聖書の言葉を聴きながら

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「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコによる福音書1:9~11)

  「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 

 2022年7月31日(日) 聖霊降臨日後第8主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章9節〜11節

 

 9節の冒頭で「そのころ」と聖書は記していますが,それが一体いつであったのか、詳しくは書かれていません。

 ルカによる福音書3章23節には,イエスが洗礼を受けられて救い主としての宣教を始められたときは「およそ30歳であった」と書かれています。  イエスは、ガリラヤのナザレから出て来られました。当時のユダヤでは、イエスという名前は、一般的な、ありふれた名前で、大勢いたため、出身地が○○村のイエスというふうに、他のイエスと区別をするために、ナザレのイエスと呼ばれていました。

 このガリラヤのナザレという町は、旧約聖書にも出て来ない、ほとんど知られていない町でした。後にフィリポという弟子が、友人のナタナエルに出会った際、ヨハネによる福音書1章の45節のところ、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言ったところ、ナタナエルは続く46節で「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、フィリポに答えたことが記されています。ナザレという町は、救い主が、輩出されるなどとは到底考えられないほどの無名の町でした。

 

  ナザレから出て来られたイエスは、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けられました。

 なぜイエスは、ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。ヨハネが授けていた洗礼は、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼でした。罪のない神の子であるイエスが悔い改めの洗礼を受ける必要はありません。なぜ、イエスは洗礼を受けられたのでしょうか。

 マタイによる福音書は、そのことを書きとどめる必要があると考えました。マタイには、こう書かれています。マタイによる福音書3章の14節と15節「ヨハネは,それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」。

 イエスは、悔い改めの洗礼を受ける必要はない。けれども、それをするのが、正しいことであったというのです。つまり、イエスは救い主として、わたしたちの救いのために、洗礼を受けることが正しいことだったというのです。

 

  4つの福音書のうち、最初に書かれた福音書は、このマルコによる福音書ですが、マルコでは、イエスは、この洗礼の場面から登場しています。この洗礼から、救い主としての公の生涯、公生涯が始まったのです。神の子であるイエスは、わたしたちを罪から救うために、人となって世に来られました。この罪の世に救いの道を開くために来られたのです。わたしたちが神から救いの恵みを受けるとき、洗礼を受けます。神の許に立ち返り,神の御手によって、罪を清めて頂くのです。

 

 イエスは、わたしたちが救いの道をはっきりと知って歩んでいけるように、ご自分には必要のない洗礼をお受けになりました。わたしたちが、後に従っていき、救いに入ることができるよう、道を示し、招いておられるのです。

 

 わたしたちを救いへと導く羊飼いとなるため、イエスは洗礼を受けてくださったのです。 

 

 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように、ご自分に降って来るのをご覧になりました。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。

 天が裂ける、開かれるというのは、神が啓示を与えられるしるしです。イザヤ書(63:19)やエゼキエル書(1:1)といった預言書にも出てきます。 天が裂けると、霊が鳩のようにイエスに降(くだ)ってきました。

 創世記1章2節には、「神の霊が水の面(おもて)を動いていた」とありますが、動いていたという言葉は、鳥が空を飛ぶ様子を表す言葉です。霊の働きは、風に乗って、空を飛ぶ鳥のようなイメージで考えられていたようです。

 霊の働きは、2つのものをつなぎ、1つに結び合わせるものです。イエス キリストと、わたしたちを結び合わせる。イエス キリストの復活の命にわたしたちを与らせる。これも霊の働きによるものだと、聖書は教えています。

 ここでは、イエスが洗礼を受け、救い主の生涯を始められたことによって、父なる神とイエスとが、霊によって結ばれた。天が開かれ、この世界から、神のおられる天に続く道が開かれたことを示しています。  そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。

 

  イエスの生涯において、天から声があったのは、3度でした。最初が今日の洗礼の場面です。2番目は、イエスがペトロ、ヤコブヨハネを連れて高い山に登られた時に、山上で、イエスの姿が変貌した時です。マルコ福音書9章7節に記されています。そして3番目が、イエスが十字架につけられる最後の一週間である受難週の祈りにおいて。これは、ヨハネ福音書の12章28節に書かれています。

 いずれの場面も、イエスが救い主であることを証しするときでした。

 

 そして、神ご自身が、証しをしてくださったのは、イエスこそ、神の愛する子であるということを示すためです。ヨハネから、洗礼を受けた大勢の中の一人というのではなく、優れた宗教的指導者の一人というのでもなく,イエスは神の愛する子なのです。

 聖書における「愛する」という言葉は、「共に生きること」を表します。イエス キリストにおいて、神は共におられるのです。そして、イエス キリストにおいて、わたしたちも神と共に生きる道を見るのです。 

 もちろん、神がイエスを愛しておられるだけでなく、イエスも神を愛しておられ、神と共に生きておられるのです。「わたしの心に適う者」という言葉は、直訳すると「わたしは、あなたを喜んだ」と、なります。イエスは罪人を救うために人となり、救い主としての生涯を始められました。しかし、イエスご自身は、人とならねばならない必然性も、悔い改めの洗礼を受ける必要も全くありませんでした。ただただ、神がわたしたちを愛し、共に生きることを願われるが故に、そしてイエスご自身もわたしたちを愛し、わたしたちと共に生きることを願われるが故に、人となって、わたしたちのところに来てくださったのです。

 罪が無いのに、洗礼を受けてくださったのです。そして、今もなお、救いの道へと、わたしたちを導いてくださるのです。このイエスに対して、神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」つまり「わたしは、あなたを喜んだ」と言われるのです。

 

 神は、愛によって救いの御業をなしてくださいました。神は愛なのです(1ヨハネ4:8)。

 聖書はこう語ります。先週も読みましたが、ヨハネの手紙1の4章9節と10節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:9-10) 

 わたしたちは、イエス キリストによって、神が救いの神であり、わたしたちを愛していてくださることを知るのです。祈ります。