聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「よろしい、清くなれ」(マルコによる福音書1:40~45)

エスガリラヤ中の会堂に行き,宣教し,悪霊を追い出している中で,重い皮膚病を患っている人がイエスのもとにやってきました。
ここに重い皮膚病と出てきますが,新共同訳聖書も最初の版はらい病と訳しています。現在はハンセン病と呼ばれている病名です。皆さんの聖書も人によってはらい病となっているものがあると思います。教えて頂きましたところによれば,1997年から新約の中で使われているらい病が重い皮膚病に訳し変えられたそうです。らい病という病名を使うとこの病気に対する偏見や差別を容認してしまうという意見が出るようになり,聖書を出版している日本聖書協会に要望が寄せられたからだそうです。
わたし自身は差別する言葉だと言って言葉をなくしていくのには反対です。言葉をなくしても心が変わらなければ差別はなくなりません。かえって新しい差別語を産み出したり,見えにくい差別を助長することになるのではないかと思います。
そしてもう一つ大事なことは,イエス キリストはわたしたちを罪から救うために罪の世のただ中に来られたのだということです。様々な配慮によって罪の現実を薄めてしまうような訳に変えてしまうのは,救いの恵みをも薄めてしまうことになりかねません。聖書には様々な人間の罪が描かれています。それをいろいろと配慮して訳を変えたり,印象を薄めたり,説教に取り上げるのを止めてしまったりしていては,罪に対してもそこから救われるということに対しても底の浅い理解しかもてなくなってしまいます。キリストが本当に罪から救ってくださることを知るには,本当の罪を知らなくてはなりません。
ただし,聖書学的によく検証してより良い訳に変えることは必要なことです。そして,そのような主張をもって重い皮膚病の訳が良いと言われる方もいます。この重い皮膚病という言葉をめぐっては今も議論があり,わたし自身には学的に論じる十分な知識がないので,現在の新共同訳の重い皮膚病という言葉で話をしたいと思います。
さて,皮膚病についてはレビ記13−14章に規定が記されています。ここでは衣服や家屋に生じるカビについても言及されています。重い皮膚病にかかっている人についてはこう書かれています。「衣服を裂き,髪をほどき,口ひげを覆い,「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり,その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(13:45−46)皮膚病はその症状が目で見えたところから恐れを生じさせました。そして人々から離れて暮らしていかねばなりませんでした。もちろん神殿に行くこともできません。
エスのところへ来た人は,大きな決断をして出てきました。彼は町中に入ることはできませんから,おそらく食事などを届けてくれる家族に助けられて町の外でイエスを待っていたのでしょう。彼は人が知らずに彼に触れて汚れを受けることがないように「わたしは汚れた者です」と離れた所から言わなければなりませんでした。その彼がイエスの目の前に出てきたのです。律法に違反したかどで処罰されるかもしれません。大騒ぎとなり,石で打たれて死ぬかもしれない。しかし,彼はイエスを信じました。「御心ならば清くすることができる」と信じました。どれほどの汚れも,どのような病も,どんな掟もイエスの前に立ちはだかることはできない,イエスの愛を妨げえないと信じました。もちろん彼はイエスに会ったことなどありません。食事を届けてくれる者たちからイエスの話を聞いただけです。けれど彼は見ずして信じました。イエスの話はまさしく福音,良き知らせでした。彼は決断しました。イエスの前に進み出る決心をしました。そしてイエスのところに来てひざまずいて願い,「御心ならば,わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。
彼は「御心ならば」と言いました。彼は病と孤独の中で何度自分の存在の意味を問うたでしょう。その中で彼は,自分のものであって自分のものではない命を知ったのではないでしょうか。自分に与えられた命。それは神ご自身のものであり,神の御心によって与えられ導かれるものです。だから彼は「御心ならば」と言ったのではないでしょうか。
彼は「清くすることがおできになります」と言いました。「癒すことがおできになります」ではなく,「清くすることがおできになります」と言いました。聖書において「汚れ」というのは,わたしたちが普段使っている意味とは違い,関係を築けない状態を指します。彼はこの皮膚病のために隣人との関係を築くことができない,神殿にも行けず,神との関係も失われているような状態にありました。もちろん,清くするとは病気が癒されることを意味しています。けれど,彼の言葉には何が本当につらく苦しいのかが表れているように思います。
彼の言葉を聞いて,イエスは深く憐れまれました。神のかたちに創造され,神の愛によって生きるはずの人間が,罪がもたらした病の故に関係を築けず孤独の中に生きている。そして命がけの決断をして自分の前にやってきた彼を見て,イエスは激しく心を動かされました。そして深く憐れみ,手を差し伸べてその人に触れ,「よろしい。清くなれ」と言われたのです。イエスは彼に手を差し伸べて触れました。自分で大声をあげて「わたしは汚れた者です」と言って人を遠ざけなければならない彼にイエスは手を差し伸べて触れました。言葉だけでも癒すことはおできになりますし,そういう癒しの例も聖書には記されています。しかし,イエスは触れました。誰も触れられない,触れてはならない彼にイエスは触れたのです。彼が信じたように,汚れも病も掟もイエスを妨げることはありませんでした。
ここで「よろしい」と訳されている言葉は「わたしは願う。わたしはそれを望んでいる。」という言葉です。イエスが彼との関係を築こうとする意志が,彼を求めて止まない愛が彼を清めるのです。たちまち重い皮膚病は去り,その人は清くなりました。
彼の喜びはどれほどであったでしょうか。計り知ることはできません。ところが,イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし,厳しく注意してこう言われたのです。「だれにも,何も話さないように気をつけなさい。ただ,行って祭司に体を見せ,モーセが定めたものを清めのために献げて,人々に証明しなさい。」彼は癒しを喜びました。けれども,癒しにだけ心奪われてしまうと,イエスは単に癒しの人になってしまいますし,何を願って清めてくださったのかを見失ってしまいます。イエスは彼が律法に従って清めの儀式を行い,社会に復帰し人々との関係を築くように命じられたのです。まさにイエスによって彼は清められたのです。
ただ,人々がイエスを癒しの人,奇跡の人として理解してしまわないように黙っていなさいと命じられました。しかし,彼はそこを立ち去ると,大いにこの出来事を人々に告げ,言い広め始めました。彼はこの喜びを語らずにはいられませんでした。イエスを信じ,イエスを喜ぶ者でもイエスの思いとはずれた従い方をしてしまう。罪あるわたしたちには仕方ないことなのかもしれません。
けれど,そのせいでイエスはもはや公然と町に入ることができなくなり,町の外の人のいない所にいなければなりませんでした。町の外の人のいない所にいなければならなかった彼の重荷をイエスが代わって負ってくださったかのようです。彼は町の中へと帰り,イエスは出て行かねばなりませんでした。
しかし,それでも人々は四方からイエスのところに集まって来ました。イエスが出て行かれたことにより,隔てていたものが取り除かれ,人々がイエスのもとへと向かうのです。わたしたちのために人となって世に来られたイエス,激しく心動かしてわたしたちの清めを願ってくださるイエス,この主の御心によってわたしたちは救いへと入れられるのです。
教会はキリストに従い,病める人,世から隔絶され関係を築けない人と共に歩もうとしてきました。癒しの賜物を与えられたものは癒しの業に仕えました。けれど,すべての人が癒されたわけではありません。パウロのように重荷を負うことを求められた人もいました。しかし,教会は主にあって共に歩みました。要となるのは,主と共にあるということです。わたしたち自身ではなく,主ご自身が清めてくださるからです。わたしたちは今も生きて働かれる主を見ているでしょうか。わたしたちに先立ち行かれる主と共に歩んでいるでしょうか。わたしたちがすべての業に先立ってしなければならないのは,重い皮膚病を患っていた彼がすべてを抱えてイエスの前に進み出たように,わたしたちも主が憐れみ御手を差し伸べてくださることを信じて,深く憐れんでくださることを信じて,すべてを抱えてイエス キリストの前に進み出て願うことです。わたしたちのすべての恵みはイエス・キリストから来るからです。そのとき,わたしたちはイエスの御業によって喜ぶのです。