聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 143:1〜6

2020年10月14日(水) 祈り会
聖書:詩編 143:1〜6(新共同訳)


 きょうは143篇です。これもまた神に助けを求める祈りです。そして七つの悔い改めの詩篇の一つに数えられています。ちなみに他の六つは 6, 32, 37, 51, 102, 130篇です。

 1節「賛歌。ダビデの詩。」
 この詩篇ダビデの名が記された詩篇です。
 「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。」
 詩人は祈りが神に聞かれることを切に求めます。
 「あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。」
 主がわたしの祈りを聞いてくださること、答えてくださることを求めます。それは、神のまことと恵みの御業が、詩人の信仰を支えているからです。神がわたしたちの応答を求めておられるように、わたしたちも神が答えてくださることを必要としています。

 2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。」
 詩人は神に裁かれることを恐れています。神を信じているからこそ、命の源である神に裁かれるのを恐れています。
 なぜなら「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」ということを詩人は知っているからです。

 時々「旧約の信仰と、新約の信仰は違う。旧約は律法を守ることによって自分で正しくあろうとする。新約とは違う」と言う人がいますが、それは誤りです。今見ましたように「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」とはっきり言っています。そしてこの箇所だけでなく、例えば列王記上 8:46にも「罪を犯さない者は一人もいません」と書かれていますし、詩編 130:3でも「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」と言われています。
 そして律法を守れないからこそ、様々な贖いの規定が定められているのです。旧約も新約も、わたしたちが皆罪を抱えていること、罪は贖われなければならないこと、救いが必要であるという信仰は同じです。

 3節「敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。」
 ここで言われている「敵」は、具体的な誰かと言うよりも、詩人を陰府へと導こうとする罪の力ではないかと思います。人々を神に逆らわせ、神に従う者を妨げ、抑圧させようとする罪そのものではないかと思います。まさしく罪は「わたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようと」するものです。神が祝福をもって与えてくださった命を奪い去ろうとするものです。

 4節「わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。」
 前回も申し上げましたが、霊の働きはつながることです。わたしたちは神にかたどって造られています。ですから神とつながることが、わたしたちを命で満たす大切な点です。
 それが詩人は今、自分の霊がなえ果てていると言うのです。つまり、神とのつながりが弱まっているのを自覚しています。ですから神に従って生きていこうとする詩人の心は挫けます。

 5節「わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。」
 詩人は、わたしたちと同じことをします。わたしたちが聖書から、神がなされた救いの御業を聞いて、その一つひとつから、神の御心を聞き、神の愛と恵みを受け取るように、御手の業を思いめぐらし、神が救いの神であることを確認するのです。

 6節「あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。」
 詩人は神を求めます。かつて祈りは、天を仰ぎ、手を差し伸べ、神に向かって自分を開いて祈りました。詩人は、神だけが渇いた大地のような魂を潤すことができることを知っています。
 イエスサマリアのシカルで、名も知られぬ女性に言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ 4:14)
 実は、両手を広げ、魂を向けて待ち望んだ詩人に、神が与えてくださったのがイエス キリストでした。イエス キリストが、この詩人の祈りを満たしてくださったのです。イエス キリストは詩人の祈りに応えるため、肉体を取り、人となってきてくださいました。罪に怯え、死を恐れる詩人に命の水を与えるため、十字架を負い、命を献げてくださいました。イエス キリストだけが、死を打ち破り、復活し、永遠の命を与えてくださいます。
 詩人は、イエスを見ることはありませんでした。しかしイエスは、代々の聖徒たちの救い主・助け主として来てくださいました。神に望みを置いたすべての聖徒たちは、イエス キリストによって救われるのです。

 この祈りが聖書に収められているのは、旧約の御言葉がイエス キリストを指し示している一つの証しであると思います。イエス キリストがもたらす救い、命、そしてイエス キリストご自身によって、旧約と新約は一つに結び合わされ、世の終わりまで神を証しし続けていきます。だからわたしたちは旧約の御言葉からも新約の御言葉からも聞いていくのです。

 自分の罪、裁きを恐れる人は、是非この143篇を繰り返し読み、祈って欲しいと思います。きっと神がわたしたちの救いの道を備えてくださっていることに気づかせて頂けると思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人と共にあなたに望みを置いて祈ります。あなたが救いのために与えてくださったイエス キリストで、わたしたちを満たしてください。わたしたちが罪の世にあって感じる渇きを癒してください。あなたへの信仰が弱まり薄れるとき、わたしたちは虚無に飲み込まれてしまいます。御言葉によりあなたと出会い、あなたの救いで満たしていってください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン