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「聖霊なる神」(エフェソの信徒への手紙3:16~19)

 「聖霊なる神」

 

 2022年5月29日(日) 聖霊降臨節前第1主日

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 3章16節~19節

 

 

1.イエス・キリストの昇天

 

 イエス キリストは復活の後、40日にわたって使徒たちに神の国について話されました。そして、使徒たちの見ている前で天に上げられました。(使徒言行録1章3節、9節参照)これをキリストの昇天と言います。なぜイエスは天に上げられたのでしょうか。イエスがキリスト(救い主)であることを人々に知らせるには、復活したイエスがその姿を現し、イエスを憎む者の陰謀も、死の力も、イエスを滅ぼすことはできない、ということを明らかにするのが一番ではないでしょうか。

 

 しかし、それは愚かな考えであることに気づかされました。この世に人としているということは、時間と空間の限定を受けるということです。簡単に言うと、例えばわたしがある時間に大阪にいるということは、同じ時間に東京にはいないということです。ある日曜日に○○教会で礼拝しているということは、他の教会にわたしはいないということです。イエスが人としてこの世におられるとき、ある所である人たちと一緒にいるということは、別の場所にいる別の人たちとは、一緒にいられないということなのです。しかし、イエスは、すべての弟子たちといつも共にいることを願い、約束されたのです。

 

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書 28章20節)

 

 

2.イエスキリストの昇天はわたしたちを神の国へと導く救いの御業

 

 そのためにイエスは、人としては天に昇られ、聖霊によってわたしたちと常に共にいるようにされたのです。

 

ヨハネによる福音書14章16−18節)「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」

 

 これによって、イエスは、時間と空間の制約を受けることなく、聖霊において世界中のすべての弟子と共におられるのです。だから、イエスはこうも言っておられます。

 

ヨハネによる福音書 16章7節)「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

 

 イエスは、すべての弟子たちといつも共にいるために、天に昇られたのです。そして天に昇られたイエスは、神の国にあって、今もなお、わたしたちのために神に執り成しを、し続けていてくださいます。

 

(ローマの信徒への手紙 8章34節)「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

 

 この今もなされている、イエスの執り成しによって、わたしたちは神の国に住まいを得ているのです。

 

ヨハネによる福音書 14章2−3節)「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 

 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方の、もとへと続く、人生を生きているのです。イエス キリストの昇天は、ただこの世を離れて、神の国に戻られたというのではなく、天に上げられるということを通して、常にわたしたちと共に生き、わたしたちを神の国へと導く救いの御業なのです。

 

 

 3.聖霊なる神

 

 さて、聖霊なる神は、わたしたちを救い主イエス キリストに結び合わせ、キリストの命、キリストのすべてで、わたしたちを満たすために遣わされました。聖霊なる神によってイエス キリストと一つにされたわたしたちは、もはや何ものによっても支配されることはありません。イエス キリストで満たされている今は、死もわたしたちを支配することはできなくなったのです。

 

(ローマの信徒への手紙 8章38, 39節)「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 

 

 また聖霊は、イエス キリストから、わたしたちへという方向で、恵みを与えるだけでなく、わたしたちからイエス キリストへ、そして父なる神へと、結び付けてくださいます。

 

(ローマの信徒への手紙 8章26節)「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

 

 わたしたちの弱さを知って、聖霊なる神ご自身が、わたしたちのために執り成してくださるのです。聖霊なる神によって、神の愛がわたしたちへと注がれ、わたしたちの祈りにならない思いが、神へと執り成されているのです。 

 

 例えて言うなら、聖霊なる神は、命を支える息のようなお方です。息をしているとき、わたしたちは生きています。そして息をしているとき、目に見える肉体と目に見えない心とが一つに結び合わされて、わたしという一つの存在、一つの命として生きています。聖霊なる神が働かれるとき、目に見えるわたしたちと、目で見ることのできないイエス キリストが一つに結び合わされて、わたしたちはキリストの復活の命に生きる、新しい存在とされているのです。

 

 実は、旧約が書かれたヘブライ語で「霊」を表す言葉(ルーアッハ)は、「息」も表す言葉なのです。

 

 

 4.神と共に生きる命に生かされる

 

 キリスト教の中心は、「神と共に生きる命」です。神と共に生きるとき、命は滅びへ向かうことなく生きることができ、喜びをもって生きることができます。神と共に生きるとき、すべての命が神の愛の中で、共に生きることができます。

 

 けれど、罪がわたしたちを、この恵みから引き離してしまいました。

 しかし、父なる神は、罪を抱えてしまったわたしたちの救いを決意されたのです。

 そして、子なる神(父の独り子)イエス キリストによって、罪の贖いの業がなされました。

 その神の救いの御業、死を打ち破って復活されたイエス キリストの命の恵みに、聖霊なる神が与らせてくださるのです。

 キリストと一つに結び合わせ、キリストを通して父なる神と結び合わせてくださいます。

 父・子・聖霊の三位一体の神の恵みに包まれて、わたしたちは神と共に生きるものとされ、本当の命の喜びを味わうものとされているのです。

 

 

 

 祈り

 

主イエスキリストの父なる神様 罪ある私たちがイエス キリストの命の恵みに、聖霊なる神によって与らせてくださり、感謝いたします。どうか、私たちがこれからも神と共に生きる命に生かされますように。主イエスキリストの御名をとおして祈ります。