聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 5:31〜36

2020年8月2日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:31〜36(新共同訳)


 イエスは今、自分の命を狙うユダヤ人たちに語ります。
 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」

 「裁き」のところでも話しましたが、ヨハネによる福音書の書き方には興味深いものがあります。相反するような記事を修正せず、載せています。そこにイエス キリストを宣べ伝えることへの深い敬意が感じられます。
 8:13には、ファリサイ派の人たちがイエスに向かって「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言っています。それに対してイエスはこう言われます。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」(8:14)
 このくだりは、この箇所まで説教が進んだときに話すといたしまして、大事なのは福音書の編集者であるヨハネが「こことここ、矛盾するなぁ」と自分の判断で修正していないことです。ヨハネは、信じやすくなるようにとイエスの言葉を変えたりしませんでした。矛盾するようでも、理解を超えることであっても、イエス キリストに出会い、イエスを知ることができるように願って福音書を編纂しました(20:31)。イエス キリストと出会うとき、聖霊が信仰へと導いてくださることを信じていました。
 ですからわたしも、神がこの福音書をキリストを証しするご自分の言葉、聖書とし、二千年近く語り続けてこられた神の御業の前で畏れをもって語らねばならないと思います。
 きょうは31〜36節から聞いていきます。

 ユダヤ教の(旧約)聖書注解に「人が自分のために証言する時、その人には信用がおけない」(岩波版 新約聖書、p.321、5:31注2)という言葉があるそうです。聖書において証言は重要な要素です。申命記 19:15に「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」と記されています。ここから様々な事柄について二人ないし三人の証言が求められるようになります。

 イエスも言われます。32節「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」
 一体誰がイエスについて証しをするのでしょうか。

 ここでイエスは話を変えて、洗礼者ヨハネについて語られます。33節「あなたたちはヨハネのもとへ人を送った」。1:19には「エルサレムユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして」とあります。ヨハネは彼らに「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(1:23)と言い、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(1:26)と言ってイエスが救い主として活動をする予告をしました。イエスはそれを33節「彼(ヨハネ)は真理について証しをした」と言われました。
 後にイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われます。ヨハネが証しした真理とは、イエス キリストのことです。

 しかしイエスは34節「わたしは、人間による証しは受けない」と言われます。けれども「あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」(34~35節)イエスユダヤ人たちの救いのために、彼らが知っているヨハネについて語られます。
 ヨハネは光そのものではなく、光について証しをするために来ました。(1:8)イエスヨハネをともし火だと言われます。イエスご自身が光であるのに対して(1:9)、ヨハネは火をともされて輝くともし火です。夜が明け、本当の光が到来するのを待ちつつ仕えるともし火です。
 当時ヨハネの洗礼は、大勢の人が集まる一大ブームでした。ユダヤ人たちは流行のファッションを身にまとうように、ヨハネの洗礼を楽しもうとしました。丁度信仰はなくてもパーティーとしてクリスマスを楽しむようなものです。確かにその時は楽しいでしょう。しかしそれは、過ぎ去り記憶の彼方へと消え去ってしまうものです。
 大事なのは、ヨハネが証ししたものに思いを向けること、出会うことです。

 さてイエスは「わたしは、人間による証しは受けない」(34節)と言われましたが、36節「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と言われます。それは「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」と言われます。
 天の父が救い主に託された救いの御業、それこそが救い主の証しです。

 洗礼者ヨハネは牢に捕らえられていたとき、イエスの許に弟子を送って尋ねました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。」イエスはこうお答えになりました。マタイ 11:4~6「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
 イエスが言われたのは旧約に預言された神の救いの御業の数々です(列王記下 5:8~14、イザヤ 25:8, 26:19, 29:18~19, 35:5~6, 42:7, 61:1)。神の救いの御業が今、ご自分を通して行われていることをイエスは告げられました。神の預言はイエス キリストにおいて成就しています。イエス キリストの証しは、父なる神ご自身がなしてくださるのです。

 イエスは少し先 5:39で「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われます。
 イエスが生きておられる間には新約はまだ書かれていませんから、ここで言う聖書とは旧約のことです。神の言葉である聖書がイエスを証しする、聖書が救い主の業として告げていることがイエス キリストにおいて成就する。そして、その頂点に位置するのが十字架と復活です。神の言葉と業がイエス キリストにおいて実現したのです。父なる神ご自身がイエスを証しし、イエスが救い主であることを保証してくださっています。イエスが言われた「わたしについて証しをなさる方は別におられる」とは、父なる神、神ご自身なのです。

 その父なる神とイエス キリストは一つです。イエスはこう言われます。14:7「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
 ヨハネによる福音書も父と子が一つであることを伝えようとしています。1:1~2「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 神は人間の言葉で表現し尽くすことのできないお方です。けれど神は、不十分な人間の言葉でご自身を啓示することを願い、わたしたちに聖書を与えてくださいました。イエス キリストもご自身では何も書き残されませんでした。「人間による証しは受けない」と言われた方が、弟子たちの宣教の業にご自身を託されました。
 ヨハネによる福音書が編纂されたと考えられている紀元90〜110年頃には、まだ三位一体という言葉はありませんでした。この言葉は、福音がギリシャに伝えられて、ギリシャの哲学の伝統と触れ合う中で与えられた言葉です。けれども三位一体という言葉は知りませんが、ヨハネによる福音書は父と子と聖霊が一つであることに気づいているのだろうと思います。

 神は、神を知ることができるように人の言葉で啓示してくださいました。神の思いを知ることができるように、神の言葉としてイエス キリストを遣わしてくださいました。聖書を通して、わたしたちはイエス キリストと出会い、イエス キリストを知るのです。そしてキリストを通して差し出されている救いに与るのです。
 どうか教会に集うお一人おひとりがキリストに出会い、その救いに与り、主の平安と喜びが豊かに与えられますように。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いのために、わたしたちの思いを超えるあなたご自身をイエス キリストにおいて啓示してくださることを感謝します。わたしたちが知り尽くすことのできないあなたの前で、わたしたちは身を低くしてあなたの言葉を聞きます。どうか信仰をもってあなたを仰ぎ見ることができるよう聖霊を注ぎ、清め導いてください。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたと共にあることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン