聖書の言葉を聴きながら

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「終わりの日に備えつつ」(ルカによる福音書 21章25節〜28節)

「終わりの日に備えつつ」

 

 2021年8月1日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章25節〜28節


 
 イエスは、ルカによる福音書21章の5節から、エルサレムの滅亡について語ってこられました。

 25節からは、エルサレムの滅亡からキリストの再臨に至る話をされます。

 27節で、イエスは「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」と言われます。これはキリストの再臨です。救いが完成する終わりの時に、再びキリストが天から来られる。これが再臨です。

 イエスは、エルサレム滅亡からご自身の再臨までのことについて、こう言われました。

25節と26節、 「25それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」 大地と世界が未来永劫変わらずに続いていくのではなく、終わりの日に向かって進んでいることを示すしるしがあるということを、言っておられます。

 聖書は、この終わりの日がいつなのかは、父なる神の御心の内にあって、知らされていない、と告げています。マルコによる福音書13章32節では「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」と言われています。

 これまで終わりの日は〇年〇月〇日だと主張してきたグループがいくつかあります。
 しかしお分かりのように、それは一つも当たりませんでした。イエスご自身が「父だけが 知っておられる」と言われているのに、なぜそれがわたしには分かったと言うようになるのか、まったく分かりません。そして今もそういうことを言うグループがあります。そういう話をお聞きになった方もおられるかもしれません。惑わされないように気をつけなければなりません。

 イエスがこの言葉を語られてから今まで、色々な時代に様々なしるしがありました。
 現代でも、大きな地震がいくつも起こったり、津波による大きな被害もありました。そして、今も、パンデミックに私たちはまさに身を置いています。

 さらには小惑星の衝突があるかもしれないと言われ、恐怖と不安を感じている人々もいます。聖書は、この目に見える世界は、普遍ではなく、「救いの完成」、「終わりの日」に向かって導かれている、ということを教えています。

 念のために、もう一度申し上げますが、、「救いの完成」、「終わりの日」がいつなのかは、 父なる神だけが知っておられ、知らされていないと、イエスは、はっきりおっしゃっています。いつなのかは分からないけれども、そのときに備えて生きるようにと言われています。ルカによる福音書12章の40節でも「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と言われています。目に見える世界は過ぎ去り、神の国が到来する時が来るのです。

 日本キリスト教会信仰の告白(口語文)には、主から委託された教会の務めに終わりの日に備えることが挙げられています。

 新約の中で、「終わりの日」という言葉が使われるのは、ヨハネによる福音書だけです。また、終わりの日と同じような意味で使われる言葉には「主の日」と「かの日」があります。

 ヨハネによる福音書6章ではイエスがご自分の民を終わりの日に復活させることが述べられています。40節のところ 「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」と述べられます。

 また同じくヨハネによる福音書の12章:48節では、終わりの日にイエスの言葉によって裁かれることが述べられています。「私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」。

 また、テモテへの手紙2の4章の8節には、正しい審判者である主が、ご自身の民に義の栄冠を授けてくださることが、記されています。

 そして、この終わりの日に備えるということが、ヘブライ人への手紙で、教えられています。ヘブライ人への手紙の10章の23節から25節で「23約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。24 互いに愛と善行に励むように心がけ 25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」と述べられています。

 きょうの箇所では、終わりの日へと向かっているしるしが与えられたなら、「身を起し頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」という勧めがなされています。

 イエスがこの言葉を語られて以来、世界の到る所でしるしは何度も与えられています。そしてわたしたちは、終わりの日のキリストの再臨に備えて生きるように促されています。

 わたしたちの教会は日本キリスト教会信仰の告白で「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。この「主が来られるのを待ち望みます」というのが、まさにイエスが今日述べておられる「身を起し頭を上げる」ということです。

 いつまでも今の状況が続いていくのではありません。神の導きによって変化し、神の国の完成に向けて進んで行くのです。それに対して私たちは「身を起し頭を上げて」「主が来られるのを待ち望む」のです。

 いつまでも今が続いたらいいのに、と言って、終わりが来ることから、目を背け、考えないようにするのではなく、「身を起し頭を上げて」、神の国の到来、主の再臨を待ち望んで生きる、そういう信仰を持って生きていくようにと、勧めがなされているのです。

 いつ来るのか分からないものに向かって備えるというのは、簡単にできることではありません。

 科学など文明の力を身につけてきたこの世は、都合の悪いことは考えずに、今を楽しむ。そしていつまでも若々しく、年を取る、死ぬなどということは考えないで、生きていく。そういうふうに自分にとって都合のいい願望だけを見つめるように勧めています。

 しかしそれは、聖書を通して神が語られることとは違います。わたしたちの誰もが知っているように、時は止まることがありません。わたしたち一人ひとりの人生も終わりの時に向かって進み続けています。しかし、その終わりの時がいつなのかは、神の御心の内にあることであって、わたしたちには知らされていません。いつかは分かりません。けれども、その終わりの日に備えて生きる。終わりの時に神の前に立つ。そういう備えをして、そのときを待ち望んで生きるようにと、神は勧めておられます。

 救いが近づいています。主が再臨し、神の国が到来します。わたしたちは、神の国の祝宴に招かれています。主を囲んでの食事、代々の聖徒たちと共に主を囲んでの祝宴はどのようなものでしょうか。 わたしたちは救いの完成を期待し、仰ぎ見て待ち望むのです。

 いろいろな欠けや弱さ、罪が現れるこの世界にわたしたちは生きていますが、神は、そこからわたしたちを救い出し、罪を過ぎ去らせ、神の国へと導いていてくださいます。

 神の祝福を喜び、神と共に生きる、永遠の命を喜ぶ、救いの完成へと、今、わたしたちを、世界を、導いておられます。その神が告げ知らせてくださった救いの完成、イエス キリストが命をかけて成し遂げてくださった救いの完成を、仰ぎ見、待ち望むのです。

 そのために、礼拝、祈り会を通して互いに信仰を励まし合い、罪の世に惑わされずに、神の国、永遠の命に至る救いの道を、わたしたちの主イエス キリストと共に歩んでいくのです。

 

祈ります。

 

 今朝も支えられ、礼拝をともに捧げることができ感謝します。今の目に見える世界だけに注目し、心を奪われるのではなく、どうか御霊の力によって「身を起し頭を上げて」、神の国の到来、主の再臨を待ち望んで生きる信仰を一人一人がはぐくみ育てることができるよう養ってください。イエス キリストの御名によって祈ります。  アーメン