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「十字架で命をささげたイエス・キリスト」(ルカによる福音書23:44~49)

「十字架で命をささげたイエス・キリスト

 

 2022年3月13日(日) 受難節第2主日 

聖書箇所:ルカによる福音書 23章44節~49節

 

 ついに、イエス・キリストの地上での生涯が終わるときがやってきました。

 

 イエスが十字架にかけられたのは、朝の9時頃だったとマルコによる福音書 15章25節に記されています。昼の12時になると、全地は暗くなり、それが、午後3時頃まで続きました。

 

 これは、わたしたちが知っている日蝕という現象ではありません。イエスが十字架におかかりになったのは、過越の祭りのときです。この時期は、満月の時期のため、日蝕が起こるような月の位置ではありません。

 

 これは、神がしるしとして与えられたものです。神が裁きを行われたことを表す出来事です。

アモス書8章9節にこう書かれています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ白昼に大地を闇とする。」

 

 この状態が3時間続きました。一瞬の出来事ではなく、誰もが、このしるしの出来事が、本当に起こったと確認し、思い巡らせるのには十分な時間、続きました。

 

 続いて神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。

 

 これもしるしの出来事です。ヘブライ人への手紙10章の11節から14節にはこう書かれています。

 

「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」

 

さらに19節と20節 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」

 

ただ一度の完全な贖いがキリストの十字架によって成し遂げられたのです。このキリストの十字架によって、誰もが神に立ち返ることができるようになりました。

 

 十字架によって、わたしたちの前に道が開かれました。滅びに至る道ではなく、神の祝福に至る道が開かれたのです。

 

 そしてイエスは大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。

 

 ヨハネによる福音書10章で、次のようにイエスは言われました。ここでは、イエスが自分自身を「よい羊飼い」として語られています。

 

 11節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

 

さらにこう言われました。10章の17節、18節

 

「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」。

 

 イエスの命は、奪われたのではありません。自分で捨てたもの、自ら委ねたものなのです。人としての命は神から与えられたことを知っているイエスは、自ら命を神に委ねたのです。

 

 命は自分のものではありません。神から与えられ、神の許へと帰るものです。

 

このことが分からないと、最後にあきらめてしまう人生になります。命を手放したくない、死にたくないのに、奪い去られるとじたばたして、生きることを諦めなければならない人生となってしまいます。

 

だから、命を与え、導いてくださった神に委ねるのです。

 

 キリストは、命を造り、命を救い、命を与えてくださる神のことを知っておられます。

 

だからキリストは、大きな声で、命を、父に委ねるんだと示してくださったのです。

 

 罪を超えて神に委ねていくとき、キリストと共に、再び永遠の命を受けるのです。

 

 こうしてイエスは、救い主の業を成し遂げて、地上の生涯を終えられました。

 

 福音書は、キリストの十字架を見た証人を記します。

 

 一人は、百人隊長です。彼は、この十字架刑の責任者です。彼は、これまでも多くの処刑される犯罪者たちを見てきたことでしょう。その彼が、キリストの十字架を最初から最後まで見て、「本当にこの人は正しい人だった」と告白します。

 

 彼は、十字架上のキリストの言葉をそばで、すべて聞いていました。

 

 ルカによる福音書に記されている言葉に限定すると、2つの言葉です。

 

 一つは、23章の34節「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らいないのです」。

 

 もう一つは、43節「するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。』と言われた」です。

 

 ペトロの第一の手紙2章22節 23節にはこうあります。

「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

 

 百人隊長は告白します。「本当にこの人は正しい人だった」。

 

 見物に集まった群衆も、胸を打ちながら帰っていきます。ここにはユダヤ教の指導者たちに扇動されて集まった者もいたでしょう。騒ぎを聞きつけて集まった野次馬のような人たちもいたでしょう。イエスが十字架につけられ、太陽が暗くなって、人々は少し冷静さを取り戻します。彼らの心の内には問いが浮かんできます。この人は、なぜ十字架にかけられなければならなかったのだろう。思い巡らす中で、彼らは胸を打ちながら帰っていきます。

 

 胸を打つというのは、悲しみを表す表現です。扇動された者たちにも、悲しみが満ちてきました。

 

 そして、イエスを知っていた人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちは、遠くに立って見ていました。

 

 彼らはイエスに従ってきたのです。しかし、イエスと共にいることはできませんでした。十字架を遠くから見ることしかできませんでした。

 

 彼らは、イエスただお一人が、救い主であることを感じつつありました。

 

 どんなに慕っていても、どんなに尊敬していても、十字架の道を共に歩むことはできない。

エス、ただお一人が歩むことのできる道、イエス、ただお一人が担うことのできる十字架。

 

イエス・キリストが命をかけて成し遂げられたこの十字架を、彼らは、まだ神の救いの御業だとは理解していませんが、この十字架を言葉もなく見つめていました。

 

 イエス・キリストが人となられ、その生涯を全うされました。

 

 すべての人がイエス・キリストの前に立たされています。

 

 ピラトは無罪だと知っていました。領主のヘロデもそう思いました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、何としても殺さねばならないと考えました。扇動された群衆も、バラバが赦された方がいいと考えました。弟子たちや従ってきた人たちは、反対の声を上げることもできませんでした。

 

 神は、すべての人をイエス・キリストの前に、立たせます。

 

 あなたは、このナザレのイエスを誰だと考えますか。

 

イエス・キリストのキリストは、イエスは救い主である、という信仰告白です。

 

あなたは、この十字架で命をささげたイエスを誰だと考えますか。

 

この十字架は何だったと考えますか。

 

 キリストは今、わたしたち一人一人の目の前におられます。  祈ります。