聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 6:1〜14

2020年9月13日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:1〜14(新共同訳)


 ただ今読みましたのは「五千人の給食」と呼ばれる出来事です。
 (新共同訳)聖書には小見出しが付いています。福音書の場合、他の福音書にも同じ記事があるときには、括弧でその箇所を示しています。きょうの箇所は見てお分かりの通り、4つの福音書すべてに記されている出来事です。

 「その後」という言葉で始まりますが、5章の出来事はエルサレムでの出来事のようですから、きょうの場面のガリラヤ湖周辺とは相当な距離があります。ですから「その後」というのは、ちょっと後ではなく、かなりの時間が経った後を表しています。

 イエスと弟子たちは、船でガリラヤ湖を渡られます。ガリラヤ湖は、ティベリアス湖とも呼ばれていました。当時ガリラヤ地方の領主をしていたヘロデ・アンティパスがローマ皇帝ティベリウスを記念して湖の西側に建てた町、ティベリアスにちなんでそう呼ばれるようになったようです。

 イエスが病人たちになさったしるしを見た大勢の群衆が、後を追ってきました。
 福音書は「山に登り」と表現していますが、おそらくは湖近くの小高い場所で、大勢の人たちが周囲に集まることのできる場所に行かれたのでしょう。
 時期は、過越祭をひかえた時期であったと書かれています。過越祭は、復活節と同じ時期ですから、春であったことが分かります。なので10節には「草がたくさん生えていた」と書かれています。

 「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来る」のをご覧になって、傍らにいたフィリポに問われます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
 聖書は「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」と記します。試みるのは、フィリポの信仰に気づきを与えるためです。

 フィリポは答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。
 1デナリオンというのは、1日分の労働の賃金であったと言われています。単純に、時給700円で8時間働くと、5,600円です。一人当たり300円として約19人分。これが200デナリオンだと3,800人となります。聖書にはおよそ五千人とありますから、フィリポの言うとおり、200デナリオンでは到底足りません。
 そこにシモン・ペトロの兄弟アンデレが、お弁当を持ってきていた小さい子どもを連れて来て言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 わざわざ大麦と言うのは、大麦のパン方が小麦のパンよりも安いからだと言われます。魚は、おかずとして持ち歩くための塩漬けのものでしょう。

 計算が得意なフィリポが考えても、五つのパンと二匹の魚を持っている子どもを連れて来たアンデレの考えも同じです。足りません。役に立ちません。

 14節に「人々はイエスのなさったしるしを見て」とあります。福音書の編集者ヨハネは、この出来事をしるしだと理解しました。単なる奇蹟ではなく、信仰を支えるしるしだと理解したのです。

 フィリポの信仰を試み、気づきを与えるため、イエスは尋ねます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。フィリポは考え、計算して答えます。「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。お弁当を持ってきていた子どもを連れて来たアンデレも答えます。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 イエスに従って行くには、イエスと共に歩むには、わたしたちが用意できるものでは足りないのです。わたしたちが持っているものでは役に立たないのです。
 お金がたくさんあれば、教会が建つのではありません。賜物を献げて献身的に仕える人が大勢いれば、教会が建つのではありません。そこにイエス キリストがいてくださらなければなりません。わたしたちに必要な肉の糧を配慮してくださるイエス キリスト、わずかな献げ物を祝福して皆を満たしてくださるイエス キリストの御業がなくてはなりません。そして6章35節でイエス自ら「わたしが命のパンである」と言われたように、イエス キリストご自身に満たされていくのでなければ、イエスに従い、イエスと共に歩むことはできません。
 この出来事は、弟子たちにそのことを気づかせるための試みであり、しるしなのです。

 イエスは言われます。「人々を座らせなさい」。
 ここで使われている「座る」という言葉は「食卓に着く」という意味で使われる言葉だと言われます。ヨハネによる福音書13章では、最後の晩餐の場面が出てきますが、他の福音書と違って配餐・食事が描かれていません。代わりにヨハネによる福音書では、弟子たちの足を洗うことが記されています。だから、ヨハネによる福音書は配餐と食事、そして祝福をこの五千人の給食で描いているのだと言われます。

 11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」

 たった五つのパンと二匹の魚しかなかったにも拘わらず、人々は満腹しました。

 イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われます。神が注いでくださる祝福の恵みが、どれほど豊かであるのか気づくようにイエスは言われます。弟子たちが言われたとおり集めると、残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになりました。
 ヨハネは、言葉を二重の意味で使ったり、事柄を旧約とのつながりを暗示して語ったりします。ここで十二の籠は、イスラエルの十二部族、イエスの十二弟子を暗示しています。つまり、二千年前、湖畔に集まった人々を満たしただけでなく、イエスの祝福は代々の神の民を満たしていくしるしであると、ヨハネはこの出来事を受けとめたのです。

 そしてその場にいた人々も、14節「イエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と」告白したのです。
 「世に来られる預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。モーセ申命記 18:15で「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる」と語っています。
 またきょうの記事の直前で、イエスは「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」(5:46)と言っておられます。
 ヨハネは「イエスこそ来たるべき預言者モーセが語ったあの預言者である」と伝えているのです。

 かつてモーセも神に問いました。「この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか」(民数記 11:13)「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」(民数記 11:21~22)
 きょうの記事とよく似た言葉が、出エジプトの際にも語られました。神がご自身の民をマナとうずらの肉で養われたように、イエスはパンと魚を祝福をもって民に分け与えられ、満たされました。
 この五千人の給食において、イエスモーセの役割と共に、神の役割をも果たしておられます。ヨハネは、イエスこそモーセが語ったあの預言者であると伝える共に、イエスこそ肉を取り、人となられた、神の独り子である神、わたしたちの救い主であると告げているのです。

 イエス キリストの祝福が必要だと信じる神の民は祈ります。どうか主イエス キリストが共にいてくださり、霊も肉もあなたの恵みで満たしてくださるようにと。そして、イエス キリストから離れることなく、キリストと共に歩み、与えられた場、与えられた務めを通して仕えていくのです。たとえ小さな奉仕であっても、わずかのものを祝福して豊かに用いてくださる主を信じて、献げます。
 イエス キリストこそ、ご自身でわたしたちを満たしてくださるお方。わたしたちを祝福し、豊かに用いてくださるお方。わたしたちの希望も未来もイエス キリストにあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 足りないもの、役に立たないはずのものを、祝福をもって豊かにお用いくださることを感謝します。霊肉共にあなたは顧みていてくださり、イエス キリストと共に歩めるようにしてくださいます。どうかイエス キリストがわたしたちになくてはならないお方であることを知ることができますように。そしてそのなくてはならない方をあなたが与えていてくださることを覚え、主の御名によって祈り、歩む者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン