聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ホセア書8:1〜14

以下は、今日、代読して頂いた元々の説教原稿

 

ホセアはあたかも見張りのごとく、迫りつつある危険を知らせるため、主の家の上に警報のラッパを吹き鳴らせとの命令を受けている。侵入してくる敵に関する恐るべき知らせを広めること、それが目に見えて明らかでないとき、それは困難な任務ですが、預言者はそのために神に呼び出されたのです。

しかし、神と共にある者にとっては危機の到来は明らかでした。それは神の民イスラエルが、神の契約を破棄し、神の戒めをないがしろにしたためでした。

悲しいことに、神に対して不誠実になる者はどんどん偽りの中に陥ってしまいます。

イスラエルは繰り返し神を知っていることを保証しました。「我が神よ、わたしたちはあなたを知っている。わたしたちはイスラエルなのだから」。確かにイスラエルは神を知っていました。しかし、彼らの神への告白は、神への応答は、『この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。』」(イザヤ29:13)というようなものでした。

神を知っているということは、信心深い言葉で言い表す口先の告白ではありません。その言葉が出来事となり、無からすべてを創り出された真実な神の言葉に対する応答は、口先だけではない、出来事を伴う真実な言葉でなくてはなりません。

けれどもイスラエルは、預言者の再三の言葉にもかかわらず、「善を退け」続けました。イスラエル自らがその存在根拠である神との契約を破り(6:7参照)、契約の義務である神の命令を守らず、そのため神の助けを失ってしまったのです。

 

皆さんは、神を知っておられるでしょうか。

 

イスラエルは意図的に自らの指導者を求め、神の指導を拒みました。人々は彼らの真の王が神であることを忘れ、より良い時代を約束する人間の指導者のうちに救いを求めました。しかし、神の真実が忘れ去られているときにその指導者が選ばれるなら、解放への道を指し示すものは何もなくなるでしょう。

彼らは人間的な考えから王を選び、そして暗殺し、神が知らないと言われるとおり神の意志・認可を全く得ませんでした。

王国は全く人間的政治的な権力手段に成り下がり、それはその権威を自分自身が権力を握ることで持っており、旧約の王国観に即したように、神の選びにより神に対する責任において権威を持つものではありませんでした。

神を無視し、自らが力を持ち、権威を持とうとする人間は、自分の願いをかなえてくれる偶像を作り出します。イスラエルでも、カナンのバアル宗教をまねて生殖における生命力の象徴としての動物の像による神の表現が行われていました。ヤラベアム1世という王様は、ベテルとダンの2つの聖所で動物の像を置いており、それは木に金属をかぶせて作られていました。

彼らは目に見えぬ全能の神に対する信仰を、目に見える力のない一塊の金属の前での空虚な礼拝に置き換えてしまいました。

彼らの行為は、現代においてもよく見ることのできるものです。子牛は人間の手で作りうるものであり、技術の産物でした。今日において、どの時代にもましてわたしたちは技術に希望を託しています。すなわち、人類は世界に技術によって救済を打ち立てられるだろうという空しい希望を。

しかし8:5を換言すれば、神はこう言われています。「わたしはあなたたちの技術を忌み嫌う」。そこには何の救いもないのです。偶像は人の手になるかりそめの物であって、壊れてちりぢりになってしまうものです。しかし、神はこのような人間の罪深い自分勝手な願いから生じた偶像崇拝とは相容れるところなく対立しているのです。

この世のものは、神を知り、身を低くし、神と人と共に生きる救いの御業のために仕え、神の栄光を表すとき初めてわたしたちの喜びとなるのです。

 

この世の力を頼みとするイスラエルを、神は彼らが頼りとした外国の力によって打ち砕かれます。7節では、人間的な力に依存することのむなしさを「風」で、その結果アッシリアによる破滅を招くことを「つむじ風」で表しています。空しいものの上に築かれたものは、無へと帰し、破滅を自らの内に秘めています。

イスラエルは頼りとしたものによって食い尽くされ、飲まれてしまいます。諸国を右往左往して助力を求め、しかもどこからも相手にされず、見捨てられてしまいます。イスラエルは、誰も気にも留めない、無価値な器のようになってしまいます。

イスラエルは群れから離れた野ろばのように打ち捨てられて独り立っています。しかし、自分の姿が分からずにいます。イスラエルはそれでもなお金で娼婦の偽りの愛を求める者のように、彼らは同盟者たる外国諸国に保護を求めるのです。彼らは神との契約を忘れ、その条件が保護を申し出ていると思われると、相手と時期を問わず、諸外国と契約をおよび盟約を結びました。しかし神の審判の危機に瀕している国家に対して、他のいかなる国々もいかなる同盟者も救いの手を差し出すことはできないのです。

 

人類の歴史を通じて、人間の力の究極の表現だと考えられる数々の大帝国が存在しました。アッシリアバビロニア、ローマ、大英帝国アメリカ合衆国ソビエト連邦など。しかし、敵対的なものであれ、友好的なものであれ、どのような帝国の力も人類が切望する最終的な保護と救済を与えることはできません。

 

ホセアはその言葉を激しく打ちつけ切りつけることによって、神以外の偽りの援助に対する希望をなぎ払っているのです。

 

イスラエルが造った祭壇よりもはるかに多くの教え(律法)を神はお与えくださいましたが、不信仰のイスラエルにはそれを正しく受け入れることができませんでした。祭儀を行うということが目的となり、自己満足のために祭儀が行われるとき、民は、神の戒めを知っており、それを所有しているにも関わらず、神のことを理解しないようになり、また神の意思表明を自分たちとは無関係なことと感じるようになってしまうのです。

 

皆さんはきょうの御言葉を自分に向けて語られた神の言葉と思っておられるでしょうか。それとも、きょうはあまりおもしろくないところだなあ、と思っておられるでしょうか。

 

彼らは多くのいけにえを携えてきて、それを『神の供え物』と呼びます。しかし、イスラエルのいけにえの場所や祭司は違法なものであるので、主にとってみればそれらは単なる『肉』にすぎません。

13節にある『彼らは食べる』、これが彼らの主な関心事でした。彼らの目的は罪の赦しを得ることでも、神への感謝を表すことでもなく、食欲を満たし、欲望を満たすことだったのです。

イスラエルの献げるいけにえを拒み、「主は彼らを喜ばれない」のです。罪の赦しを得て、神に再び罪を覚えないようにしていただく犠牲が、かえって「主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる」ものとなるのです。何と皮肉なことでしょうか。彼らはついにはエジプトの奴隷の状態へと帰ることになってしまうのです。

 

神の民は造り主を忘れて、人の力・物質の力に信頼を置くようになりました。神はそれらを滅ぼして、神の力強さと人や物の無力を教えようとしておられます。

宮殿も城もイスラエルにとって、自分たちが神の被造物であることを忘れ、自己の世界で自らを神としようとする、人間の誇りと高ぶりを表現するものでした(創世記11:1−9参照)。

しかし人間はどんなことをしても、神の前から逃げ去ることはできないのです。人間であるとは、ホセアにとっては創造者に依存して生きることでありました(創世記3:11)。彼はその時代の人間の意識の内に神を忘れた様を見ていたのである。このような人間の高ぶりと神との間にある対立と、そして被造物のその創造者に対する義務を知らないで生きているために、根本的に「神無し」である文化に迫っている破滅とが、示されているのである。

 

イスラエルはその造り主を忘れた」

自分たちの造り主を忘れた民は、その造り主が常に与えてくれたもの、すなわち保護と救済を他のところに探し求めました。彼らは数多くの誤った道をたどって、失ったものを追いかけました。ある道は彼らを造り主からさらに遠く引き離し、ある道は彼らをさらに悲惨な方へと導きました。しかし躓きは内部に存在したのです。

 

わたしたちは今一度、神の前で自分に問いかけてみなければなりません。わたしたちはどんな幸せを思い描いて、どんな人生を求めて生きているのでしょうか。
神はわたしたちに問いかけられます。「彼らはいつになればイスラエルで、罪なき者となるであろうか。」(5節)神はわたしたちの答えを待っておられます。

 

 

祈り

父なる神様。わたしたちの危機を知らせるラッパが鳴り響いているのに、自分の思いを追い求めるわたしたちはその音を聞くことがありません。わたしたちの落ちつかない揺れ動く思いをあなたの前で静めなければ、あなたの声を聞くことができません。どうかわたしたちがあなたの声を聞くことができますように。あなたの声を聞き流してしまうことがありませんように。わたしたちの救いのためにすべてのことを配慮してくださるあなたが、わたしたちの救いのために語られた御言葉からあなたの御旨を知ることができますように。どうぞわたしたちを立ち返らせ、罪なき者としてください。
主イエス=キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

長老が、この説教を補って、素晴らしい説教に仕上げて下さった。