聖書の言葉を聴きながら

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ヘブライ人への手紙 2:9〜18

2020年12月20日(日)主日礼拝  降誕節主日
聖書:ヘブライ人への手紙 2:9〜18(新共同訳)


 きょうはイエス キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝です。
 ですが聖書にはイエス キリストが12月25日に生まれたとは書かれていません。教会がキリストの誕生を祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。

 今年の待降節は、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。キリスト誕生の千年以上前からキリストの到来が指し示されており、アブラハム、イサク、ヤコブに起こった出来事は、イエス キリストにおいて成就しました。
 きょうはヘブライ人への手紙を読みました。ヘブライ人というのは、旧約の民イスラエルのことです。聖書で最初にヘブライ人という言葉が出てくるのは、創世記 14:13で「一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て」と記されています。アブラムつまりアブラハムヘブライ人であったと聖書は述べています。名前は、時代や相手によって変わります。他にもイスラエルを表す名前は出てきます。きょうは、イスラエルの名前を説明するのが目的ではないので、これ以上の説明は控えます。
 このヘブライ人への手紙は、十字架に掛けられて死んだイエスは一体誰なのかを伝えようとしている手紙です。旧約の民イスラエルの人たちつまりヘブライ人に対して、イエスこそキリストつまり救い主であることを伝えようとしている手紙です。そのためにこの手紙は、イスラエルにとって馴染みのある「大祭司」という言葉でイエスについて語ります。

 祭司というのは、人々が神の御前に進み出られるように、神と人々との間に立って献げ物を献げて、執り成しの務めを果たす存在です。そして大祭司というのは、祭司の長であり、年に一度、贖罪の日に至聖所に入り、全イスラエルのための贖罪の儀式を行いました。
 旧約には罪を贖う規定が細かく定められていましたが、罪を犯したことに気づかず贖われていない罪があるかもしれません。そうした贖われていない罪がイスラエルに滅びをもたらすことがないように、大祭司が贖罪の日に至聖所で贖いをするのです。
 ヘブライ人への手紙は、大祭司はイエス キリストを指し示す存在であり、イエス キリストこそ真の大祭司、すべての人の救いのために自らの命を十字架で献げ、すべての罪の贖いを成し遂げてくださった救い主であると述べているのです。

 きょうの箇所を見ていきましょう。
 9節には「イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』」とあります。イエスは十字架に掛けられて地上の生涯を終えられました。聖書はこの死によって罪人が贖われたと教えます。イエスの死は「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」ものだと言っています。つまり、イエスはすべての人のために死んでくださった故に、救い主なのだと言うのです。そしてイエスはこの十字架の死によって復活の栄光と、救い主としての栄誉の冠を授けられたのです。
 イエスの十字架と復活こそ、教会が二千年語り続け、宣べ伝えてきたことです。

 10節では「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであった」と言われています。
 イエスの数々の苦しみ、そして死は、イエスを完全な者にしたと言うのです。完全な者というのは、救い主として完全であるということです。つまり、イエスによって救われない人は一人もいない、ということです。イエスに救いを求めてもイエスの力及ばず、残念ながらイエスによっては救われないという人はいないのです。それは、イエスが数々の苦しみを受け、十字架で命を献げてくださったことによるものです。

 そのためにイエスは真(まこと)に人となって世に来てくださいました。そのことがきょうの箇所では、14節から書かれています。
 14~15節「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
 イエスはわたしたちの所へ来てくださいました。「神は我々と共におられる、すなわちインマヌエル」(マタイ 1:23、イザヤ 7:14)という神の言葉がイエス キリストにおいて成就しました。それはわたしたちと全く同じ肉体を取り、真(まこと)に人となって来てくださいました。それは「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため」でした。罪の結果である死からわたしたちを救い出すために、罪を除くすべての点でわたしたちと同じくなってくださり、自らの命をかけて罪を償ってくださいました。それこそが真の大祭司の果たすべき役割だったのです。自ら「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けること」がおできになったのです。

 10節に「ふさわしいこと」という言葉がありますが、数々の苦しみを通し、自らの命をも献げて、完全な救い主となり、すべての人の救い主となることは、まさしく真の大祭司の務めであり、神の御心だったのです。
 イエスは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。死に至るまで苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、苦難の中にある者を助けることがおできになります。イエスはわたしたちの苦しみを知っておられます。そして死でさえも受け入れられ、身をもって知っておられるからこそ、わたしたちを死から救い出すことがおできになるのです。イエスはわたしたちの所へ来てくださいました。本当にわたしたちと共にいてくださいます。苦しみも死もその身に負って、救い主となってくださいました。イエスは、罪に溺れるわたしたちに対して、安全な岸から手を差しのばして「この手につかまれ」と言われるのではありません。溺れているわたしたちの所へ来てくださり、救い出してくださるのです。

 神はイエス キリストによって、救いの約束を成就してくださいました。イエス キリストにおいて、神はご自身の真実を証ししてくださったのです。
 最初に言いましたように、教会がクリスマスを祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。
 イエスは救いの創始者にして救いの源であるお方です。イエスの許に、そしてイエスと共に救いはあります。聖書が告げる救いは、イエスと共に、神と共に生きることです。十字架の死に至るまで神と共に歩まれたイエスは、救いに至る目標でもあります。イエス キリストの救いに与るわたしたちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(2コリント 3:18)そして終わりの日には、イエス キリスト同様死から甦り、神の国へ招き入れられるのです。

 今年も待降節降誕節を通して、神の真実を聞く時が与えられ、神の真実が示されました。
 聖書は語ります。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(2ペトロ 1:19)
 イエス キリストは、インマヌエルの主。わたしたちの所に来てくださり、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの罪を贖い、わたしたちを死から救い出す真の大祭司イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。あなたの御言葉は真実であり、決して虚しくなることはありません。信仰によりあなたがお遣わしくださった救い主と結び合わされ、救いに与ることができますように。罪がもたらした死から解放され、キリストの命に生きる者としてください。信仰により救いの完成を望み見て、キリストと共に生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン