聖書の言葉を聴きながら

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「自分の罪を知る」(ルカによる福音書22:31~34)

  「自分の罪を知る」

 

 2021年10月24日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章31節〜34節


 

  最後の晩餐の席で、イエスは自分を裏切る者がいることを明らかにされました。それを聞いて弟子たちは、自分たちのうちで誰がそんなことをしようとしているのだろうと、互に論じ始めました。

 しかし、弟子たちの議論は、先週も見ましたように、次第に自分たちの中で、誰が一番偉いだろうかという議論になっていきました。それは、主の御心とは、全くかけ離れた議論という他はありません。

 イエスは、誰が裏切り者かを当てさせたくて話されたのではありませんでした。イエスの前にいる一人ひとりが、裏切る者であり、見捨てる者であり、知らないと言う者なのです。

 その自分たちの弱さも罪深さもイエスは知っていて、なお招いていてくださり、十字架を負って、罪を贖ってくださいました。それを忘れないでいるようにと、イエスは裏切る者の話しをされたのです。だからきょうの箇所でも32節の2行目「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言っておられるのです。

 

 さて、イエスは、きょうの箇所の直前の30節で「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と言われました。弟子たちは、この言葉を聞いて喜んだことでしょう。

 しかし、彼らは、そこに至るまでに試練を経験しなければなりません。イエスは言われます。31節「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」

 これは、旧約聖書ヨブ記の最初の場面を思い起こします。ヨブ記の1章の9節から12節のところ、「サタンは答えた。『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。』主はサタンに言われた。『それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。』」

 サタンが、ヨブに試練を与えられることを神に願い、そして、神が許されたということが述べられています。そして、今日の箇所、弟子たちにも、サタンが弟子たちに「小麦のようにふるいにかけることを願って、神は許された」のです。

 ふるいにかけるというのは、より分けることです。サタンがもたらす試練を超えられるのか、…。ここで自分の信仰が、どのような信仰なのかが明らかにされます。ある者は、裏切り、ある者は、逃げ去り、ある者は、イエスを知らないと言うのです。その試練は、自分が思っている以上に、自分の信仰は、弱く小さいことを明らかにします。けれどもイエスは、そのことを知っておられます。そして「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように、祈った」と言われます。わたしたちの弱さ、罪深さを知っておられる主は、わたしたちのために執り成し、祈ってくださいます。ヘブライ人への手紙7章25節ではこう言われています。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

 

 この救い主の執り成しの祈りがあるので、わたしたちは躓きから立ち直ることができるのです。主は言われます。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 わたしたち罪人は必ず躓きます。躓かずにイエスに従い、信仰の道を歩める者はいないのです。誰もがイエスの執り成しが必要であり、そして、先に躓きから立ち直った信仰の友からの力づけが必要なのです。

 

 しかしシモン・ペトロは、イエスのこの言葉に納得できませんでした。33節「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。

 ペトロは、自分がイエスに認めてもらえていないと思ったのでしょう。だからペトロは、自分の思いや自分の信仰をイエスに何とかして分かってもらおうと、真剣に訴えます。
 しかし、ペトロは、自分自身を分かっていませんでした。ペトロだけが分からないのではありません。よく「自分のことは自分が一番分かっている」などと言いますが、人は自分の罪が分かりません。自分の力では神と共に歩むことができないことに、気づかなくては、罪は分かりません。ペトロと同じように、わたしたちも真剣に、イエス キリストを信じ、イエス キリストと共に歩みたいと願っているからです。

 ペトロの場合、自分を守るためにイエスを「知らない」と逃げてしまう自分に気づかなくては、自分が罪人であることに気づけなかったのです。そしてイエスが十字架を負われたことが、まさに自分自身を救うためであった、ということに気づけなかったのです。自分は、イエスの最初からの弟子。すべてを捨ててイエスに従ってきた。他の弟子たちよりも側近くで仕えてきた。そういった誇りがペテロにはありました。けれども、自分を誇る、自分を誇りたいと思っている、その罪がある限り、自分の罪に気づくことはできません。

 

 イエスは、ペトロをご自分の使徒とするために、ペトロ自身が自分の罪を理解するようにと導かれます。

 イエスは言われました。34節「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、 三度わたしを知らないと言うだろう」

 ペトロは、がっかりしたでしょう。「なぜ先生は分かってくださらないのだろう」と。しかし、わたしたちは知っています、イエスが言われたとおりだったことを。

 

 だから、わたしたちは理解しなければなりません。イエスは、わたしたちのことを知っておられるということを。自分自身は、自分の罪を分かっていないということを。イエスの弟子として仕えるために、自分の罪に気づくための試練があり、それに躓いてしまうということを。けれどもイエスが、信仰がなくならないように祈っていてくださるということ、そして立ち直ったとき、主にある兄弟姉妹を力づける務めが託されているということを。

 自分の罪を知ることは、辛く、苦しく悲しいことです。この後、三度イエスを知らないと言ったペトロは、激しく泣きました。しかし、イエスに従おうとするとき、悔い改め、立ち帰ろうとするとき、自分の罪を知ることを避けることはできません。イエスが救い主であってくださるのは、わたしたちを罪から救うからです。それは神が定めたもうときに起こります。コへレトの言葉3章1節にあるように「何事にも時があり、天の下の出来事はすべて定められた時がある」のです。そして、そのときにはイエスがまことにわたしの救い主であってくださることを、さらに深く知ることになるでしょう。信仰深くあろうとして頑張っている自分、背伸びをしている自分、信仰深さを装っている自分ではなく、イエスが本当の自分の救い主であってくださることを知るでしょう。本当の救い主と出会える人は、幸いです。

 

 神は、本当の救い主をわたしたちにお与えくださいました。そして、本当の救い主に出会うようにと、絶えずわたしたちを招き続けていてくださいます。

 

 祈ります。