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「主を知ること」(ホセア書5:10~6:3)

  「主を知ること」
 
 2022年9月11日(日) 聖霊降臨日後第14主日
聖書箇所:ホセア書  5章10節〜6章3節
  
 人間は、困難な状況の中でその真価が問われます。いざという時にどう行動するかで、その人がどういう人か分かります。 

 ホセアという預言者は、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍した人です。

 この時代には、イスラエル民族は北と南の2つの王国に分裂していました。分裂してしまうと、それぞれ自分たちの利益を考えて行動し、時に同じ民族でありながら争うことも起こってきました。 

 北イスラエル王国は紀元前8世紀半ばに全盛期を迎えましたが、崩壊は北イスラエル王国が誕生したときと同じく突然やってきました。 北イスラエルに全盛期をもたらしたヤロブアム2世が亡くなり、その子ゼカリヤが紀元前748年頃暗殺され、約100年間北イスラエルを治めたイエフ王朝は終わりを告げました。

 北イスラエルは急激に衰退し始め、アッシリア服従するようになりました。アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世は領土拡張政策を進めました。ティグラト・ピレセル3世は、諸国を降服させて貢ぎ物を受け取るだけでは満足せず、征服地をアッシリア代理人が支配する属州とし、アッシリアへ併合することを始めました。 

 ちょうどペカが北イスラエルの王となった頃、ティグラト・ピレセル3世はアッシリアの隣国であるウラルトゥという国と事を構えていました。ペカはこの機会を利用して、アッシリアのくびきから逃れるために、古くからの仇敵であるアラムと反アッシリア同盟を結びました。この反アッシリア同盟は、シリアの国々、そして南に控えるエジプトの力でアッシリアに対抗しようと考えていましたから、ペカは強制的に南ユダ王国を同盟に加えようとしました。しかし、南ユダは今のエジプトがアッシリアに対抗できるだけの力がないことを知っていたので、同盟に加わりませんでした。そこで、北イスラエルは南ユダを攻撃しました。

 南ユダの王アハズは、静かにしているようにとの預言者イザヤの助言にも関わらず、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世に助けを求めました。そこでティグラト・ピレセル3世は、かねて計画していたように、シリアとパレスチナの征服に立ち上がりました。

 アッシリアの軍隊は、北イスラエルの同盟諸国を滅ぼし、北イスラエルは多くの領土を失いました。紀元前733年には、北イスラエルの中心部がアッシリアからの自由を保ち続けているだけでした。 そのような北イスラエルの困難に乗じて、南ユダは北イスラエルの領土をかすめ取ったのです。
 
 もはや北イスラエルにも南ユダにも神を畏れる思いはありませんでした。神の言葉に従い、神と共に歩む神の民の姿はそこにはもうありませんでした。
 
 彼らが恐れるのはこの世の力であり、彼らが求めるのはこの世の富でした。 神がシミとなり、腐れとなり、獅子となってその罪に気づかせる痛みとならなければならないとは、何という悲劇でしょうか。

 そして彼らはその耐え得ない痛みの中で、この世には誰も、そして何者も救い得ないことに気づかなくてはならないのです。
 
 わたしたちは危機の時に外部にその原因を求め、外部に解決を求めようとします。北イスラエルも南ユダも危機に陥っているのは誰の目にも明らかでした。社会に大きな傷があり、その傷が膿んでいるのは分かっていました。しかし、どうしてそのようになってしまったのかは誰も分からずにいます。

 いや、分かろうとしませんでした。預言者がどれほど語ろうとも、その声に耳を貸そうとはしませんでした。そして、人々はこの世の力に頼ろうとしてますます神から離れていきました。
 
 わたしたちは、自分自身の生における傷の原因を知ろうとしない場合が多くあります。窮地に陥った場合、その責任が自らの内側にあることを認めるよりも、数多くの外的状況の中にその原因を見つけだそうとします。

 教会もまた、その内側が病んでいることを認めるよりも、その衰退を自分たちの外側の社会的な事柄から理解しようとします。
 
 ここでわたしたちはもう一度よく考えることを求められています。わたしたちの危機の原因は、わたしたちの外側にあるのでしょうか。 神は、わたしたちがどこまでもこの世の力、神ならぬもの、空しいものに頼っていこうとするとき、わたしたちが頼りにならぬものに心を寄せていることを分からせるために、その姿を隠されます。わたしたちは罪の世において、罪の痛みの中で、神だけがわたしたちの傷を癒してくださることを知らなければならないのです。神から離れたことによってこの傷を身に負い、神のもとに立ち返ることによってのみこの痛みから解放されることに気づかなくてはなりません。 
 
 この世は滅びいく世ですが、神のもとには癒しがあり、命があります。神はこの御言葉をもキリストによって成就されました。キリストはまさしくわたしたちに先立って三日目に甦られたのです。 

 この罪の世にあっては、キリストを信じる者も、信じない者も共に死を迎えます。この罪の世にあってはすべてのものが滅びへと向かいます。

 しかし、神のもとへ立ち返った者、キリストを信じた者には、甦りの命が与えられるのです。そして神のもとで、罪ゆえに傷つき傷つける命ではなく、愛し合い、喜び合う命が満ちあふれてくるのです。
 
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」