聖書の言葉を聴きながら

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「救いの道を歩んで生きる」(ルカによる福音書21:20〜24)

「救いの道を歩んで生きる」

 

2021年7月25日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章20節〜24節

 

 きょうの箇所は、5節から続くエルサレム神殿の破壊、ユダヤ滅亡についてのイエスの言葉です。

 この福音書を編纂したルカは、1章3節に出てくるテオフィロなる人物に福音書を献呈しています。ルカは、イエスの言葉が真実であることと、いかにローマ帝国が強大であっても、滅びゆくものであって、依り頼むことはできない、ということを伝えようとしています。

 紀元66年にユダヤ戦争が始まります。紀元70年にエルサレム神殿は破壊されます。そして紀元73年までユダヤ戦争は続きます。ユダヤという国は滅び、ユダヤ人は流浪の民となります。

 ルカはイエスのこの言葉を、おそらく直接ではなく、伝え聞いていたのだろうと思います。ルカはエルサレムに関するイエスの預言が真実であったことを確信し、テオフィロに今はローマが滅びるなどと考えられなくても、ローマに依り頼み、ローマを誇りとするのではなく、神に依り頼むこと、そして神が遣わされたイエス キリストこそ、あなたを救い支えてくださる方であることを伝えるために、この部分を丁寧に書いたのだろうと思います。

 

 ここでイエスは「逃げなさい」と言われます。罪の世の過ぎゆくもの、神の裁きを受けるものと一緒に滅ぶことのないように逃げよ、と言われます。

 それは「書かれていることがことごとく実現する報復の日」だからだと言われます。神の民であるユダヤ人の罪に対する裁きがなされることを表しています。神の民の務めは、神を神として生きることです。しかし、ユダヤ人は神の救いの業を拒絶し、イエス キリストを捨ててしまいました。

 ヨセフスという歴史家が『ユダヤ戦記』という書物を残しています。その『ユダヤ戦記』には、この戦争で110万人が殺され、97,000人が捕虜とされたとあります。

 「彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」

 以来1900年、ユダヤ人は国を失ったまま流浪の民となりました。1948年にイスラエル国が建国されて「異邦人の時期」は満ちたのでしょうか。そうではない、と思います。なぜなら、悔い改めて、武力に頼らず神に依り頼んで生きるようにはなっていない。イエス キリストを神が遣わした救い主だと信じるに至っていないからです。

 

 イエスは「逃げなさい」と言われました。逃げると言えば、創世記19章のソドムとゴモラが滅ぼされる場面を思い起こします。19章15節~17節と23節~26節へと読んでみましょう。「夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」」・・「太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」

きょうの箇所とよく似ています。おそらくイエスは、ソドムとゴモラの出来事を踏まえて「逃げなさい」「都に入ってはいけない」「報復の日」だと言われたのだろうと思います。未来を予見して語るというよりも、聖書に記されていることが実現するという意味合いで語られたのだと思います。

 裁かれるものに心引かれてはなりません。ロトの妻のように裁きに巻き込まれてしまいます。エルサレムから離れなくてはなりません。ヨセフスが記すようにエルサレムと共に滅んでしまった人たちは大勢いたのです。そして、ローマが裁かれるときにはローマから離れなくてはなりません。ローマは当時の世界の最先端の文化、文明を誇る大帝国です。ローマが滅びるなどと誰も思いはしません。しかしルカがテオフィロ福音書を献呈してから1900年余り、ローマはもはや歴史の彼方、遺跡において当時を忍ぶばかりです。

 

 それでは、わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世に依り頼まない信仰を持っているでしょうか。わたしたちが暮らす日本もまた今の時代の最先端、豊かな文化と文明のただ中で生きています。けれど、わたしたちはこの世が不動のものではない徴を与えられています。76年前の戦争、26年前の阪神・淡路大震災、10年前の東日本大震災原子力発電所の事故、5年前の熊本地震、そして今の新型コロナウイルス。わたしたちの国はとても豊かでありながら、実に不安定、不確かな存在です。この日本もまた、神の御業の中で過ぎ去り、裁かれる存在です。

 原子力発電所の事故では多くの人がふるさとを失いました。流浪の民となりました。誰も責任を取ってはくれません。ふるさとを返してはくれず、以前の生活を返してはくれません。もちろん失われた命を返してはくれません。3月11日が近づけば思いだし、過ぎれば忘れて別の事へと思いは向かいます。8月15日と同じです。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみが」あるというイエスの言葉どおりのことが起こるのを、わたしたちは見て知っているのです。

 

 わたしたちは、この目に見える世界で生きています。この世界にある様々なものを必要とし、様々なものに支えられて生きています。けれどわたしたちは、それらのものを創り、それらを備え与えてくださる神へと思いを向けなくてはなりません。わたしたち自身も、わたしたちの周りにあるものも、神が創り、治め導いておられます。そして神だけが永遠に真実なお方です。神が遣わしてくださった神よりの神イエス キリストだけが「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」お方ですとヘブライ人への手紙13章8節にあります。ローマの信徒への手紙1章25節で、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」と言われていたとおりです。

 

 わたしたちは、命の源であり、世界の源である神を知り、神と共に生きる者です。神の救いの御業が一人ひとりの上に、世界に成されることを祈り、そのために仕えていく者たちです。

 ルカもまたテオフィロの救いを願い、この福音書を読むすべての人の救いを願ってこの箇所を丁寧に記しました。

 どうか皆さんが神の裁きを逃れて、救いへと入られますように。聖書に記されている神に祝福されたすべての聖徒たちと同じように、神に導かれ、神に祝福されて救いの道を歩んでいかれますように。

 

 

祈ります

 

天の父なる神様

わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世住んでいます。 あなたがが「逃げなさい」と言われたとき、あなたの裁きを逃れ救いへと入れますように、裁かれるものに心引かれ裁きに巻き込まれ無いように、にあなたに導かれ、あなたに祝福された救いの道を歩んでいけますように。

アーメン

 

 


この説教は、2017年3月26日に語ったものですが、長老がその説教原稿を読み込んで、「5年前の熊本地震」の後に、「そして今の新型コロナウイルス」と付け加えて語って下さいました。

 

 

 

 

 

 

「主を誇りとし、主に望みを置いて生きていく」(ルカによる福音書21:10~19説教)

「主を誇りとし、主に望みを置いて生きていく」

 

 2021年7月18日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章10節〜19節


 
 きょうの場面は、21章5節からの続きです。

 エルサレム神殿は、大規模な改修工事が行われていました。その見事な石と奉納物を見て感心していた人たちに対し、イエスは神殿が破壊されることを予告されました。そしてきょうの次の箇所、20節には「エルサレムが軍隊に囲まれるの見たら、」と書かれています。ですから、きょうの箇所もエルサレムの滅亡に関して語られた言葉です。今私たちが使っている新共同訳聖書では、7節からのところに「終末の徴」という小見出しが付けられていますが、ルカは世の終わりについて語ったのではなく、エルサレムの終わりについて語られたイエスの言葉を記したのです。

 イエスの救い主としての活動は、およそ紀元30年頃から3年間ぐらいであったと考えられています。そしてエルサレム神殿の改修工事が完了したのが、紀元63年頃、ユダヤ戦争が勃発するのが紀元66年。エルサレム神殿が破壊されてしまうのが紀元70年の出来事です。

 ですから、きょうの箇所でイエスが言われたことは、この語られた場面からおよそ40年間に起こってくる出来事を告げておられるのです。イエスが語られたのは、戦争、災害、疫病、飢饉、迫害です。

 これらは、神殿が破壊される前に起こる特別なことではありません。いつの時代にも起こることであり、今も起こっていることです。

 紛争は絶えず世界のどこかで起こっています。民は民に、国は国に敵対しているような状況は、日本にもあります。

 大きな地震は、近年日本においても多発しています。

 様々な疫病が世界に広まり、感染の流行を示すパンデミックという言葉もよく使われるようになってきました。

 日本では十分な食料があるように思えますが、世界の半数は飢えているとも言われています。

 人権ということが言われるようになって結構な時間が経ちました。世界最初の人権宣言は1776年にアメリカで宣言された「バージニア権利章典」だと言われます。そして日本最初の人権宣言は1922年に京都府で宣言された「水平社宣言」であると言われます。世界で人権が言われて250年弱、日本でも100年近くになります。しかし、世界でも日本でもいじめから迫害に至るまでなくなることはありません。近年ナショナリズムは強まりつつあり、ヘイトスピーチなど排他主義は公然と主張されるようになってきています。この国でもキリシタン時代の迫害があり、

明治以降も耶蘇と言われ、石を投げられたようなこともありました。そして、これからも迫害の時があることでしょう。家族も友人も支えてはくれず、憎まれ、中には殉教する人も出てくるのでしょう。

 罪の世にあって、歴史は繰り返されるでしょう。何度争いを経験し、人を区別し差別して、それらが悲しみと怒りしかもたらさないと気づいていても、罪人はそこから離れることができずにいます。

 繰り返される罪の歴史の中で、それを貫いて成されていく神の御業にこそ、わたしたちは気づいていかなくてはなりません。

 イエスが語られたこれらのことは、世の人々が支えとし誇りとしていたものが崩れていく過程で起こってくるものです。ここではエルサレム神殿であり、神の民ユダヤ人であるということです。事実、神殿は破壊され、彼らは国を失い、キリストを拒絶しキリスト者を迫害した彼らが、迫害される者となりました。

 この箇所で、これらの言葉で、イエスが問われているのは、わたしたちが今、何を支えとし、何を誇りとして生きているのか、ということです。

 この場面の始まりはこうでした。ある人たちが神殿を見て、感心している。この神殿は素晴らしい、誇らしいと感じている人たちに対して、イエスが語りかけられました。あなた方の感心しているものが崩れ去っていく、あなた方はこれに望みを置き、これを誇りとするのではない。それを気づかせるためにイエスが語りかけられました。わたしたちは、そのことを心に留めてこの箇所を読まなくてはなりません。この箇所は単なる未来の予言ではないのです。

 ルカがこの場面を記したのは、過ぎ去り、消え去っていくものを誇りとするのではなく、変わることのない神の真実な御業、イエス キリストにこそ心を向け、喜び、望みを置くためです。この福音書の冒頭には「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしも・・順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」(1:3)と献呈の言葉が書かれています。ルカは、世界の中心都市ローマ、エルサレム神殿をしのぐ壮麗な建物が並ぶローマもまた過ぎ去り、消え去っていくものであり、人の支えとはなり得ず、誇りとすることもできないということを、伝えようとしているのです。そしてルカは、この福音書を通してイエス キリストを伝えるのです。「この人をご覧ください。この人こそ、あなたを最後まで支え導くお方、あなたの救いとなり、あなたの誇り、望みとなるお方です」と伝えているのです。

 そして今、神ご自身がこの御言葉を通してわたしたちに語りかけ、問いかけておられます。あなたは何を誇りとし、何に望みを置いているか。誰があなたを救うのだろうか。

 すべてのものが移り変わる諸行無常の世にあって、永遠に真実であられる神以外にわたしたちの誇りとなり、支え続けてくれるものはないのです。旧約でもこう言われてきました。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが我らは、我らの神、主の御名を唱える。」(詩篇20:8)また「聖なる御名を誇りとせよ。」(歴代誌上16:10、詩篇105:3)とも言われています。ですから新約でも「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(1コリント1:31)と言われています。

 ですから19節で「忍耐によって、」と言われているのは、神へと思いを向け、神を誇りとし、神に望みを置くことに堅く留まる、ということです。神の許でこそ、自分自身の魂、つまりわたし自身を失うことなく、しっかりと保つことができるのです。なぜなら、このわたしの創造のときから神がわたしを愛していてくださり、わたしが失われることがないように神が救い主を遣わしてくださったからです。神の許にこそ、このわたしのあるべき場所が備えられているのです。

 罪の世で生きていれば、困難もあるでしょう、迫害もあるでしょう。中には殉教する者も出てくるでしょう。しかし、どのような時にもどんな状況にあっても、神の民は神の御手の中にあり、髪の毛一筋でも神から奪い去られることはないのです。

 神と共に歩むための言葉、わたしを支えてくれる言葉は、神が与えてくださいます。この世の基盤が揺らぎ、迫害が起こるとき、「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」「言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。」とイエスは言われました。本当に必要なものは、神から来るのです。救いは、神が備えていてくださいます。これからもそうです。だから、どのような時にもどんな状況にあっても、神の民は神の御手の中にあり、髪の毛一筋でも神から奪い去られることはないのです。

 神は言われます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は今こう言われる、恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1)神はそのためにイエス キリストをお与えくださいました。キリストの命によって、わたしたちは贖われ、わたしたちはキリストのもの、神のものとされたのです。

 ですからわたしたちは今、イエス キリストを誇りとし、神に望みを置いて生きていくのです。終わりの日まで、神に依り頼み、神に救われ、神に支えられて歩んでいくのです。

祈ります

ご在天の父なる神さま、今この世は疫病があり、自然災害が多発し、また、国と国とが対立することが多く起こっております。このような中にあって神さまの存在を見失ってしまいそうになることが多くあります。しかし神さまは私たちにイエス様を遣わしてくださいました。どのようなことがあっても神さまに望みを置き、依り頼んで生きていく事が出来ますようにお守りください。

この祈りを、主の御名によりましておささげいたします。

 

アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分自身を主に委ね、ささげていく」(ルカによる福音書21:1~4)

「自分自身を主に委ね、ささげていく」

 
 2021年7月4日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章1節〜4節

 

 イエスは今、神殿におられます。金持ちがやって来て献金を賽銭箱に投げ入れています。イエスは、その中で貧しいやもめが銅貨を2枚、2レプタ入れるのに目を留められました。

 イエスは言われます。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 レプタというのは複数形です。単数形だとレプトンとなります。レプトン銅貨と呼ばれるものがあって、この女性はそれを2枚ささげたわけです。1レプトンは、1/128デナリオンだと言われています。1デナリオンは、労働者1日分の賃金であったと言われています。分かりやすく考えるために、1日時給800円で8時間働いたとします。そうすると、1日6,400円もらえます。これが1日分の賃金、1デナリオンです。これの1/128は50円です。ですから2レプタで100円となります。これがこの女性のこの日の生活費全部でした。

 おそらくこの女性は、この日断食して、この日の生活費全部をささげ、神に祈ったのでしょう。

 こういう習慣は、今でもあります。キリスト者の場合なら、キリストの受難を覚える復活節の前の金曜日には断食をして祈る人がいます。祈りに専心するために断食するという人もいます。イスラム教の場合、ラマダンと呼ばれる断食月があり、その期間は日中は断食し、その分を施しに当てる、と聞いています。日本でも、願掛けをし、願掛けの期間は好きなことを断って祈るという習慣があります。

 それでも、この女性が貴重な1日分の生活費全部をささげたのには、特別な事情があったのかもしれません。しかし、聖書はその事情については何も記しておりません。

 今日の聖書の直前(20章45節~47節)で、イエスは律法学者たちが自分で自尊心を満たそうとしたり、経済的に満たそうとするあり方を批判されました。それに続いて、イエスはこの貧しいやもめの献げ物を指し示してお語りになります。

 彼女はこのとき、自分自身を神に委ね、自分自身を神にささげたのです。

 サムエル記上15章22節にはこうあります。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」。
 詩篇51篇19節では「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」と言われています。
 そして、ミカ書6章6節~8節では「何をもって、わたしは主の御前に出でいと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。」と言われています。

 神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。

 献金の祈りにおいて、「献身のしるしとして」と言われるのは、「主よ、わたしたち自身をあなたにおささげします。そのしるしとして、献金をあなたにささげます」ということです。

 わたしたちは、自分自身を主に委ね、ささげようとしているかどうか、この貧しいやもめとイエスの言葉を前にして、時々自分に問いかけてみる必要があるのだと思います。

 ちなみに、聖書が記す献金の基準は十分の一です。創世記28章22節でヤコブが夢で天にかかるはしごを見た後で「わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」と言っています。
 民数記18章26節では「レビ人に告げてこう言いなさい。わたしがあなたたちの嗣業として与えた十分の一を、あなたたちがイスラエルの人々から受け取るとき、そのうちの十分の一を主にささげる献納物としなさい」と命じられています。

 そしてこの十分の一は、信仰の熱心が暴走しないように歯止めをかけます。
 教会が「これは大事な主の御業なのです。信仰の熱心があればもっとささげられるでしょう」などと言って、無制限に献金を求めてはならないのです。神は十分の一と言って、それ以上に差し出すように求めることを禁じておられます。
 きょうの箇所の直前で「やもめの家を食い物にし、」と言われたのは、このことに抵触することなのかもしれません。きょうの箇所でも、イエスは生活費全部をささげなさい、などと言っておられるのではありません。

 日本キリスト教会には、教会と伝道所があります。伝道所から教会になるための目安として、現住陪餐会員が30名と言われてきました。なぜ30名かと言いますと、クリスチャンホームが10家族 夫婦20名が十分の一をささげると、牧師一家族を支えることができます。もう5家族 夫婦10名が十分の一ささげるもので建物を維持すると考えたからです。
 わたしは聖書を基準とした現実的な考え方だと思います。しかし、実際には教会員はクリスチャンホームだけではありませんから、あくまで目安です。

 わたしたちは十分の一献金を厳格に守るわけではありません。律法学者のように、十分の一をささげていることを信仰の手柄のようには考えません。献金は、わたしたち自身、そしてわたしたちの生涯を神にささげる信仰を育むために、神が定めてくださったものです。

 どれだけ献金するか、ささげるかは、神に祈りつつ一人ひとりが決める事柄です。

 そのときに、わたしたちが考えなければならないのは、「わたしは自分自身を神にささげているか、委ねているかどうか」なのです。これが献金を考えるときに第一に考えるべきことです。それが金額のことが第一になると、信仰がずれてきます。

 献金もまた信仰の事柄です。神に喜ばれる献げ物となるように、わたしたちは神に祈り、神と相談しつつささげていくのです。財布を見て、これぐらいなら大丈夫だと言ってささげるのではありません。どれほど多くの献金がささげられていても、自分自身を神にささげているのでなければ、教会は神の栄光を表すことはできません。神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。
 聖書は告げます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ 12:1)。

 神はたくさん献金をささげさせるためにイエス キリストを遣わされたのではありません。わたしたちが救われ、わたしたちが神と共に生きるために、神はひとり子をさえ惜(お)しまずに差し出してくださり、ささげてくださったのです。

 主イエスは、この2レプタささげた貧しいやもめの思いも状況も知っていてくださいます。この2レプタが賽銭箱に投げ入れられたとき、それが2レプタであるとはおそらく肉眼では確認できません。けれどもイエスは、その女性がどれだけのものを、どのような思いで、どんな信仰でささげたかを、知っておられるお方です。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。・・・この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。

 わたしたちは、このすべてをご存じの主に、安心して、希望を持ってささげていくのです。

 わたしのささげるもの、それはわずかかもしれない。足りないかもしれない。けれど、主はわたしを知っていてくださる。主は、このわたしを救うために命をさえ差し出してくださり、わたしを神のもとへと導いてくださるお方。だから、わたしたちは安心して、希望を持って、この主にささげていくのです。これから先、どんな人生があるのか分からない。けれど、それも主に委ねていけるのです。主は、わたしが主と共にあって、喜び祝うことができるようにと、来て、命をささげてくださいました。だから、この方にすべてを委ねていくのです。その信仰をもってささげられるものを、主はちゃんと覚え、祝福してくださいます。

 わたしたちはそのように、すべてを知り、すべてを受け止め、そしてすべてを祝福してくださるお方と共にある大きな恵みの中に、今入れられているのです。

祈ります。

天にいらっしゃいます父なる神さま。わたくしたちは罪深いものです。しかし神さまは、そのことも含めて、わたくしたちの事を全てご存知です。そして愛し導いてくださいます。神さまの愛とお導きを信じ、わたくしたちの事すべてを神さまに委ね、ささげて日々歩んで行く事が出来ますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によりましておささげいたします。

アーメン

 

 

 

 

 

 

「祈りによって、神とともに歩む」(ルカによる福音書20:45~47)

 「祈りによって、神とともに歩む」

 

 2021年6月27日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章45節〜47節

 

 前回、イエスは人々がキリストを「ダビデの子」と呼ぶことの間違いを指摘されています。キリストはダビデの子ではなく、神の子なのであります。

 

 きょうの45節以下のところでは、イエスは弟子たちに言われます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言って、キリストを宣べ伝える弟子たちのあり方、心構えを語られました。

 第一は、「長い衣をまとって歩く」ということです。この長い衣は律法学者のユニフォームとも言える服装であると指摘しているものがありました。一目で律法学者と分かる服装をして、広場や市場を歩くのです。自分は律法学者なんですよ、と長い衣に語らせるのです。なぜなら、律法学者であると分かると敬意を払ってもらえるからです。律法学者の自尊心が満たされるというものです。

 第二は、第一とつながりますが、「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」ということです。これも敬われることで、自尊心を満たそうと願っていることが分かります。

 第三には「やもめの家を食い物にし」とあります。聖書にある律法学者というのは、神が定めた法律の専門家という意味です。律法と訳されるギリシャ語「ノモス」は、聖書以外では普通「法律」と訳されます。ですから、律法学者というのはユダヤにおいては法律の専門家です。夫を亡くした未亡人である「やもめ」が財産の管理などを律法学者に依頼します。今日であれば、弁護士や司法書士などの法律の専門家に法律に関わる仕事をお願いするのと同じです。

 旧約を読むと分かりますが、神はやもめがちゃんと暮らしていけるように、配慮しておられます。例えば、申命記10章18節では「孤児と寡婦(やもめ)の権利を守」るように命じられています。またエレミヤ書49章11節では「あなたのみなしごを置いて行け/わたしが育てる。あなたのやもめらをわたしにゆだねよ」と言われています。神がこのようにやもめを心にかけておられるのを律法学者は当然知っています。それなのに、自分を満たすために律法を利用して奪い取ってはならないのです。

 第四は、「見せかけの長い祈りをする。」ことです。自分の信仰が立派だと思われるために、祈りを利用してはならない、ということです。

 これらを通して、イエスは弟子たちに、あなたたちに託された務めは自分を満たすことではない、自分を満足させるために神を利用してはならない、ということを言っておられるのです。

 人によって程度は異なりますが、わたしたちは人が自分をどう評価しているのか気になります。特にわたしたち日本人は、世間の目を評価の基準とする文化の中で生活をしています。世間に迷惑をかけないことを倫理の基準にしがちです。どうしても他人の目が気になります。しかしこれは、きょうの聖書の記事からも分かるとおり、日本人だけの問題ではなく、罪人に共通する問題です。

 ですから、教会は人の目や人の評価ではなく、神の前に立つことを大切に考えてきました。そのために重んじられたのが「祈り」です。祈りは、神の御名を呼び、神の御前に進み出るための、神からの贈り物、プレゼントです。

 教会の始まりとされる聖霊降臨の出来事は集まって祈っているときに起こりました。日本の教会の始まりも、新年の祈り会において起こりました。祈りは、神と共に生きるために欠かせない恵みの賜物であります。旧約の中に150篇もの詩編、祈りがあり、神が祈りをご自身の言葉として聖書に入れられたことからも、祈りの大切さが分かります。

 日本キリスト教会も、祈り会を主の日の礼拝と共に、信仰生活の車の両輪と位置づけ、大切にしてきました。皆さんは今、祈りを大切にしておられますか? 人の目を気にするのではなく、神の御前に立ち帰り、人から評価されるのではなく、神から祝福されることを求めて、祈りによって神と共に歩んでおられるでしょうか?

 

 神を証しする務めを託された者が、人からの評価を求め、自分を満たそうと勘違いすることがないようにと、イエスは「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と弟子たちに注意を与えられたのです。

 

 復活されたイエスは、弟子たちに次のように言われました。マタイによる福音書28章19節20節「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

 そして今、わたしたちは洗礼を受けてキリストの弟子とされている者、あるいはキリストを信じて弟子となるようにと招かれている者です。キリストの弟子として、神の御業、救いの御業に仕える務めが与えられているのです。きょうの御言葉はまさしく、今の教会のわたしたちに向けて語られた言葉なのです。

 

 

 

 

 

 

「ダビデにまさる神の子イエス・キリスト」(ルカによる福音書20:41~44)

ダビデにまさる神の子イエス・キリスト

 

 2021年6月20日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章41節〜44節

 

 イエスは今、エルサレムにおられます。十字架を負うためにエルサレムへ来られました。19章47節からエルサレムでの場面になりますが、その冒頭で「イエスは毎日、宮で教えておられた」と言われています。きょうの出来事も、宮すなわち神殿での出来事です。

 

 41節に「イエスは彼らに言われた」とあります。彼らというのは39節に出てくる律法学者たちことだと思われます。イエスは彼らに尋ねます。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。このメシアのギリシャ語訳がクリストスで、「キリスト」はその日本語表記です。キリストは救い主を表す言葉です。ですから「救い主をダビデの子だと言うのはなぜか」と聞かれているのです。

 

 エゼキエル書34章23節~24節でこう言われています。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」

 こういう預言を聞く中で、人々は「救い主はダビデの子」だと言うようになったのです。

 ルカによる福音書も、3章の終わりにイエス系図を載せています。ルカの系図は、イエスから先祖へと遡る系図ですが、そこの31節にダビデの名が出てきます。

 イエスはなぜ「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか」と問われたのでしょうか。

 それは、「ダビデの子」という言い方で人々が考えている救い主の姿が間違っているからです。

 

 ダビデイスラエル王国第2代の王でした。初代の王サウルにまさって国を確立した王でした。イエスの時代、ユダヤローマ帝国支配下にありました。人々は、ダビデのような王が立てられて、ユダヤの独立、そして神の民の誇りを救い主が取り戻してくれることを期待していました。

 人々は、自分にとって都合のいいところにだけ注目して、ダビデのような王を期待します。しかし、神がダビデの名をお用いになるのは戦いに優れ、他国に勝利したからではありません。

 ダビデの生涯については、サムエル記上16章から列王記上2章に書かれています。彼は王になるまで大変でした。彼の妻は、初代の王サウルの娘ですが、ダビデの評判が高まると、サウルにねたまれ命を狙われます。ダビデは国中を逃げ回り、隣の国にまで逃げることもありました。その中で、サウルの命を奪うチャンスもありましたが、ダビデはそれをせず、神に信頼しました。王になってからは、ダビデはバテシバのことで過ちを犯し、そのため子どもの命を失いました。さらに他の子どもが反乱を起こし、子どもに命を狙われることもありました。

 ダビデは人々が期待するようなかっこいい成功者ではありません。彼は、困難の中で、罪の中で、神に望みを置く人、神に依り頼む人でした。そしてその故に、神は彼の名を用いられたのだと思います。

 

 しかし、イエスダビデにまさるお方です。聖書が告げているのは、イエスダビデの子孫としてお生まれになりましたが、ダビデの子ではなく、「神の子」であるということです。

 

 イエスは、ダビデにまさる者であることを詩篇を引用して明らかにされました。42節, 43節で引用されているのは、詩篇110編:1節です。

 110篇には「ダビデの詩」という表題が付いています。そしてイエスは、この詩篇がキリストを指し示すものとして引用されました。

 イエスがこのように110篇をキリストを指し示すものとして使われたので、聖霊降臨の出来事の後で、ペテロが人々に語りかけるところでも詩篇110編:1節を引用して、使徒言行録 2章33節~34節でイエスがキリスト=救い主であることを証ししています。

 イエスは、110篇の冒頭で「わが主に賜った主の御言葉」とダビデが言っているのは、ダビデがキリストを「わが主」と呼んでいるのだと言われます。だから、キリストはダビデにまさる者であり、ダビデの子と呼ぶのは正しくない、と言って、人々が「ダビデの子」という名前でイメージする救い主の姿を否定されたのです。

 

 罪人は、自分の望む偶像を作り出します。神に選び出された民であろうと、旧約の御言葉に養われてきた民であろうと、自分の望む偶像を作り出します。キリストをさえ自分好みの偶像にしてしまいます。イエスは、人々が自分の好み、自分の期待でキリストを思い描くのではなく、御言葉によって示されてキリストを知るようにと、詩篇を引用してお語りになったのです。

 わたしたちは、滝に打たれたり、断食したりして、ある日突然ひらめいて神を知ったのではありません。神がわたしたちに語りかけ、ご自身を啓示して教えてくださったので、わたしたちは真の神を知ることができたのです。ですから、自分勝手なイメージで神を思い描くのではなく、神の言葉に聞いて、教えられて、神を知ることが大事なのです。

 

 43節の部分を引用されたのは、これからの出来事を弟子たちが受け止めるためです。

 イエスは十字架を負うためにエルサレムに来られました。しかし、イエスの救いの御業は、十字架の死で終わるのではありません。キリストは、復活させられ、神の右の座に引き上げられ、敵がキリストの足台とされるときまで、神と共におられるのです。

 真の神であり真の人である救い主イエスは、復活し、天に昇り、神の国に入れられた最初の人となってくださいました。

 人が死を超えて、神の国に至る道を開いてくださいました。

 

 イエスがこれを明らかにされたので、使徒信条も「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しているのです。イエスがここで教えてくださったことに導かれて、使徒信条も告白しているのです。

 

 イエス キリストは、救いの業を完全に成し遂げてくださいました。人々が勝手に作り上げたダビデの子としてではなく、3章22節で「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神ご自身が言われたとおりの「神の子」として救いの業を成し遂げてくださいました。

 

 当時のユダヤ人だけでなく、わたしたちも自分好みの救い主を思い描きます。こういう風に救ってほしい。こういう救い主だとわたしは心から喜べる。しかし、罪人の思いが救いを成し遂げたことはありません。神の御心がキリストを遣わし、神の御業が救いを成し遂げてくださったのです。わたしたちの命も、未来も、神が開き、与えてくださるのです。

 わたしたちの救いを願われる神は、だからこそ聖書を通して語り続けて、わたしたちに御心を、御業を、そしてご自身を示してくださるのです。キリストを、あなたの救い主を正しく知るようにと、神はきょうも語ってくださったのです。

 

祈ります

 

天の父なる神様

  私たちは、自分の望む偶像を作り出します。神の言葉を聞こうとしている私たちも、自分の望む偶像を作り出します。キリストをさえ自分好みの偶像にしてしまいます。私たちが自分の好み、自分の期待でキリストを思い描くのではなく、御言葉によって示されてキリストを知ることができますように。

 イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン