聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 5:1〜9a

2020年3月15日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:1〜9a(新共同訳)


 ガリラヤのカナで二回目のしるしをなされた後、イエスは祭りがあったのでエルサレムに行かれました。
 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊がありました。

 新共同訳聖書には3節の終わりに十字のしるしがあり、4節がなく、5節になっています。ヨハネによる福音書の最後まで行くと、そこに「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」とあって、3節の後に4節として文章の書かれている写本があることを示しています。
 ちなみに聖書の原本というのは残っていません。原本というのは最初に書かれたもののことです。この場合最初に書かれたヨハネによる福音書のことです。原本から書き写された写本、写本から書き写された写本というように聖書は伝えられてきました。ヨーロッパで15世紀の中頃、グーテンベルク活版印刷術を発明して、最初に印刷された書籍が聖書でした。それまではずっと写本で書き写されてきました。おそらく4節を書いた人は、ここの状況説明がもう少し必要だと考えたのだと思います。3節後半から4節はこう書かれています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」(3b~4)
 ですから池のそばの回廊には、癒やしを求めて「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(3節)のです。

 「さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人が」いました。何の病気かは分かりませんが、この後を読みますと、自分で自由に動くことのできない状態だったことが分かります。
 「イエスは、その人が横たわっているを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と」言われました。
 一体何を聞いているのでしょうか。「そんなこと聞かないでください。良くなりたいに決まってるじゃないですか」と止めたくなります。けれど、彼の答えはそうではありませんでした。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」彼から出てきたのは諦めを自分に言いきかせる言葉でした。

 この池の周りに集まっている人たちは、皆病を抱えた人たちです。そしてそこにも、一番を目指す競争、他人のことをかまってられない競争があるのです。そして自由に動くことができず、助けてくれる友もいない彼は、この競争に勝つことはありませんでした。
 イエスの問いは、彼の置かれている状況と今の彼の気持を明らかにしました。

 人はなかなか事実と向き合うことができません。受けとめることができません。自分にとって都合の悪いことは、気づかないふりをする、なかったと思い込もうとします。しかし、イエスの言葉が見ないようにしていた事実、気づかないようにしていた事実を明らかにします。
 彼は、病を抱えていても競争社会におかれていて、諦めに潰されそうになりながら、助けてくれる者もいない中で一人生きていかねばなりませんでした。

 イエスは大勢人がいる中で、どうして彼に声をかけたのでしょうか。サマリアのシカルの女性と同じく、彼を知っておられたからでしょう。
 しかし、そこにいた人たちは皆、癒やしを必要としていました。人は問います。「なぜ全員癒やしてあげないのだ。」
 人は罪の現実を受けとめきれません。病に苦しみ続けている人がいる。飢えで死んでしまう人もいる。戦争で奪われてしまう命がある。自分は小さく力も乏しいけれども、神は全能ではないのか。苦しみを放置し続ける神などどうして信じられるのか。大学生時代、わたしがクリスチャンだと分かるとしばしばそう問いかけられました。
 当時は友人たちが納得する答えを言うことはできませんでした。今でも充分な答えはできないだろうと思います。それでも、キリストと出会い、「いと小さき者の一人にしたのはわたしにしたのである」(マタイ 25:40)と言ってくださる神を信じた人たちが、自分に与えられたいと小さき者の一人に仕えていく中で、神が救いの業をなし続けてくださっていることを、今は知っています。

 福音書はこの出来事に、イエスが救い主=キリストであるしるしを見たのだと思います。イエスは知っておられる。大勢の人がいても、イエスは知っていてくださる。誰が知らなくても、イエスはわたしの苦しみ・悲しみを知っておられ、わたしを見つめ、語りかけてくださる。もう無理と諦めている心に「良くなりたいのか」と語りかけてくださる。イエス キリストと出会うとき、そこに救いが起こることを福音書は知ったのです。
 讃美歌第2編 210番に黒人霊歌の「わが悩み知りたもう」があります。原曲は「NOBODY KNOWS(誰も知らない)」という題で、最初の歌詞は「誰も私が経験してきた苦しみを知らない しかしイエスは知っておられる」と歌われます。誰も自分に気づいていない、気にもしていないとしても、他の誰が知らなくても、イエスは知っていてくださる。38年間病に苦しみ、ベトザタの池のほとりに横たわる以外何もできない男の前に、イエスは来て「良くなりたいのか」と語りかけた事実が、苦しみ・悲しみに覆われ諦めに満たされていく人々の慰めとなり、希望となってきたのです。

 彼は一番に池に入ることはできませんでした。しかしその彼の許に、イエスの方から来てくださいました。
 旧約のヨブもキリストの到来を待ち望みました。ヨブは言います。「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。」(ヨブ 19:25~27)
 罪の世で傷を負いながら生きるわたしたちには、わたしたちを本当に知っていてくださるイエス キリストが必要なのです。

 イエスは彼に言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)すると、彼はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。
 人となり、神の御心を出来事とされたイエスの言葉は、出来事となります。

 牧師として仕えてきて、一番欲しているのは、癒やしの賜物です。癒やしの賜物があれば、この務めがどれほど喜びに満ちたものになるだろうかと思います。しかしわたしに与えられたのは、癒やしの賜物ではなく、イエス キリストを伝える務めでした。無力の中で、苦しむ人・悲しむ人の重荷を思い、キリストに執り成し祈る務めでした。ヨブと同じようにキリストとの出会いを待ち望む務めでした。
 そんなわたしにイエスは語りかけられます。「起き上がりなさい。」自分の無力にうずくまらずに、あなたに語りかける神の言葉を聞いて、託された務めを果たしなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(20:27)。

 皆さんは何から「起き上がりなさい」と言われているでしょうか。

 救いの完成する日、この癒やされた男の喜びが、すべての人の喜びになるのを待ち望みながら、わたしたちは神の救いを信じて、仕えつつ歩むのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 名もなき者さえあなたは覚えていてくださり、主は知っていてくださることを感謝します。わたしたちの前に歩み来たり、わたしたちと共にいてくださる主を知ることができますように。主の御言葉により、諦めから希望へと導かれますように。主が語りかけてくださる「起き上がりなさい」を聞いて、あなたの御力を受けることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン