから詩人は「主を賛美せよ。/命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」と自らの喜び・信仰を告白するのです。

 皆さんも礼拝において、御言葉を聞くとき、祈るとき、讃美するとき、詩人と同じように神を味わい知ることができますように。皆さんの魂が、神に出会い、喜びと希望に満たされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人があなたと共に生きたように、その魂の隅々まであなたを経験し、知ったように、わたしたちも今までにも増してあなたを知り、あなたと共に歩むことができますように。どうかあなたにある喜びと希望をわたしたちにもお与えください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

イザヤ書 61:1〜3

2021年1月3日(日) 主日礼拝  礼拝
聖書:イザヤ 61:1〜3(新共同訳)


 今年最初に聞くのは、預言者イザヤの預言です。

 初代の王サウルによって建国されたイスラエル王国は、第2代の王ダビデ、第3代の王ソロモンと発展しましたが、第4代の時、北イスラエルと南ユダに分裂しました。この王国の歩みは、サムエル記(上・下)、列王記(上・下)、歴代誌(上・下)に記されています。北イスラエルは紀元前722年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされます。南ユダでは、多くの人が捕虜としてバビロニアに連れて行かれるバビロン捕囚と呼ばれる出来事も起こりました。
 神は北イスラエルが滅ぼされる30年ぐらい前から、聖書に文書が収められているイザヤやアモス、ホセアなどの預言者を立て、悔い改めを求められました。しかし、国の指導者たちは預言者の言葉を聞くことなく、滅びへと進んでいきました。

 イザヤ書は、旧約の預言書の最初にある預言書で、66章からなる大部なものです。預言の時代背景などを見ていくと、イザヤ書は三部に分かれ、イザヤ一人で語ったものではなく、イザヤとイザヤに連なる預言者たちによって語られたものと考えられています。最初の預言から最後の預言までは、およそ200年の時が経っていると考えられています。
 きょう聞きましたところは、聖書学では第三イザヤと呼ばれている第三部に当たるところです。バビロン捕囚が終わり、人々がエルサレムへと帰還した時代に語られたものと考えられています。きょうの箇所の続き4節には、紀元前520年に始まったエルサレム神殿の再建について(紀元前515年完成)語られています。

 さてきょうの箇所ですが、1節「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。」
 預言者は油注がれて、務めに立てられました。王や祭司など神の務めを行う者を任職するときに油が注がれました。油注がれた者というのがメシアという言葉で、後に救い主を表すようになります。そしてメシアがギリシャ語に訳されたのがキリストという言葉です。
 預言者は油注がれ、務めに立てられると、神の霊に捉えられます。神の霊は預言者になすべき事を明らかにします。1節「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。/打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させる」2~3節「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」

 預言者の務めは「良い知らせを伝え」ることだと言われます。良い知らせ、それは福音です。福音を伝えるのが預言者の務めだと言われます。
 良い知らせ=福音の内容はと言うと、告知という言葉で二つの表現で語られています。「解放」と「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日」を告知することです。この二つは同じ出来事を言っています。バビロン捕囚とそれに伴う抑圧からの解放、そして困難な時にイスラエルを助けることなく苦しめた者たちへの神の報復です。
 「貧しい人」という言葉が出てきますが、これは困難な時代、苦しみの中で心弱った人のことです。ここで使われている貧しいという言葉は、経済的な貧しさではなく、精神的貧しさを表す言葉が使われています。マタイによる福音書5章の山上の説教で語られる「心の貧しい人々」につながる表現です。心の貧しい人に、神は福音を伝えてくださるのです。福音によって生きて働かれる神を知り、神の真実を知って、貧しい人は幸いへと導かれるのです。
 神は預言者を用いて「打ち砕かれた心を包み」「嘆いている人々を慰め」「嘆きに代えて喜びの香油を」「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせて」くださいます。
 3節の「灰に代えて」というのは、イスラエルには大きな悲しみを経験した時に灰をかぶるという表現をしていたことを表しています。他にも衣服を引き裂くという表現もありました。

 こうして良い知らせを受け取った神の民は、神の栄光を現し、神を証しします。「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」この樫の木は、聖なる木と考えられ、樫の木の傍らに祭壇が築かれることもありました(創世記 13:18)。
 彼らはバビロン捕囚という裁きの中にいた人たちです。裁きの中で、心打ちくだかれ、嘆き、暗い心を抱えていました。裁きの中にいる人たちに、良い知らせを伝えるため、神は預言者を立てられるのです。神が御業をなされると、裁きの中にあった人たちに喜びの香油と賛美の衣が与えられ、主の輝きを現すのです。

 きょうのイザヤの預言は、イエス キリストに重なっていきます。
 神のひとり子イエスは、油注がれた者=メシア=キリストとなり、世に来られました。イエス キリストは、徴税人や娼婦、律法を守れず罪人と蔑まれていた貧しい人たちに良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、慰めを与え、罪に捕らわれていた人々に自由を与えてくださいました。
 ちなみにルカによる福音書によると(4:16~)、イエスはきょうのイザヤ 61章を安息日に会堂で朗読されて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4:21)と言われました。イザヤのこの預言は、イエス キリストにおいて成就しました。
 こうして、イエス キリストご自身が油注がれる者=メシア=キリストとなり、神に遣わされる者となり、預言の成就、活ける神の御言葉、良い知らせ=福音そのものとなってくださいました。

 そしてマルコは、神の子イエス キリストの福音を伝えるためにマルコによる福音書を編纂しました。マタイもルカもヨハネも、それぞれがイエス キリストを伝えたいと考える人たちのために、福音書を編纂しました。

 祝福をもって世界を創造された神は、いつもわたしたちに良い知らせ=福音を語ってくださいます。預言者を遣わし、ひとり子を与え、福音書を備えて、神は祝福を語り、福音を実現してくださいます。
 そして世の終わりまで神の祝福を伝えるために、神の輝きを現す樫の木として教会を建ててくださいました。神の祝福を受け取ったわたしたち一人ひとりを神の義を証しする樫の木として育み育て、用いてくださいます。わたしたちの思いを超えて、神はわたしたちを用いて救いの御業をなされます。

 神が始めてくださったこの新しい年 2021年も、皆さんお一人おひとりが、神の祝福を受けて歩んで行かれますように。神が与えてくださる慰めを受け、自由に包まれ、喜びに満たされ、主を讃美しながら歩んで行かれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 新しい年、最初の日曜日にも御言葉を通して語りかけてくださり、救いの御業を示してくださったことを感謝します。わたしたちは今、感染症による混乱、政治の混乱、罪の世の混沌の中で道が見出せなくなってきています。よい羊飼いであり、わたしたちの道であるイエス キリストに従い、救いの道・命の道を歩ませてください。どうかわたしたちをも用いて、救いの御業を推し進めてください。どうかあなたの栄光が豊かに現されますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

マルコによる福音書 1:9〜11

2020年12月30日(水) 祈り会
聖書:マルコ 1:9〜11(新共同訳)


 マルコによる福音書は、イエスの公生涯、つまり救い主として活動を始めたところ、イエスの洗礼から書き始めます。
 きょうの前段、2~8節は、イエスに洗礼をした洗礼者ヨハネの説明です。

 洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表します。洗礼を受けて、キリスト者となり、教会員となります。
 プロテスタント、広く福音主義の教会は、洗礼と聖晩餐の二つを聖礼典としています。聖礼典、聖なる礼典とは、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。見える御言葉と言ったりもします。
 聖礼典は、英語のサクラメントという言い方もよく使われますが、元々ラテン語サクラメントゥム、ギリシャ語でミュステーリオンと言います。教派によって訳語が違い、ちなみにローマ カトリック教会では秘蹟と呼びます。

 きょうの箇所ですが「イエスガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられ」ました。
 不思議なことが書かれています。「ヨハネから洗礼を受けられた」と言うのです。4節を見ますと「洗礼者ヨハネが・・罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。・・住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。先ほども言いましたが、洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表すものです。しかしイエスには、悔い改めるべき罪がないのです。

 聖書はイエスについて何と言っているかと言うと、「罪と何のかかわりもない方」(2コリント 5:21)「御子には罪がありません」(1ヨハネ 3:5)「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた。」(ヘブライ 4:15)また「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブライ 7:26)「罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった」(1ペトロ 2:22)と述べています。

 では何故イエスは自ら進んで洗礼を受けられたのでしょうか。

 ヨハネによる福音書には「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ 13:15)というイエスの言葉があります。イエスは、わたしたちを救いへと導くために、わたしたちが歩むべき道を先立って歩んでくださったのです。

 イエスは、わたしたちのために、ご自身には必要のないことをなしてくださいました。それは洗礼だけではありません。人となってこの世に来られることも(受肉)、十字架を負われることも、ご自身の必要からと言うよりも、わたしたちの救いのためになしてくださいました。

 だから「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように」イエスの上に降りました。そして「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」のです。聖霊なる神も父なる神も、救い主の道を歩むキリストと共にあることを現されました。
 自分の必要のためではなく、わたしたち罪人の救いのために、人となってくださり、救い主として十字架へと歩み行かれました。聖書はそれを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2:6~8)と言っています。
 神のひとり子であるイエスが、救い主の務めを担い、ご自身をわたしたち罪人に与えてくださったのは、まさしく神の御心でした。救い主として歩み出すイエスの洗礼に際して、父なる神も聖霊なる神も、賛同を示すべく御姿を現されました。父・子・聖霊なる三位一体の神が、救いの御業の成就が神の御心であることを示されたのです。

 かつてジュニア青年部(高校生や大学生の年代)の集会で「洗礼を受けないと救われないのですか。洗礼を受けなければいけませんか」という質問が出たことがあったそうです。最初に言いましたように、洗礼という礼典、聖礼典は、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。それは救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。マルティン ルターという人は、自分が救われていることへの不安が襲ってくるとき、「このわたしは、イエス キリストの洗礼を受けている者である」と何度も紙に書いたというエピソードが残っています。聖礼典、洗礼も聖晩餐も、わたしたちが救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。
 わたしたちは洗礼という儀式によって救われるのではなく、イエス キリストご自身によって救われます。洗礼は、わたしたちがイエス キリストによって罪贖われ、清められ、神の子とされていることを確認する恵みです。イエスは、わたしたちが恵みの中を希望を持って歩めるように、救い主として洗礼を受けてくださったのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストが、わたしたちの救いのために洗礼を受けてくださったことを感謝します。イエス キリストによって、わたしたちの前には神の国に至る救いの道が開かれています。イエスが先立って歩んでくださり、その道が復活、そして神の国に至る道であることを明らかにしてくださいました。どうか備えられたこの救いの道を、主にある兄弟姉妹と共にキリストの希望に支えられて歩み行くことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

マルコによる福音書 1:1

2020年12月27日(日) 主日礼拝  
聖書:マルコによる福音書 1:1(新共同訳)

 

 聖書は、キリスト以前の旧約とキリスト以後の新約からなっています。新約の冒頭には、四つの福音書が収められていて、マルコによる福音書は二番目に収められています。二番目ですが、今日、マルコによる福音書が一番最初に編纂された福音書だと考えられています。
 なぜマタイによる福音書が一番最初に置かれているのか。それは、マタイ福音書ユダヤ人に向けて書かれた福音書で、(旧約で)「言われていたことが実現するためであった」とか「言われていたことが実現した」という表現が何回も出てきます。それで旧約とのつながりで一番目に置かれたのではないかと思います。

 マルコによる福音書は冒頭「神の子イエス・キリストの福音の初め」という簡潔な表現で始まります。
 先程言いましたように、福音書という形式の最初の文書がマルコによる福音書です。イエス キリストの生涯を福音という視点で捉えた最初のものです。
 福音というのは「よい知らせ」という意味です。ですから「イエス・キリストの福音」というのは、「イエス キリストがもたらしてくださったよい知らせ」という意味です。

 この個人名として用いられる「イエス キリスト」という名前ですが、これは名字と名前ではありません。当時、多くの人は名字を持たず、住んでいた土地の名前と合わせて「ナザレのイエス」つまりナザレ村に住んでいるイエスであるとか、父の名前と合わせて「アブラハムの子 イサク」だとか「エッサイの子 ダビデ」というように呼ばれていました。

 キリストというのは、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したもので「油注がれた者」という意味です。
 油を注ぐというのは、神の務めに聖別し任命することを表します。王や祭司を任職するときに油が注がれました。それがイエスがお生まれになった時代には、神が最後に遣わされる「救い主」を表す言葉として使われていました。ですからイエス キリストというのは、「イエスは救い主です」という信仰告白の表現でした。

 新約で最初に書かれたのは(ローマの信徒への手紙など)手紙・書簡ですが、最初のものは紀元50年前後に書かれたものであろうと考えられています。イエスの十字架と復活は、紀元30年頃ですから、その20年後ぐらいに書かれ始めました。その最初期に書かれたと考えられる手紙には「イエス・キリスト」という表現が何度も出てきます。紀元50年頃には、キリスト者の間で「イエス・キリスト」という言い方が定着していたことが分かります。
 ちなみにマルコによる福音書が書かれたのは紀元70年前後と考えられています。福音書が編纂されるようになった主な理由としては、イエスを直接知っている、イエスの話を直に聞いた、イエスの業を見ていた弟子たちが、地上の生涯を終えて天に召されていったからです。救い主イエスの言葉と業が、うろ覚えになったり、いい加減になったりしないように、イエスを直接知っている者たちの証言をまとめておこうとなっていったと考えられています。

 今日、マルコによる福音書の編集者が誰かは分からない、とされていますが、伝統に従ってここではマルコと呼んでおきたいと思います。
 マルコが、イエスがキリスト=救い主であると信じる主にある兄弟姉妹たちのために、またまだイエスを知らない人たちに「イエス キリストがもたらしてくださったよい知らせは、これです」とまとめたものが、マルコによる福音書です。
 その中身は「救い主が来られた。救い主が救いの御業を成し遂げられた。救い主はナザレのイエス。イエスが語られた言葉、なされた業はこれ。イエスは十字架にお掛かりになり、復活された」というものです。つまり、イエス キリストの福音=よい知らせというのは、イエス キリストご自身なのです。そしてマルコによる福音書は、イエスが救い主として歩み出されたところ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるところから始めます。

 そしてマルコは「イエス・キリストの福音の初め」と言って福音書を書き始めます。何が福音の初めなのか。それは、洗礼から十字架、そして復活に至る救い主の生涯こそが福音の初め、始まりなのです。ですから 1:1の言葉は、このマルコによる福音書全体の表題なのです。イエス キリストからよい知らせは始まったのです。そして、それは今に至るまで続いています。イエスが救い主=キリストであると信じて、救いに入れられ、永遠の命に与る神の子が起こされています。そしてこれからも続きます。救いの完成する日まで続いていきます。そしてその日まで、マルコによる福音書は読まれ、語られ続けるのです。

 マルコによる福音書が編纂されたことは、大きな神の恵みです。マルコによる福音書ができたことから、マタイによる福音書ルカによる福音書が編纂されました。そしてヨハネによる福音書も。わたしたちは、福音書を通してイエス キリストに出会い、イエス キリストを知ります。会ったことがなくても、声を聞いたことがなくても、イエスがキリスト=救い主であると信じるほどに出会い、知ることができます。聖霊なる神が働いてくださり、「イエスは主である」と告白させてくださることを経験します(1コリント 12:3)。
 マルコによる福音書は、聖書の他の文書と共に神の言葉です。今も生きて働く神の言葉です。

 1:1には「神の子」という言葉が最初にあります。注の付いている聖書や、注解書を見ると、「神の子」という言葉は「最古の有力な写本の一つには欠けており・・後代に付加された可能性がある」といったことが記されています。これは、マルコが書き上げたマルコによる福音書の原本こそ本物のマルコによる福音書という錯覚があるのではないかと思います。
 マルコによる福音書は誰か一人の手によって書かれたのではなく、語り継がれてきたイエスが語られたこと、イエスがなされた業が福音書という文書に編纂されていきました。最初は繰り返し語られる口伝でした。先に言いましたように、マルコによる福音書が形を取ったのは紀元70年前後と思われます。イエスが十字架に掛かり、復活されたのが30年頃、では最初の福音書ができるまでの間、どのようにしてキリストの福音は伝えられたのでしょうか。それは弟子たちの証しであり、その証しを聞いた人たちの口伝なのです。そして文書になったものは、信じる者たち、つまり教会によって保存され、伝えられていきました。そしてそれを導かれたのは、イエス キリストをわたしたちに与えてくださった神ご自身です。誰よりも神ご自身がイエス キリストを伝えたいと願っておられるので、二千年の時を超えて、イエス キリストは伝えられてきました。

 聖書学の学問的研究は、大切なものだと思います。多くの益をもたらし、説教に影響を与えてきました。しかし、時を超えてイエス キリストを伝えてくださる神の御業の前に身を低くする謙遜さは必要です。
 「神の子」という表現は、後代の付加かもしれません。それも含めて神の導きであるとわたしは考えています。
 わたしは、古代のキリスト者たちが自分たちのシンボルとして魚のマークを秘かに用いていたその影響があるかもしれないと考えます。公にキリスト者であることを言えない迫害の時代に、地面に魚のマークを書いて自分がキリスト者であることを伝えていたと言われています。ギリシャ語で「イエス キリスト 神の 子 救い主」の頭文字をつなげると、イクテュス(ギリシャ語で魚)という単語になります。そこから魚のマークが使われたのですが、そこにある「イエス キリストは神の子」という信仰が影響を与えたのかもしれません。
 わたしは、この「神の子」という表現には、迫害という悪い状況の中でも信仰を持ち続けたキリスト者たちに対する、神の祝福が込められているのかもしれないと思うのです。

 今年は、新型コロナウィルスによる感染症 COVID-19に対する配慮から、主日礼拝への出席を控えて頂くようお願いし、教会の集会の多くを休みとするという教会にとって異常とも言える事態を経験しました。その影響は今も続いています。けれど、どんなに悪い状態が続いているように見えても、その事も含めて、ひとり子を遣わすほどにわたしたちの救いを願っておられる神が導いておられます。イエス キリストの到来により「神の子イエス・キリストの福音の初め」は始まり、今も続いています。教会が礼拝を中断しようと、集会を中断しようと、神の救いの御業は中断されません。誰も、何物も神の御業を妨げることはできません。そして神は、わたしたちを新しい年へと導いていってくださいます。
 神が始めてくださった「神の子イエス・キリストの福音の初め」は、今もわたしたちを包み、救いの完成へ、神の国へと導いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 御言葉を通して、時を貫いてなされるあなたの救いの御業を思うことができましたことを感謝します。様々な出来事があったこの年の終わりに、今もあなたの救いの御業がわたしたちを包み、導いていてくださることを覚えることができますように。あなたにある希望を持って、委ねて新しい年へと歩み出させてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン