聖書の言葉を聴きながら

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「イエス・キリストの十字架の光」(イザヤ書60:1〜9)

  「イエス・キリストの十字架の光」

 

 2021年12月12日(日) 主日礼拝【待降節第3主日礼拝】 

聖書箇所:イザヤ書  60章1節~9節

 

 きょうは待降節第3主日です。

 

 預言者は、バビロン捕囚から解放されたエルサレムの民に向かって語ります。

 彼らの目の前にあるのは、復興が始まったばかりの町並みです。神殿も破壊されたままです。その民に向かって、神はお語りになります。

(1~2節) 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる」

 

 目に映る現実は、闇に覆われています。光が見えません。途方に暮れて、しゃがみ込みたくなるような現実。神に向かって悪態をつきたくなるような現実です。

 

 けれど神は語られます。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り・・・あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる」

 

 主ご自身が光なのです。月が太陽の光を受けて光を放つように、神の民は光である神ご自身の栄光を受けて、光を放つのです。イエス キリストは言われます。

 

ヨハネ 8:12)「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。聖書はイエス キリストを指して(ヨハネ 1:9)「光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と語ります。

 

 闇が地を覆い、明日への希望が見えないそのただ中に、イエス キリストが「世に来てすべての人を照らすまことの光」として世に来られました。わたしたちは、世の光であるキリストに照らされるとき、命の光を持って歩くことができるのです。

 

 このイザヤ書60章冒頭の神の言葉は、神の救いの御業であるイエス キリストと出会っていくときに実現するのです。

 

 この箇所1節, 2節で「栄光」という言葉が出てきます。聖書において「栄光」とは、神がわたしたちの救いの神であることが現れることを言います。そして、神が救いの神であることは、イエス キリストの十字架において明らかにされました。ヨハネ 1:14は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理(しんり)とに満ちていた」と告げるのです。「恵みと真理(しんり)とに満ちていた」ひとり子の「栄光」とは十字架に他なりません。

 

 この世界では「栄光の金メダル」のような言い方をします。この言い方の場合、メダルを取った本人の努力、成果を誉め讃えて「栄光」という言葉を使います。しかし、キリストの十字架に対して「栄光の十字架」という言い方は、合わないように思います。金メダリストは、台の一番高いところに上り、キラキラと輝く金のメダルをかけてもらいますが、キリストの十字架は、わたしたちを救うためすべての罪を負って最も低いところへ来られました。さらに陰府にまで行くために十字架を負われました。金メダリストの「栄光」はメダリストの上に輝きます。しかし、神はご自身の栄光をわたしたちを救うことにおいて現されました。

 

 わたしたちの上に現れる栄光、わたしたちを照らす光、それは十字架の栄光であり、十字架の光です。わたしたちは、キリストの十字架によって、神がわたしたちの救いの神であることを知ったのです。

 

 そして、すべての人が必要としている救いこそイエス キリストの十字架です。わたしたちを照らす十字架の光、十字架の栄光、十字架の輝きを、わたしたちが証しし、放つとき、(3節)「国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でる(さしいでる)その輝きに向かって歩む」のです。そして(4節)「みな集い、あなたのもとに来る」のです。

 

 これらは今、肉の目には見えません。彼らの目に映るのは、がれきだらけの町並みです。誰もこんなところに喜んで集まってきません。そんな状況のただ中で、神はこの預言を語らせたのです。聖書はまた、神の言葉よりもこの世に囚われてしまう民に向かってこう語ります。(ヘブライ 11:1)「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だと。神はひとり子によって預言、そして約束を成就されました。神の民は、キリストの十字架を仰ぎつつ、まだ明らかになっていない救いの御業を、信仰によって望み見るのです。そして、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいるただ中で、キリストの十字架を証しし、十字架の光を放つのです。聖書は告げます。(ローマ 10:14~17)「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう・・・信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

 

 だから、神は命じられるのです。(1節)「起きよ、光を放て」。と

 

 わたしたちの今の状況も、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいます。「どうやったら光なんか放てるんだよ」と神に叫びたくなるかもしれません。

 

 しかし、キリストの十字架の栄光はあなたの上に輝き、あなたの上に現れています。主が(9節)「あなたに輝きを与え」ておられます。わたしたちは自分で光ろうと努力するのではありません。光である主が、わたしたちの上に輝き、現れてくださり、わたしたちを輝かせてくださいます。

 

 ですから、わたしたちにとって大事なのは「わたしはキリストの十字架によって救われた」ということを心新たに確認することです。キリストは罪の闇のただ中に来られました。この世にはキリストを迎える準備も余地もありませんでした。しかしキリストは、救い主として世に来てくださいました。そして、キリストは十字架を負ってくださり、命を献げてくださいました。キリストは決して消えることのない世の光となってくださいました。だから、わたしは「やみのうちを歩くことがなく、命の光を」持っている、そのことを今、確認するのです。 

 

 7節で、主は「わたしはわが家の輝きに、輝きを加える」と言われます。教会は十字架を自らの「しるし」として掲げています。教会の屋根にも十字架があります。これは単なる教会の目印ではありません。神が教会において、ご自身の栄光を現され、イエス キリストの十字架の光で、わたしたちを照り輝かせてくださるという「しるし」なのです。キリストの十字架こそ、わたしたちを照らす光、わたしたちを輝かす主の栄光です。

 

 今、目に映るものは暗いかもしれませんし、希望の光も見えないかもしれません。しかし、主は言われます。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。復活されたイエスは言われます。(ヨハネ 20:29)「見ないのに信じる人は、幸いである。」。この世では明らかではない神の救いの御業、それを十字架の光に照らされてわたしたちは見るのです。

 

 この主の栄光が現れるのを信じて待つとき、これが待降節です。

 

 「起きよ、光を放て。主の栄光はあなたの上に輝く」これが皆さんに語られる主の言葉なのです。

 

 

 

    祈り

 

 主イエスキリストの父なる神さま、この世はまだまだ闇を持っています。争いが起り、苦しみがあります。困難も労苦も多くあります。しかしこのような中でもイエスキリストの十字架の光が輝いています。いまだ世が闇の中であったとしてもイエスキリストの十字架の光に照らされながら、私たちも十字架の光を放つことができますように。 私たちは弱く小さな者でありますが、そのような私たちを守り導いてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。