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「いつも目を覚まして祈っていなさい」(ルカによる福音書 21章34節〜38節)

「いつも目を覚まして祈っていなさい」

 

 2021年8月15日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 21章34節〜38節


 

 今日お読みした少し前の、ルカによる福音書19章の47節から20章1節にかけて聖書は、こう記しています。「47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、 48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。1ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、…」と書かれています。

 このようにして始まったイエスの話が今日お読みしたところまでずっと続いてきました。    

 そして今日の21章37節から38節、「37それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。38民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」と、この一連の話の締めくくりが記されています。

 

 エルサレムの神殿で語られたイエスの最後の話は「その日」についてです。「その日」とは36節に「人の子の前に立つことができるように」とありますから、キリストの再臨、最後の審判を指し示しています。

 34節によれば、その日は、思いがけないときに、不意にやってきます。テサロニケの信徒への手紙 -の5章2節と3節では「2盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。 3人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」と言われています。

 そして、「その日」は今日の35節によれば「地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。」と述べておられます。つまり、キリスト者であろうとなかろうと関係なく、すべての人に臨むのです。

 

 イエスが語られてから、約2,000年、その日はまだ来ていません。みなさんの多くは、自分が生きている間には来ないのではないか、いやずっと来ないかもしれない、と感じているかもしれません。そうです。来ないかもしれません。私たちの生きている間には…。

 しかし、一人ひとり、人生の最後のときを必ず迎えます。それは、人の子の前に立つ先触れです。また、わたしたちは、近年の災害等によって、本当に思いがけないとき、突如として、「そのとき」がやって来て、終わりの日を迎えることがありうることを、肌で感じています。

 わたしたちは、自分の人生がいつ終わるのかを知りません。まして世の終わりは、分かりません。

 時は、わたしたちの支配下にはなく、わたしたちの手の中には、無いのです。イエスは34節で「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」と言われます。

 

 その日がいつかは分からない。しかし「その日が罠のようにあなたがたを捕えることがないように」と言われるのは、いつも注意して、そのように生きなさい、という勧めです。

 その具体的な注意が34節の「放縦や、深酒や、生活の煩いで心が鈍くならないように」という部分と、36節の「いつも目を覚まして祈りなさい」という部分です。

 レオン・モリス、ティンデルの聖書注解によれば「放縦」というのは厳密には「大宴会後の二日酔い」のことを意味しているようです。つまり続く「深酒」とセットになっていることになります。これは酔いのために、正常な判断、動きができず、自分を制御、コントロールできない状態を表しています。

 そして、生活の煩いで、心が鈍っているとは、心配・悩みに捕らわれて、心が正しく判断できなくなっている様子を表しています。つまり、「放縦や深酒」も「深酒や生活の煩いのために心が鈍っている」状態も、同じ状態を指しています。正常な判断、動きができずに、自分を制御、コントロールできない状態のことです。

 ですから、正しく判断し、行動ができない状態だと罠にかかってしまうから、「いつも目を覚まして祈りなさい」と、主イエスは言われるのです。

 何かに捕らわれてしまっている、この世に酔ってしまっている、そこから覚めるためには祈りが必要だと言われます。

 

 祈りは、神の御前に立ち、神へと思いを向けるものです。この世から、自分から離れて、神を仰ぎ、神の御心を思います。

 罪の世で起こる様々な出来事、誘惑、試練、それらから逃れて、再び来られ最後の審判を行われる人の子、イエス キリストの御前に立つためには、神と共にあり、神に支え導いて頂かないといけません。

 祈りは、神へと立ち帰り、神と共に生きるための恵みです。だからこそ、わたしたちは、祈りつつ歩んでいかなくてはならないのです。祈りが大事だと、頭で理解するのではなくて、実際に祈るのです。日本キリスト教会信仰の告白には、信徒の訓練とありますが、これは、祈りつつ神と生きられるようになる訓練を、教会がするということです。

 日本キリスト教会の先輩たちは、礼拝と祈り会は、信仰生活の両輪である、と言っておられました。幼児が語られる言葉のただ中で、自然と言葉を身につけ、話せるようになるのと同じように、先輩たちの祈りを聞きながら、祈りの言葉を覚え、祈りの姿勢を覚えて、祈ることができるようになっていくのです。

自分の願い事だけを言うだけなら、誰でもできるかもしれません。しかし、信仰の祈り、神の民の祈りを身につけることは、我流ではできません。祈りつつ神と共に生きるようになるため、わたしたちの教会でも、皆さんが祈る機会をできるだけ多く持つことができるようにと考えて、取り組んでいます。

 是非、共に祈って、祈りを身につけ、神と共に生きる人生、終わりの日にキリストの前に立つ備えをする人生を歩んでいきたいと思います。

祈ります。

 

<祈り>

今朝も力強い、み言葉を私たちに与えていただき感謝いたします。あなたは、私たちがあなたに立ち帰り、あなたを仰ぐことができるよう「祈り」を与えてくださいました。どうか「祈り」を大切にしながら、いつも目を覚ましていることができるよう、この群れをお支えください。 イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

この頃のブログには、夫は、説教後の祈りを載せていない。

この祈りも、今日、説教を読み聞かせてくださった長老の祈り。