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「『十字架につけろ』と叫ぶ者たち」(ルカによる福音書23:13~25)

  「『十字架につけろ』と叫ぶ者たち」

 

 2022年2月6日(日) 復活節前第10主日 

聖書箇所:ルカによる福音書 23章13節~25節

 

  ユダヤ教エルサレムの指導者たち=ユダヤの最高法院の議員たちは、イエスを死刑にするため、ユダヤ属州総督のピラトにローマに対する反逆罪で訴えました。

 

 しかし、ピラトは、「この男に何の罪も見いだせない」と判断します。けれど、それではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言い張ります。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送りました。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたからです。

 

 ヘロデはイエスを見ると、非常に喜びました。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからです。それで、いろいろと尋問しましたが、イエスは何もお答えになりませんでした。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えました。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返してしまいました。ヘロデにとってエルサレムの祭司長や律法学者の期待に応えようなどという気持ちはありませんでした。

 

 さてピラトは、イエスが送り返されてきたので、イエスの件を処理しなくてはなりません。ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて言います。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ピラトは、イエスを訴えた指導者たちの顔を立てつつ、無実のイエスを鞭打って解放するという妥協案を出しました。しかし、人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けます。ピラトは三度目に彼らにむかって言います。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 と。ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けたのです。

 

 

 これは皮肉なことです。人々というのは、13節に出てくる「祭司長たちと議員たちと民衆」のことです。議員というのは、最高法院の議員を指します。神に導かれて歩んできたはずのユダヤ人たちが、イエスをどうしても殺そうとし、異邦人であるピラトが、イエスの無実を認め、何とかして赦そうとしているのです。この場面において、神の言葉に養われ導かれてきたはずのユダヤ人の信仰は全く役に立ちません。役に立たないどころか、神に敵対します。そして異邦人世界の知恵であるローマの法律が、イエスを救おうとしているのです。ここで信仰ある者たちは、神からの問いかけを受けます。「あなたの信仰は、神に従い、神の御業に仕える信仰か、それとも、神に敵対し、神の導きを拒絶する信仰なのか。」この場面、この時のユダヤ人の信仰は、神に立ち帰ることも、神に従って新しく歩み出すことも求めていませんでした。彼らは、自分たちの願いをかなえてくれる神、自分たちの誇りを満たしてくれる神を求めていました。彼らが見ていたのは自分であって、神ではありませんでした。信じてはいても、信じている自分を見ているのであって、神を見てはいませんでした。

 

 

 しかし人々の「イエスを十字架につけろ」という声はますます強くなりました。そこでピラトは彼らの要求を入れる決定をくだしたのです。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを、要求通りに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせたのです。彼らは「よし、やった」と思ったことでしょう。しかし、罪の中にいる者は、自分が罪を犯していることが分かりません。神の御心に従うのではなく、自分の好きなようにというのが罪なのです。だから神は、悔い改めを求めます。罪から離れて、神へと立ち帰るのでなければ、罪は見えてこないのです。自分の願い、自分の願望、自分の信仰、そして自分自身からも離れて、神の御前に立ち帰るのです。信仰のあるわたしは、あの彼らの中の一人かもしれないと、問いかけながら、考えながら、・・・「主よ、御心をお示しください。僕(しもべ)はあなたに従います」と祈り求めていくのです。

 

 この場面は、とても悲しくなる場面です。そして自分もまた、同じように自分の願い、自分の願望、自分の信仰を見ているのではないか。神が救い主を遣わされたとき、自分も拒絶してしまう信仰なのではないかと。いろいろな不安を巻き起こし、とても悲しい気持ちにさせられる場面です。

 

 

 しかし、ヨハネの手紙Ⅰ 2章1節2節で次のように証しています。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」イエス キリストは、「十字架につけろ」と叫んでいる者たちをも救うために十字架を負われたのです。

 

 この場面、自分の信仰は大丈夫だろうかと様々な不安に陥るわたしに対して、イエス キリストが、そのあなたの罪をも負って十字架につかれた。「十字架につけろ」と叫ぶ声を前にして、一言も発せず、その罪のすべてを負って、その罪を贖うために自らを差し出された。イエス キリストが、このわたしを罪から救ってくださる。自分の罪にさえ気づいていないこのわたしをもイエス キリストが救ってくださる。イエス キリストだけが、わたしを知っておられる。自分でさえ気づいていない罪をも知っていてくださり、その罪のすべてを贖うために、自らの命を献げてくださった。これらのことを、聖書は証ししているのです。イエス キリストがわたしたちを罪から救ってくださいます。わたしの信仰が救うのではありません。イエス キリストだけがわたしたちを罪から救います。大切な教えを悟り、教えてくれる素晴らしい偉大な人物は歴史上何人もいます。しかし、わたしたちを罪から救い、死から永遠の命へと導いてくださるのは、イエス キリストただお一人だけなのです。

 

 だからこそわたしたちは、聖書が言うように、イエス キリストを誇りとし(1コリント 1:31)、イエス キリストに望みを置いて生きていくことができるのです。

 

 

祈り

 

 

 主イエスキリストの父なる神さま、私たちも「十字架につけろ」と叫んだ者と同じように、自分の願い、自分の願望、自分の信仰ばかり見て神さま立ち返ろうとしない私たちです。しかし、そのような私たちのためにイエスキリストは十字架にかかってくださいました。イエスキリストだけが私たちを罪から救い出してくださっています。どうか、イエスキリストにゆるされつつ、イエスキリストを誇りとし、望みをおいて生きていくことができますように。主イエスキリストの御名を通して祈ります。