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「イエス・キリストとの本当の出会い」(マルコによる福音書1:29~34)

  「イエス・キリストとの本当の出会い」

 

 2022年10月2日(日) 聖霊降臨日後第17主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章29節〜34節

 

 安息日にカファルナウムの会堂で教えられたイエスは、会堂を出て、シモンとアンデレの家へと向かわれました。ヤコブヨハネも一緒でした。

 シモンとアンデレの家に行くと,シモンの姑が熱を出して寝ていました。

 シモンは既に結婚していました。シモンは仕事だけでなく、妻や家族をおいてイエスに従い始めたのです。10章28節で彼はイエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。この時のイエスの答えはこうでした。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(10:29-31)

 イエスに従うということは、捨てるというよりもイエスの御手に委ねるのです。主が与えてくださったものを、主の御手に委ねるのです。主が与えてくださったものを誰よりも祝福して与えてくださることを信じて委ねるのです。

 この時も「すぐに」シモンとアンデレの家に行った、と言われています。ただ急いでいたのでしょうか。そうではないと思います。イエスはシモンがおいてきたもの、心に掛けているものを知っておられたのです。主はわたしたち自身だけでなく、わたしたちが心に掛けているもの,わたしたちとつながりのあるすべてを受け止めてくださるのです。

 イエスが来られたので、人々は早速熱を出しているシモンの姑のことを話しました。イエスは彼女のそばに行き、その手を取って起こされました。イエスはまっすぐに彼女のそばに行かれ、その手を取られました。イエスは癒しをなさる場合、手で触れられることが多く記されています。

 治療を手当てと言うように、神はこの手を神の御業に仕えるために用いてくださいます。治療する賜物を与えられている者は、まさに癒しのために用いられるでしょう。

 けれど、特別の賜物がない者でも手を置いて祈る、手を握って祈ることが大事だと思います。主がシモンの姑のそばに来て、手を取って起こされたように、主に遣わされたわたしたち一人ひとりが主と共にその人のそばに行き,身も心もそばにあって信頼する主に委ねて祈るのです。

 百倍受けると言われ、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」と11章24節で言われる主を信じて,祈り委ねることはキリスト者の大切な務めだと思います。

 

 イエスが手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなし始めました。

 当時、ユダヤ教の指導者であるラビは、婦人が食卓にはべることを許さなかったそうです。イエスの癒しは、単に病気が治っただけでなく、イエスに仕え、イエスと共にあることへの癒しでした。しかも男も女も共に主の許で喜べることへの癒しだったのです。

 おそらく、シモンの妻もこの時からイエスを信じるようになったのでしょう。コリントの信徒への手紙一9章5節に記されているようにシモンは後に妻と一緒にイエス キリストを述べ伝えて歩くようになりました。

 

 夕方になって日が沈み、安息日が終わると、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来ました。町中の人がシモンの家の戸口に集まりました。

 多くの人が生きることに苦しみを覚え、イエスの癒しを必要としていました。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しになりませんでした。それは、悪霊はイエスを知っていたからです。

 なぜイエスは悪霊にものを言うことを許されなかったのでしょうか。会堂で汚れた霊が「神の聖者だ」と叫んだときも「黙れ」と命じられました。

 この福音書を読み進めて行くと分かりますが、これは悪霊だけに限らず、弟子たちにも、癒された人々にも命じられます。ナザレのイエスとは一体何者なのか、これはマルコによる福音書の核心です。この問いを人々に突きつけ、この問いの前に人々を立たせるためにこの福音書は書かれていると言っても過言ではありません。

 

 イエスは重荷を負い苦しむ人を憐れまれ癒されましたが、癒しの人として知られることを望まれませんでした。

 一度イエスが癒したらもう後は病の心配が何もなくなるわけではありません。生きている限り、それはあるのです。そしてイエスに癒された人もいずれ死を迎えるのです。生きることの根本的な問題が解決されない限り、人は同じ苦しみを負い続けるのです。

 そして,イエスが求められたのは病気になったらイエスのところに行って治してもらえば大丈夫だという関係ではなかったのです。

 また、イエスはローマからの独立を願う人々によって解放の指導者として祭り上げられることも望まれませんでした。ユダヤがローマから独立して神の民の自由と自尊心が回復されれば問題が解決するのでもありませんでした。

 イエスは利用される関係を望まれなかったのです。何かのためにイエスの力が必要で、それが解決されたらイエスは必要なくなってしまう、そういう関係を求めてはいませんでした。

 

 では、イエスは一体何者で、わたしたちとどういう関わりを持とうとしておられるのでしょうか。それは、この福音書が繰り返しわたしたちに問い掛けながら、わたしたちをどこへ導いていくのかを考えなければなりません。

 それは、イエスの十字架と復活です。イエスが一体何者で、わたしたちとどういう関わりを持とうとしておられるのかは、十字架と復活を知らなければ正しく知ることはできないのです。

 イエスはわたしたちの罪を自ら負い、ご自身の命をもってそれを贖い、わたしたちを罪の支配から救い出してくださいました。そして、新しい命を与えるため死を打ち破り甦られました。ご自身のすべてを与え、共に神に従って生きるためにイエスは来られました。

 利用し合う関係ではなく、愛によってすべてを与え、すべてを求める、どこまでも共に生きるそういう関係を築くために来られました。

 そしてイエスは8章34~35節で「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とお求めになります。

 

 わたしたちはイエスが一体何者なのか、よく知らなくてはなりません。福音書が何を語っているのか、よく耳を傾けなくてはなりません。そして、イエス キリストと本当に出会うとき、シモンの姑のようにイエスに癒され、起こされて、イエスに仕えていくことができるのです。それは今までにない、みんなと喜びを分かち合うことのできる新しい生き方なのです。

 

 イエスは、わたしたちのすべて、わたしたち自身も、わたしたちの持つつながり、愛する者たち、すべてを受け止め、すべてを与えてくださいます。ご自身の命をさえ差し出し、与えてくださいます。この方がわたしたちの救い主なのです。