聖書の言葉を聴きながら

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「来て、見なさい」(ヨハネによる福音書1:35〜51)

 「来て、見なさい」

 

 2022年1月2日(日) 降誕節後第2主日礼拝 【新年礼拝】 

聖書箇所:ヨハネ福音書1章35節〜51節

 

 きょうの箇所では、イエスと弟子たちとの出会いが記されています。

 洗礼者ヨハネはイエスが歩いておられるのを見かけます。ヨハネは一緒にいた二人の弟子たちに「見よ、神の小羊だ」と言って、イエスを指し示しました。

 普段からヨハネは、自分の務めを「イエスを証しすること」だと言っていたのでしょう。弟子たちはヨハネの言葉を聞いて、イエスについて行きました。

 イエスは振り向き、ついて来る彼らに「何を求めているのか」と尋ねます。

 ところで昨日は元日でした。神社仏閣に初詣で多くの人が集ったことでしょう。数え切れない多くの『求め、願い』が神仏に捧げられます。皆さんはイエスから「何を求めているのか」と聞かれたら、何を求め願うのでしょうか。

 彼らは答えます。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」。イエスは言われます。「来なさい。そうすれば分かる」。彼らはついて行って、イエスのところに泊まります。

 ラビというのは、ユダヤ教の教師の名称です。彼らはイエスの泊まっている場所を知りたかったわけではありません。彼らは、ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と指し示したイエスが、どんな人なのかを知りたかったのです。イエスは彼らの思いを知って、「来なさい。そうすれば分かる」と招いてくださったのです。彼らはその夜、イエスとたくさん話をしたことでしょう。

 弟子たちの内の一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでした。アンデレはシモンに言います。「わたしたちはメシヤに、出会った」。メシヤとは救い主のことです。ギリシャ語だとキリストです。「イエスこそメシヤ=キリストである」。アンデレが直接イエスに会って、話をして、得た結論です。

 アンデレはシモンをイエスの許に連れて行きます。イエスはシモンを見て、「ケファと呼ぶことにする」と言われました。ケファはギリシャ語でペトロ、日本語で「岩」という意味です。後に彼が「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ 16:16)と告白したとき、イエスは「わたしも言っておく。あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ 16:18)と言われました。

 翌日、イエスはフィリポに出会って「わたしに従いなさい」と言われました。

 フィリポは、ナタナエルに出会って「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と告げます。

 ナタナエルはフィリポの言うことが信じられず、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えます。フィリポはナタナエルに言います。「来て、見なさい」。

 イエスは自分の方に来るナタナエルを見て、彼について言われます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルは驚いて「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになりました。

 「いちじくの木の下」というのは、祈りや御言葉の学びを示す表現です。いちじくの木陰が祈りや学びに用いられていたからです。

 この場面では、イエスがナタナエルの信仰を知っておられたことが示されています。ナタナエルが、神を求め、祈りや学びを大切にしている。それをイエスは会う前から知っておられました。

 ナタナエルは驚きをもって答えます。「ラビ、(わたしの心の内、わたしの信仰を知っておられる)あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 イエスはナタナエルに答えて言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 ナタナエルは、初めて会ったイエスが自分の心の内を知っておられたことに驚きました。しかしイエスは「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と言われます。それは、イエスによって天が開ける、つまり神の国が開かれ、イエス・キリストによって天と地が結ばれ、天使たちがイエスの上に上り下りする、というのです。つまりナタナエルは、イエスによって神の国が開かれ、天と地が結ばれるという救いの御業を見る、と言われているのです。

 ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの出会いをこのように記します。

 ヨハネによる福音書は、大切なことを繰り返し重ねて語ります。

 39節「来なさい。そうすれば分かる」。46節「来て、見なさい」。

 41節「メシヤに、出会った」。45節「預言者たちも書いている方に出会った。」

 50節「見たと言ったの信じるのか」。これはトマスが復活のイエスに出会った場面で言われた「わたしを見たから信じたのか。」(20:29)と共通する表現です。

 

 きょうの箇所のテーマは、イエス・キリストに出会うこと、そしてキリストによって信仰に導かれ、救いに入れられる、ということです。

 

 わたしたちは、「来て、見なさい」とイエスへ招かれているのです。そして、イエスと出会ったとき、イエスがメシヤ=キリスト=救い主だと分かったとき、神が救いの御業をなしてくださる神であり、わたしをキリストへ、救いへと導いてくださったことを知るのです。そして、弟子たちを救いの御業のためにお用いになったように、わたしたちも「来て、見なさい」「メシアに出会った」と証しする者とされるのです。

 

 このヨハネによる福音書が編纂されたのは、イエスの十字架から70年近く経っていたと言われています。イエスが十字架にかけられたのが、およそ紀元30年頃。ヨハネによる福音書の成立年代は、紀元90年代後半だろうと考えられています。この福音書を読んだ人、語り聞かされた人は、わたしたちと同じようにイエスを肉眼で見ることはできません。それは、この福音書の著者、あるいは編集者も分かっています。しかし、福音書はイエスの許に「来て、見なさい」、そうすれば「メシアに出会った」と喜べると伝えるのです。

 

 なぜなら、福音書の著者、編集者もおそらく肉眼でイエスを見てはいないからです。

 

 だからこそ、御言葉を通して、イエスが出会ってくださるということを、知っているのです。自分自身も、肉眼でイエスを見たことがなく、イエスの声を耳で聞いたこともない。特に不思議な出来事を体験したわけでもない。しかし、聖霊なる神が働いてくださるとき、宣教の言葉を通して生ける真の神、復活の主イエス・キリストに出会うことができるのです。それを福音書の著者、編集者も知っているのです。だからこそ、福音書はイエスの許に「来て見なさい」、そうすれば「メシアに出会った」と喜べると伝えるのです。

 

 キリストに出会った者は信仰へと導かれ、キリストを知った驚きと喜びをもって証しするのです。そして「来て、見なさい」と宣べ伝えるのです。そのようにして、キリストと出会い、救いに入れられた者たちが、キリストの福音を2,000年宣べ伝えてきたのです。

 聖書は勉強して学ぶこともできます。考古学や聖書学によって研究することができます。しかし神は、御言葉を通してキリストに出会うように招いていてくださるのです。わたしたち一人ひとりが救いへと入れられ、信じる喜びをもって生きるようにと招かれているのです。

 どうか皆さん、お一人おひとりが、キリストに出会っていく1年、御言葉を通して救いに与る1年となるよう祈り願っております。

 

祈ります。

 

天にいらっしゃいます父なる神さま、新しい1年が始まりました。この1年をも神さまの御言葉に聞き従い、イエスさまを証しして歩んて行けますように、

切にお願いいたします。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によりまして御前におささげいたします。

アーメン