聖書の言葉を聴きながら

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 「主に心を開いていただいて」(ルカによる福音書24:44~49からの説教)

以下は、昨日の礼拝で、長老によって読み上げて頂いた説教。

 「主に心を開いていただいて」

 

 2021年5月9日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 24:44〜49(新共同訳)

 

   復活されたイエスが、シモン・ペトロやエマオに向かった二人に弟子に現れたので、弟子たちが大騒ぎしていると、突然イエスが彼らの中に現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは亡霊を見ているのだと思って驚いていると、イエスは亡霊ではないことを示すために、ご自分の手足を見せ、触らせました。さらにそこにあった焼き魚を、一切れお食べになりました。

 それから彼らに対して言われました。44節(間)「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」。

 このイエスが以前言われたことについては、ルカ福音書の18章31節から33節に、書かれています。「31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。 32人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。 33彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」。 ご自身の十字架と復活、苦難と栄光は、既に旧約に記されていることで、すべては成就するのです。

 

 今日のところで言われている「モーセの律法と預言書と詩編」というのは旧約全部を指す言い方です。つまり、旧約において救い主について書いてあることは、イエスについて書いているのであり、イエス キリストにおいて、その言葉は成就するということです。      

 神の言葉、すなわち神の約束は、すべてイエス キリストにおいて成就し実現するのです。

 そして、このことを悟らせるために、イエスは、弟子たちの心を開いてお語りになります。

 主に心を開いて頂かないと、弟子として、いくら近くにいても肝心のことを理解しないままになってしまいます。自分が聞きたいことだけを聞いて、自分好みの神、つまり偶像を作り出すことになってしまいます。心を開いてくださるように祈りつつ、自分を中心にせず、自分好みの言葉を求めるのではなく、全聖書から、神の御心を聞くようにしていくことが大切です。

 聖書朗読と説教の前に「聖書朗読と説教を祝福し、神さまご自身が一人ひとりの魂に語りかけてくださるように」と祈るのは、主が心を開いてくださるのを願ってのことです。 

 

 イエスは言われます。46節のところ(間)「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。

 ここで、旧約に出てくる救い主について書かれている箇所をいくつか確認しましょう。 

 創世記ではアダムとエバが罪を犯した後、神が二人をそそのかした蛇にこう言われます。3章の15節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」)。                                

 救い主が来て、罪を打ち砕きますが、かかとを砕かれる。これは、十字架でその命を献げること、救い主が自ら傷を負い、痛みを負って、罪を打ち砕くということが、エデンの園で最初の罪が犯された直後に語られています。

そして、救い主の誕生については、イザヤ書7章の14節にこう書かれています。  「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」。                   

 これは、マタイによる福音書1章の23節で、引用されている箇所です。

 

 罪によって神と共に歩めなくなりました。しかし、神は救い主を遣わし、神ご自身が罪人のところへ来てくださり、共にいてくださるのです。

 そして救い主の宣教については、イザヤ書42章1節と3節と4節に、こう書かれています。  

 「1見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。

彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。                    

3傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。

4暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。

 

 イエスが洗礼をお受けになったとき、天が開け、聖霊が目に見える姿でイエスの上に降って来ました。 、ルカ福音書の3章の:21節と22節にそのことが記されています。    「22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 このようにイザヤの預言が、イエス キリストにおいて実現しました。

 

 そして十字架については、イザヤ書53章にある「主の僕の歌」と呼ばれる箇所がまさに十字架の苦しみを預言しています。しかし、この箇所は長いので、今日は、別の箇所を紹介します。

 詩編22編2節に 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」 とあります。これは、イエスが十字架で叫ばれた言葉です。イエスは、神に捨てられたと感じた民の苦しみを自ら十字架で負われました。

 「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、ひとり子を失ったように嘆き、ういごの死を悲しむように、悲しむ」と、ゼカリヤ書12章10節で、十字架の悲しみを記しています。

 

 三日目の復活を示すのは、ヨナ書です。2章の1節から3節で「1さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。 2ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、 3言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。」

 11節に「主が魚に命じられると魚はヨナを陸地に吐き出した」とあります。

 さらに詩編16編の:10節では「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とあります。                             

 これらの2つは、復活を示して語られていることです。

 

 ユダヤ人たちは、救いを拒絶しましたが、神はイエス キリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。詩編にはこうあります。詩編118編の21節から24節のところ、

「21わたしはあなたに感謝をささげる あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。

23これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。

24今日こそ、主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」

この聖句は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書とペトロの手紙一 で、引用されています。

 イエスが、47節のところで語られた「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われたことについては、イザヤ書において「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救いを地の果にまでいたらせよう」と言われています。

 まさに、旧約全体を通して、イエス キリストの救いの御業が語られ、指し示されているのです。

 

 イエスの弟子たちは、神の言葉が、イエス キリストにおいて成就したことの証人、証し人なのです。

 今日読んだルカ24章の48節のところで、イエスは、「あなたがたは、これらのことの証人となる」と言われます。

 さらに、イエスは「わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」 と言われます。

 「約束されたもの」というのは、「聖霊」のことです。ルカが福音書に続いて、編纂した使徒言行録に出てきます。ヨハネによる福音書でも「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と、14章の16節と 17節で、語られています。

 

 弟子たちの信仰や熱心さによって、務めを果たすのではなく、神の霊に満たされ導かれることで、務めを果たすのです。だから「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と命じられるのです。 都というのは、神殿のあるところ、神の御前に進み出て礼拝を献げるところを表しています。今日では、わたしたちが、今まさに集っている、この教会を指しています。

 わたしたちが礼拝に招かれるのも、主に心を開いて頂いて、神の言葉を聞き、神の言葉が真実であり、さらに神の言葉には、わたしたちに対する神の愛が満ちあふれていることを知るためなのです。

 そして、わたしたちも神の霊、「聖霊」を受けて、神の祝福によって送り出され、それぞれの場へと、派遣されていくのです。

 今日の箇所が指し示しているのは、終わりの日まで、キリストの弟子たちが経験する出来事です。そして、すなわち、わたしたちが経験する出来事なのです。

お祈りをします。

 

父なる神さま

 どうかわたしたちの心が開かれますように。あなたの御言葉を知ることができますように。どうか聖霊に満たされて、救いの御業に仕えることができますように。どうかわたしたちを用い、キリストの証人としてください。

エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン