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ローマの信徒への手紙 9:25〜29

2020年1月5日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:25~29(新共同訳)


 パウロはこの手紙で、イエス キリストこそ神が約束された救い主であることを確認し、キリストによってのみ救われることを明らかにしようとしています。それはユダヤ人であること、割礼を受けていること、律法を守っていることを誇りとするユダヤ人の誇りを傷つけることになりました。

 誇りというのは実にやっかいなものです。誇りは人の存在を支えています。ですから、誇りが傷つけられようとするとき、人は誇りを守ろうと懸命になります。
 1989年、ベルリンの壁が崩壊したとき、ついに東西対立が終わり、平和な時代が来ると期待しました。しかし東西対立の後には、悲劇的な民族対立が出現しました。
 民族が誇りとなるとき、民族の数だけ散り散りになってしまいます。そして今に至るまで、民族対立の根底にあるナショナリズム民族主義が全世界で人々を引き裂いています。

 教会はこの問題をも解決するためにイエス キリストを宣べ伝えます。キリストを信じる者は、キリストを誇りとします。「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31)と聖書にあるとおりです。すると「キリストに結ばれたあなたがたは皆・・もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ 3:26, 27)と言われているとおり「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ 2:14)となり、「キリストは・・御自分において・・平和を実現し、十字架を通して・・神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼ」(エフェソ 2:15, 16)してくださったのです。

 神の御業を語るとき、被造物である人間は神を捉え尽くすことはできない、有限な人間が無限の神を理解し尽くすことはできない、というわきまえが大切です。パウロは9〜11章で旧約の民イスラエルの救いについて書いていますが、その最後でパウロが語っているのは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ 11:33)という言葉です。そしてその直前に語るのは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ 11:32)という言葉です。神の御心は、わたしたちの思いを越えていますが、すべては「すべての人を憐れむため」なのです。

 イエスも譬えを用いて「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ 20:16)と言われていますが、人はどうしても先の者は先になりたくて、「先にいる者が後になる」神の御心をなかなか受け入れられません。
 パウロはきょうの箇所で、旧約を引用して、神は旧約の時代からイスラエルに対してその御心をちゃんと明らかにしてこられたことを明らかにします。
 最初に引用するのはホセア書です。旧約の十二小預言書の一つです。ホセアは紀元前8世紀の預言者です。預言者には行為によって預言する務めが与えられることがあります。その行為を通して神の御心を明らかに示すのです。
 神がホセアに与えた務めは「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」(ホセア 1:2)淫行は偶像礼拝を表します。神が、偶像礼拝に陥っている民を赦し、受け入れる御心を示すため、ホセアは淫行の妻を迎え入れ、淫行による子どもたちを家族として受け入れるのです。神に対して「正気ですか」と問いたくなるような命令です。そのホセアの行為を通して、神は25,26節の御心を、救おうとしている偶像礼拝の民に語りかけるのです。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」パウロはこの言葉を異邦人の救いに当てはめています。

 赦される罪人にとってはよき知らせです。神の民は、その知らせを確かに伝えるために預言者に求められたものを知らねばなりません。さらにそのメッセージを実現するために、神がひとり子に託されたことを。神は全能の力で手軽にパパッと救いをなされたのではないのです。神は痛みを負われました。自ら痛みを負ってまで、神は救いの御業をなされたのです。その神の民とされ、神の子とされるとき、自分は先に選ばれた者、割礼を受けた者、律法を守る者といった人間の誇り、自慢を手放さなくてはなりません。

 さらにイザヤの預言が引用されます。このイザヤの預言は「残りの者」についての預言です。残りの者というのは、神の民が神から離れていってしまうときに、神の許に留まり、神に従う者のことです。パウロは、キリストを信じるユダヤ人を残りの者だと理解していました。神は、旧約の民の中にキリストを信じる残りの者を置いてくださり、旧約の御言葉が新約の民へと引き継がれるようにしてくださったのです。
 もし神が残りの者を置いてくださらなければ、イザヤが言うようにソドムやゴモラのように滅んでしまったでしょう。イスラエルの十二部族の内十部族は、北イスラエルアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアのとった移住政策によりいなくなってしまいました。
 旧約の民は、旧約の御言葉、神の救いの歴史、イエス キリストが神の約束の成就であることの証人です。

 神の御心は、大きすぎて、理解し尽くすことはできません。しかし、わたしたちが救いに与り、神を喜ぶために必要なことは聖書を通してお語りくださっています。神はわたしたちの救いを願っておられ、そのために御業をなしておられます。
 ですから「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」(1コリント 15:58)と聖書は語り、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ 8:28)と語るのです。旧約の民、ユダヤ人の存在意義は、罪人の救いを願う神の御心、神ご自身の内にあるのです。

 旧約の民イスラエルは、割礼や律法、先に選ばれた者であることに執着するのではなく、ひとり子を失う痛み・悲しみを負ってまで旧約の言葉、ホセアの預言を成就された主を誇りとするのです。そして、それはわたしたちも同じです。
 わたしたちの存在を支えるわたしたちの誇り、そして未来の希望は、わたしたちの主ご自身なのです。父・子・聖霊なる神はそのすべてをわたしたちに示し与えてくださいます。その全能の力をわたしたちの救いのために用いてくださいます。だから、聖書も礼拝も、説教も聖礼典も父・子・聖霊なる神を証しします。この神に出会い、神を知ること、信じること、愛することこそが、わたしたちを罪から救い出していくのです。

 「自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる」。
 この御言葉は、わたしたちが神を喜ぶために今語られたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御言葉は空しくなることはありません。だからわたしたちは信じることができます。どうか御言葉を通してあなたと出会い、わたしたちの思いを越えるあなたの救いに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン