聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「言であり、命であり、光であるイエス・キリスト」(ヨハネによる福音書1:1~18)

「言であり、命であり、光であるイエス・キリスト

 

 2021年12月19日(日) 降誕節主日礼拝 

聖書箇所:ヨハネによる福音書  1章1節〜18節

 

  私たちの教会は、次週がクリスマス礼拝となっていますが、大半の教会は、今日クリスマス礼拝を持っておられると思います。本日は、2016年12月25日のクリスマス礼拝説教をもとに、礼拝を捧げたいと思います。

 今日は、ヨハネによる福音書 の1章1節~18節までお読みしましたが、この箇所には、わたしたちの救い主イエス キリストがどのようなお方なのかについて、3つのことが語られています。1つ目は、イエスは言葉であるということ。2つ目はイエスは命であるということ。そして3つ目は、イエスは、光であるということです。

 

 最初は、言であるイエスについてです。聖書では、わたしたち人間が話す言葉と神の言 であるイエス・キリストを区別するため「言葉」の「葉」は抜いて「ことば」と読ませています。

 ヨハネによる福音書は、こんな風に語ります。1節から3節、

 「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は、言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」そして14節、「14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、惠みと真理とに満ちていた。」

ここでは、初めから存在する言。神と共にある言。神である言。すべてのものを創造する言。肉体をとり、人となった言。父のひとり子である言について語っています。

 きょう読んだところでは、「イエス・キリスト」という文字は17節に1回出てくるだけです。しかし、よく読むと、最初から出ている「言」は「イエス・キリスト」であることが分かります。 イエス・キリストは、初めから存在し、神と共にあり、神であるお方。父なる神のひとり子である神であります。

 ではなぜ、ヨハネによる福音書イエス・キリストを、「言」と言うのでしょうか。

 言葉には、思いを伝えるという働きがあります。神は、イエスを世に遣わされることによって、わたしたちをどう思っているのか、わたしたちをどうしたいのか、わたしたちに何を望んでいるのかを明らかにされました。一言で言うと、神はわたしたちを愛しておられ、神は、わたしたちと共に生きたいと願っておられます。ヨハネの第1の手紙の4章の9節と10節にはこう書かれています。「9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 

 イエス・キリストは、神の確かな愛を伝える言葉なのです。

 

 そして言葉は、関係を作ります。わたしたちは関係を持ちたくない相手とは、口をきかなくなります。しかし神は、わたしたちが常に背き続けるにも関わらず、見放すことなく、見捨てることなく、語り続けてくださいます。そして、ついには、ご自身の言葉であるひとり子イエス・キリストを遣わされることによって、わたしたち一人一人と確かな関係を造ろうとしておられるのです。イエス・キリストは、神とわたしたちとの関係を造り出す言葉なのです。  

 そして、関係を造り出すためにイエス・キリストは肉体をとり、人となって、世に来られました。

 聖書はこう語ります。ヘブライ人(じん)への手紙2章の17節と18節、「17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 18事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」      イエスは、人となって、罪の世の試練のただ中に来てくださいました。試練の中にある者を救い、その者と神との関係を築くためです。

 さらに聖書にはこうあります。ヘブライ人への手紙7章の24節と25節、「24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。 25それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

 キリストは、神のもとへとやって来る人々を、いつも救ってくださるのです。イエス・キリストによって、わたしたちは神との確かな関係の中に入れられているのです。

 

 2番目は、命であるイエスについてです。

 ヨハネによる福音書は、こんな風に語ります。1章の4節 「4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」続いて12節と13節「12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 神はイエスによってわたしたちに命を与えようとしておられます。これは罪人の滅びゆく命ではなく、神の子としての命であり永遠の命です。3章16節にはこう書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 神は命の創造主です。神だけが命を造り、与えることがおできになります。そして死も、神の前に立ちふさがることはできません。神は死んだ者を復活させ、永遠の命へと導かれます。神は命であるイエス・キリストを通して、永遠の命を与えてくださるのです。

 

 さらに聖書は、永遠の命は「信じる」というイエスとの交わりの中に存在する、と語ります。3章36節には「御子を信じる人は永遠の命を得ている」とあります。

 5章24節には「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」とあります。

 これは、信じるということが、生きることには不可欠なものだからです。信じられない世の中では、生きる希望は決して湧いてきません。家族も友だちも、そして自分ですら信じられないとなったらどうやって生きていけばいいでしょうか。人間は、罪の中で、信じられなくなりました。神は、信じられなくなった世界のただ中で、自らが信じられる存在となってくださって、私たちが信じて生きることができるように、ひとり子を救い主=キリストとして遣わしてくださったのです。

 

 そして三つ目の光であるイエスですが、ヨハネによる福音書は、こんな風に語ります。

 ヨハネによる福音書の1章4節と5節「4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 そして9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」。

 光はわたしたちと世界を照らし出します。光のないところでは、わたしたちは何も見ることができません。光のない世界では、わたしたちは活動していくことができません。イエスは、わたしたちと世界を覆っている罪の闇を照らす光として来られました。そして、この光は、わたしたちに神と命を見せてくださいます。どれほど罪の闇が暗くとも、イエスはわたしたちの光として、わたしたちを照らし、神と出会わせ、神の子の、そして神の国の祝福された姿を見せてくださるのです。イエスは言われます。ヨハネ福音書の8章12節「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。

 

 この言葉であり、命であり、光であるお方が救い主として来られました。聖書は「そして言葉は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」と記しています。言葉が肉体となるとは、言葉が出来事になるということです。神の言葉は単なる言葉ではなく神の思いです。 神がわたしたちに伝えたいと願っている「思い」は、出来事となり、実現したのです。    

 世の始めに神が「光あれ」と言われたとき、光があったように、救い主イエス・キリストの誕生によって、救いのための新しい創造の業が始まったのです。

 その新しい創造の業は、肉体となること、すなわち弱さを担うことによって行われました。疲れたら、動けなくなります。のども渇きます。お腹もすきます。鞭で打たれれば、痛みを感じますし、血も流れます。罪の世にあっては肉体となることは滅びを身に負うことに他なりません。永遠に変わることのない全能の神と、肉体をとって人となるということは、本来は相容れない事柄です。しかし、イエスは肉体をとって人となられました。わたしたちを救うために、イエスは神の御座を離れ、弱くなることも厭われず人となられたのです。

 そして聖書は、イエスが肉体をとり人となったことを指して「わたしたちはその栄光を見た」と言います。弱さを担ったことさえも、神がわたしたちを救いたいと願っているその思いが出来事となったのだから、それは栄光だと言うのです。使徒パウロは「喜んで自分の弱さを誇ろう」と言うまでに至りました。

 キリストが人となられた。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。キリストが人となり、わたしたちのところへ来られたことによって、神が、何を ご自分の栄光だと思われるのか、何を恵みとして与えようとしておられるのか、神の真実とはいったい何かを明らかにされました。

 

 聖書は告げます。18節、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」。

 イエス・キリストを通してわたしたちは神に出会うことができます。イエス・キリストによって神が救いの神であることを、このわたしを愛している神であることを知ります。そして「わたしたちは皆、この方のその満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けました。わたしたちは、イエス・キリストの満ちあふれる救いの恵み、命の恵みを受けています。わたしたちはイエス・キリストによって、自分が神に祝福され、愛されている存在であることを信じることができるのです。

 イエス・キリストは、わたしたちが神と出会い、神を信じ、神の子として光の中に生きるために、言葉として、命として、光としてわたしたちのもとへ来られたのです。

 きょうは、その救い主がお生まれになったことを祝うクリスマスです。

祈ります。

 

 

 

現在、牧師は入院中であり、過去に語った説教を長老方に代読して頂く形で礼拝を保っています。

 

今回の説教も、元々の原稿では、「口語訳聖書では、わたしたち人間が話す言葉と、神の言であるイエス・キリストを区別するため「言」と書いて「ことば」と読ませています」となっていますが、聞いている者が理解しやすいように、「聖書では、わたしたち人間が話す言葉と神の言 であるイエス・キリストを区別するため「言葉」の「葉」は抜いて「ことば」と読ませています」と変えて、語って下さっています。

 

このような丁寧な長老たちの配慮によって礼拝が支えられ、守られ、継続できていることに感謝するものです。