聖書の言葉を聴きながら

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「神の国の福音を宣べ伝える」

神の国の福音を宣べ伝える」

 

 2022年10月9日(日) 聖霊降臨日後第18主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章35節〜39節

 

 21節から記されているカファルナウムの会堂でのイエスの教えと癒しの評判は瞬く間に近隣の人々に広まりました。日が沈み安息日が終わると、多くの人々が病人や悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れてきました。イエスは一人ひとり癒し、悪霊を追い出されました。これは夜遅くまで続いたのではないでしょうか。

 けれど翌日、と言ってもユダヤでは一日は日没から日没までなのでユダヤでは翌日ではなく同じ日なのですが、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられました。

 疲れておられただろうと思います。けれど、イエスには人里離れた所へ出て行って一人で祈る時が必要でした。一人、神と向かい合う時が必要だったのです。

 祈りとは、神との交わりです。神に従い、神と共に歩む上で欠かすことのできないものです。礼拝は基本的に週に1度安息日に行われていました。現代では、一人ひとりが聖書を買うことができますが、それは印刷技術が発達したここ数百年のことで、聖書は礼拝で朗読されるのを聴くものでした。ですから、毎日の信仰生活を支えるのは祈りでした。

 祈りにおいて、神の民はいつでも・どこでも神と向かい合い、神との交わりに与ることができるのです。祈りは、日々の信仰生活を支える恵みの賜物なのです。一人ひとりの信仰を育む上で、祈りは礼拝と並んで中心となるものです。

 日々の祈りにおいて、一人で神の前に立つことにおいて、神とわたしとの関係が確立されていくのです。

 

 イエスは祈りの人でした。祈りによって神と結ばれ、神と共に歩まれました。ヘブライ人への手紙の中では、おそらく十字架の前のゲツセマネの祈りを指してこう言っています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブライ5:7)

 すべてを神に委ね、すべてにおいて神に従う救い主としてのイエスの歩みを支えたのは祈りでした。

 けれど、弟子たちはまだそのような信仰を知りませんでした。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると「みんなが捜しています」とイエスに告げました。まるで、あなたを必要としている人がたくさんいます。こんな所で祈っている場合ではありません、と言わんばかりです。

 けれど、イエスの答えはこうでした。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 多くの人の待つカファルナウムへは戻らないと言うのです。カファルナウムでは大勢の人が癒しを求め、悪霊追放を求めてイエスを待っていました。しかし、イエスはそこへは戻られませんでした。 自分を必要とする人がそこに大勢いて、その人たちを助ける力がイエスにはあるのに、なぜイエスは戻られなかったのでしょうか。

 

 自分のもとに集まる人々を癒すだけであれば、サタンの誘惑に乗るのと同じ。

 マルコによる福音書では詳しく述べていませんが、マタイとルカの福音書ではサタンの誘惑がどんな誘惑であったか記しています。石をパンに変える奇跡、天使に守られていることを見せる、サタンから世界をもらう。

 パンでも癒しでも人々の必要を満たし、神の力を見せるということなら同じ。神との関係は変わらない。 イエスは宣教する。そのために出てきたと言われます。

 ヨハネによる福音書では「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」(ヨハネ18:37)と言われました。

 

 弟子たちがイエスの務め、働きについて十分理解していなかったように、わたしたちも神の国の福音を述べ伝えることの重大さを理解していないことがあります。

 礼拝や祈りは、奉仕のための動機づけや取っ掛かりでしかなくなっていることがあります。礼拝や祈りが心身共に余裕があるときにするものになっていたりする。神の国の福音を述べ伝えることの重大さ、伝道の大切さを理解していません。

 神の言葉には力があり、神が今も伝道を通して救いの業をなしておられることを忘れてしまっています。

 しかし、イエスは弟子たちを本来の道に連れ戻されます。

 人はイエスを奇跡を行う者として求めますが、近づいている神の国の福音を述べ伝えるために、人々を悔い改めへと導くためにイエスは来られたのだ、ということを改めて教えられます。 パウロ「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(1コリント9:16)と言っています。わたしたちは託された務めをきちんと自覚し果たしているのか。

 そして、イエスガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。

 

 神との関係が整えられ、確立されなければ、神の民、教会の業ではありません。福音が述べ伝えられ、神の国が到来する中で、癒しも奉仕もなされていく。

 イエスは癒しや悪霊追放を止めてしまわれたのではありません。福音が述べ伝えられ、神の国が現れる中で御業をなさる。

 

 わたしたちは祈りの民となり、宣教に仕えなくてはなりません。

 救いの恵みを受け、祝福されて遣わされなくてはなりません。

 その時、限界ある人間の業としてではなく、限りない愛を注がれる神の御業に仕える者として遣わされ、神の国の働きに用いられていく。

 

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)

 

 祈りにおいてもっともっと神に近づき、福音を述べ伝えましょう。神はわたしたちと共におられ、わたしたちを通して御業をなしてくださいます。

 

 

以下は、説教後の長老の祈り

天の神さま、私たちは神さまから離れ、この世の物に心奪われ、祈ることさえ忘れて歩むことの多い罪深き者です。しかし、神さまはそのような私たちに限りのない愛を注いでくださいました。

神さまの愛につつまれて、日々を歩んで行くことが出来ますように。祈りつつ神さまから与えられた業を、神さまを宣べ伝えていく事が出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によりましてお献げいたします。

アーメン