聖書の言葉を聴きながら

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「神の国は近づいた」(ルカによる福音書21:29〜33)

神の国は近づいた」

 

2021年8月8日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章29節〜33節

 

 イエスは、21章5節から、エルサレムの滅亡そしてご自身の再臨に至る話をされてきました。そして一つの譬えを話されました。

 イエスは「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。」と言われます。

 いちじくは、ぶどう、オリーブと共に聖書によく登場する植物です。春に他の木々が花を咲かせ、葉を茂らせている中で、いちじくは春の植物より遅く花を咲かせ、葉を茂らせます。いちじくは春ではなく、夏の到来を知らせる木だと言われています。

 

 この話は、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも出てきます。ただルカは、マタイ・マルコと違って「またすべての木を見なさい」と書き加えています。ルカはローマにいる人々に対してこの福音書を書いています。当時のローマでは、いちじくはそうよく見る木ではなかったのかもしれません。いちじくを思い浮かべることのできない人に配慮して、ルカは「すべての木」と書き添えたのかもしれません。

 

 そしてイエスは言われます。「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」

 

 自然の様子、その移り変わりから、生き方について考えるのは、聖書に限ったことではありません。

 平安時代から鎌倉時代にかけての歌人鴨長明は『方丈記』で、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と川の流れの様子から人生を語り始めます。室町時代の猿楽師、世阿弥は『風姿花伝』の中で、人間の成長を花の成長と重ねて語っています。

 

 イエスがここで言われたのは、神の国が近いことを悟りなさい、ということです。この神の国の到来というのは、イエスの宣教の中心テーマです。マルコによる福音書1章14~15節では、イエスが宣教を始められたのをこう書いています。「イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』

 

 ここで国という単語、新約が書かれたギリシャ語では、「支配する、治める」という動詞から派生した単語です。ですから、神の国というのは、神が治め給うところ、という意味です。神に従う神の民のいるところに神の国は現れます。皆さんが神に従い、神と共に生きるとき、そこに神のご支配、導きがあり、神の国が現れてくるのです。

 この場面では、イエスはご自身が再臨される救いの完成について語ってきておられるので、ここで言う神の国とは、ヨハネの黙示録が21章2節で語る「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」という終わりの日の状況を指し示しています。そして黙示録21章3節~5節では続いてこう記されています。「『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』・・『見よ、わたしは万物を新しくする』」

 

 神が創造された世界、そして神が導かれる歴史には、救いの完成、神の国の到来という目的地があります。そして目的地へと世界が導かれ、神の国が近づいていることを示すしるしが与えられます。そのことについて21章5節以下で、イエスは教えてこられました。それは、今の目に見える世界が揺さぶられる出来事であり、信仰に留まる忍耐を必要とする困難な出来事です。神の国の到来、救いの完成に至るには、わたしたちが本気で神を求めていくように、揺さぶられる出来事、困難な出来事がしるしとして与えられるのです。イエスがマルコによる福音書12章30節で「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と教えられたように、あなたのすべてを神へと向け、神を愛するように、揺さぶられる出来事、困難な出来事がわたしたちを促していくのです。「神よ、あなたが共にいてくださいますように。わたしを支え守り導いてください」と祈る。そういう信仰へとわたしたちを導く出来事が起こってくるのです。

 

 イエスは言われます「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 「はっきり言っておく」を直訳すると「アーメンわたしはあなた方に言う」であり「まことにわたしはあなたたちに告げる」という意味です。これは、イエスがとても大切なことを語られるときに使われる言い方です。

 「すべてのことが起こるまで」がいつのことかは、分かりません。マルコによる福音書13章32節でイエスは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」と言われました。

 

 救いは神の御業です。救いの計画は、神の内にあります。いつかは分かりませんが、救いが完成する終わりの時が来る。それを聖書は伝えています。そのときには、この目に見える世界は過ぎ去り、天地は滅びるでしょう。すべてが新しくなる時が来るのです。先ほど読んだヨハネの黙示録も「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」と言っています。人生に必ず終わりがあるように、この世界にも終わりがあります。しかし、それはすべてが無に帰してしまう終わりではなく、救いが完成し、すべてが新しくなる時なのです。わたしたちもこの世界も、罪から解放され、罪から清められ、神と共にある喜び、神と共に生きる幸いがすべてを満たす。すべてのものが新しくなる終わりの時が来るのです。

 

 けれど「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」のです。イエスがここで語られたことが起こったと言って慌てふためくのではありません。イエスは「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」と言われました。神は、この世の支配の中で生きるのではなく、神のご支配の許に立ち帰るようにしるしを示されるのです。

 

 イエスは、神の国は近い、神の国は近づいた、と言われます。イエスがこれを語られてから2000年が過ぎようとしています。一体この神の国は近いというのは、どういうことなのでしょうか。実は、これは時間的な近さではありません。神の国、神のご支配があなたの目の前に来ている。あなたは神の言葉を聞いた。あなたは、神の言葉に導かれ、神と共に生きることへと招かれている。神の国があなたの目の前に来ているのです。

 目に見える世界が揺さぶられる出来事を見たならば、それは神があなたを招いておられるしるしなのです。「この世界があなたを救うのではない。あなたを創り、あなたを愛し導くわたしが救う。さあ、わたしの許に立ち帰りなさい。神の国に生きなさい」と神が招いておられるしるしなのです。だから、しるしを見たなら、わたしたちは神の御業が前進し、救いの完成、終わりの時が近づいていることを悟り、神のご支配の許へと立ち帰るのです。

 

 ここでイエスは、最後に「わたしの言葉は決して滅びない。」と言われました。これは、イエスの言葉、そして神の言葉がこの世界の終わりを超えて真実であり続けるということです。わたしたちは移りゆくこの世にあって、変わることのない真実な神の言葉によって支えられ生きていくのです。

 

 わたしたちが生きていくには、目に見える形あるものと、変わることのない真実なものを必要としています。マタイによる福音書4章4節でイエスは荒れ野の誘惑において「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。これは旧約の申命記8章3節の引用です。わたしたちにはもちろんパンも必要です。けれど、パンだけではなく、変わることのない真実な神の言葉、本当に信頼することのできる神の言葉が必要なのです。

 

 わたしたちが生きていく中でいろいろなものが揺らぎ、過ぎ去っていきます。しかし、わたしたちの救い主イエス キリストは、決して滅びることのない真実な言葉を、そして決して過ぎ去ることのない本当の救いを与え続けていてくださいます。

 このイエス キリストにあってこそ、わたしたちはどんな時も、どこにあっても、生きている時も死に臨む時にも、救いの中に生き続けることができるのです。

 

祈ります

天の父なる神様

わたしたちが生きていくには、目に見える形あるものと、変わることのない真実なものを必要としています。 あなたは、決して滅びることのない真実な言葉を与え続けていてくださいます。私たちが、その言葉を受け、救いの中に生き続けることができますように。イエスキリストの名によって祈ります。アーメン