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ローマの信徒への手紙 9:6〜13

2019年9月29(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:6〜13(新共同訳)


 パウロは今、イスラエルの救いについて考えています。イスラエルは、神の選びの民です。神がアブラハムを召し出されて以来、神の民として歩んできました。ヤコブのときにイスラエルという名前を与えられてからイスラエルの名で呼ばれるようになりました。ソロモン王の後、国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。それぞれアッシリア新バビロニアに滅ぼされ国を失いました。残された人々がユダヤという国を建てて、何とか歩んできました。パウロがこの手紙を書いている時、ユダヤローマ帝国の属国として存在していました。
 パウロは知りませんが、この後紀元70年にユダヤはローマによって滅ぼされ、2,000年近く流浪の民として歩みます。
 長い歴史の中で、彼らはイスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。

 パウロは思います。神は約束を実現して救い主をお遣わしてくださった。神の約束を信じて歩んできたイスラエルこそ、その救いに与ってほしい。けれど、イエス キリストを受け入れない多くのイスラエルの気持ちも分かります。パウロ自身、キリスト教徒を迫害してきたからです。彼もイエス キリストを信じない者の一人でした。復活のキリストが出会ってくださらなければ、今も迫害者のままだったかもしれません。だからパウロは考えます。どうしたらイスラエルの民はイエス キリストを信じて、救いに与れるだろうか。
 これはすべての伝道に仕える者に共通する思いです。「どうしたらイエス キリストを伝えられるだろうか。」

 パウロは言います。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」これは、旧約の民イスラエルと交わした神の約束が無効とされたのではない、ということを言おうとしています。パウロは、神の約束、神の御心からイスラエルに語りかけようとしています。
 「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」
 アブラハムには、ハガルというそばめが生んだイシュマエルという息子もいました。しかし神はサラが生んだ「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われました。神の民は、神がお決めになるのです。パウロは言外に「神はキリストから生まれる者が、神の民と呼ばれるとお決めにられたのだ。これが新しい約束なのだ」と言っているのです。

 「約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした。」この言葉を聞いた時、サラはひそかに笑いました。しかし主はアブラハムに言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、わたしはここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている。」
 神が告げられた時、アブラハムは100歳、サラは90歳になっていました。信じられないのは当然です。しかしアブラハムとサラは、神の約束は必ず実現するということを経験しなければなりませんでした。

 「それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。」リベカはイサクの妻で、ヤコブエサウの母親です。
 「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」

 ここで「憎んだ」という言葉に引っかかりを覚える方もおられると思いますので、少しだけ説明します。この言葉は「より少なく愛する」という意味で、ヘブライ語などセム語系言語の誇張した表現である、という説明のついた聖書がありました(フランシスコ会訳)。ですから、わたしたちが日本語で「憎んだ」と言うよりも、柔らかさを含んだ言い方なのだろうと思います。

 神はご自身の民としてヤコブを選ばれました。ヤコブエサウが生まれる前からの選びです。行いは全く関係ありません。ただ神がヤコブを選び、彼を用いて救いの業をするとお決めになったのです。

 わたしの両親はキリスト者ではありません。弟も弟の家族も違います。なぜ、わたしだけがキリストを信じたのでしょうか。他の家族よりもまじめだったからでしょうか。優しかったからでしょうか。優れていたからでしょうか。どれも違います。わたしの思いを超える、神の選びがあり、神が救いの御業の中でどういう風になのかは分かりませんが、用いるとお決めになったからです。それによって「今どき神が命を創造しただなんてたわけたことを信じる人がいるのか」と信仰を愚かだと思っていた人間が、キリストを宣べ伝えるようにされたのです。

 神は、ご自身の独り子イエス キリストを選ばれました。救い主として選ばれました。自由な選び、人の業にも囚われない自由、その自由を神は救いのためにお用いになります。イエス キリストはユダヤ人として、イスラエルの一員としてお生まれになりました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として、神の約束のとおりお生まれになりました。およそ30歳から救い主として歩まれ、十字架を負い、陰府に降り、死を打ち破って復活し、天に昇られ、救いの道を開かれたのです。そして、キリストを信じることにより、わたしたちは神の子として新しく生まれるのです。ここから新たな神の民が生まれます。これが神の約束であり、選びなのです。

 パウロは、イスラエルの民が、自分の誇りに執着するのではなく、神の約束と選びに思いを向け、心を開くように願っています。神の約束は揺るがなかった。ただ人の思いを超えるものだったのです。

 今、神はパウロの手紙を通してわたしたちにも、ご自身の約束・選びを示されます。なぜ今皆さんが神の御前に集っておられるのか。それはただただ神の選びにより、神の約束の中に入れられているからです。

 旧約・新約の約は、約束の約です。神は全能で自由な方です。それなのにわたしたちの救いのために、ご自身を約束の中に置いてくださいます。わたしたちが神の約束によって、守られ支えられるためです。わたしたちの揺らぐ信仰は、神の約束によって守られ支えられます。そして、神が選ばれた救い主イエス キリストを仰ぎ見る時、わたしたちはキリストによって救われていることを信じることができるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストの救いの御業の中で、わたしたちを選び、約束の子としてくださったことを感謝します。あなたの愛と真実により、わたしたちはあなたの選びと約束に守られ、支えられております。どうか聖霊を注ぎ、あなたをいよいよ知る者、あなたを喜ぶ者で在らせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン