聖書の言葉を聴きながら

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「権威ある新しい教え」(マルコによる福音書1:21~28)

  「権威ある新しい教え」

 
 2022年9月4日(日) 聖霊降臨日後第13主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章21節〜28節

 

  イエスの一行はガリラヤ湖北岸の町カファルナウムへとやってきました。神に礼拝を捧げ憩いを得るためいっさいの仕事を休む安息日に、イエスの一行も礼拝を捧げる会堂に行かれました。会堂では管理者の許可を得た者は誰でも聖書の話をすることができたので、イエスも人々の前に立って教え始めました。

 会堂にいた人々はイエスの教えを聞いて非常に驚きました。それは、イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからです。

 聖書には様々な律法、戒めがありますが、律法学者と呼ばれる人たちは聖書の中のたくさんの戒めをきちんと守るために研究をし、人々に教えていました。

 ガラテヤの信徒への手紙5章14節には「律法全体は,「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」という御言葉があります、律法は、わたしたちを愛しておられる神が、罪の世にあっても神と共に歩んでいけるようにと与えてくださったものです。神の愛から律法は与えられたのです。ですから、神がわたしたちを愛していてくださる愛、神の愛によってこそ律法は全うされるのです。律法を守ることを通して神へと思いを向け、神の愛を受け、その愛を分かち合うために律法を与えられた神の思いを知っていくことが大事なのです。そして喜びをもって神と共に生きる、神の愛によって生きることが大事なのです。

 ところが、律法学者たちは「これでわたしたちはきちんと律法を守っている」という自己満足で終わってしまい、律法学者たちの話を聞いても神に出会い、神を知ることはできませんでした。そこに神の愛はありませんでした。しかし、イエスは律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになりました。

 ここで言う権威とは、神の権威です。聖書では、権威は神にのみあります。そして、神の御心を行う者に神は権威をお与えになります。イエスは、まさに御心を行う者として、神ご自身が語りかけるように聖書を教えられたのです。イエスの教えを聞いた人たちは、神へと導かれ、神の思いを知らされたのです。罪を断ち切ってわたしたちを救い出し、わたしたちを祝福し共に生きようとしてくださる神の愛を知ったのです。

 聖書のヨハネの手紙1 4章7節~10節にはこう記されています。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって,わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 イエス キリストは神の愛の現れです。イエスにおいて神の愛が明らかにされました。イエス キリストを仰ぎ、イエスから聞くとき、わたしたちは神ご自身の思いを聞き、わたしたちに対する神の愛を知ることができるのです。

 

 イエスが会堂で人々に教えたこのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫びました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

 ここでいくつか説明をしましょう。

 “汚れた霊”とありますが、“汚れた”というのは体が汚いとか道徳的に悪いことという意味ではなく、神から遠ざかっている,神に逆らっているという意味です。

 次に、イエスはナザレという村の出身なので人々から“ナザレのイエス”と呼ばれていました。

 三番目に、「かまわないでくれ」という言葉は「わたしたちとあなたと何か関係するもの、共通するものがあるのか」という言葉です。

 

 神の御心をそのままに語るイエスの言葉には力がありました。神の言葉が天地万物を造り出したように、イエスの言葉には人を新しく造り替える力がありました。神に逆らい、神から遠ざかろうとする汚れた霊は、イエスの言葉を聴いて自分の危機を感じました。そして叫んだのです。「あんたとは何の関係もないだろう。かまわないでくれ。」

 不思議なことですが,この汚れた霊に取りつかれた男が最初にイエスの本当の姿を知ったのです。

 頭のいい人、心の優しい人がイエスを知り、信じると思うかもしれない。しかし,そうではない。自分の中に汚れた霊がいることを知り、罪に苦しんでいる者こそイエスの本当の姿が分かるのです。

 パウロという人も聖書のローマの信徒への手紙7章でこう語っています。「わたしは,自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:15,19-20,24-25)イエスの前で自分の罪を知って恐れる人こそ、救われるのです。

 ためになる良いお話を聞いて、今の自分に良いものを足していっても救われません。イエス キリストに出会い,イエスの力ある言葉によって新しくされなければなりません。

 

 イエスが汚れた霊に「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。

 神の霊である聖霊に満たされたイエス キリストは汚れた霊を追い出し、わたしたちを清めることがおできになります。荒れ野でサタンから誘惑を受け,それを退けられたイエスだからこそ、ご自身の霊によってわたしたちの中の汚れた霊を追い出してくださるのです。

 森有正という人はこう言っています。「人間が、だれはばからずしゃべることができる観念や思想や道徳や、そういうところで人間は誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。」

 

 わたしから見て,皆さんが汚れた霊を抱えているようには見えない。しかし、イエスキリストはそれを知っていてくださる。その苦しみを、痛みを、受け止めてくださる。そして、わたしたちを救い出してくださる。

 

 これを見た人々は皆驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」そして,イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まっていったのです。