聖書の言葉を聴きながら

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「神の国は近づいた」(マルコによる福音書1:14〜15)

  「神の国は近づいた」

 

 2022年8月7日(日) 聖霊降臨日後第9主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章14節〜15節

 

 イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが捕らえられました。ヨハネが捕らえられた訳は6章17~18節に書かれています。「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。」多くの預言者たちと同じように洗礼者ヨハネもまた神の言葉を喜ばない権力者の手によって牢に入れられてしまいました。

 後にイエスは洗礼者ヨハネのことをマタイによる福音書11章9節では「預言者以上の者である」と言い、ルカによる福音書7章28節では「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と言われました。ヨハネは旧約の時代を締めくくり、救い主であるイエスに世を委ねる働きをしました。

 ヨハネが捕らえられ、その活動が封じられたとき、イエスガリラヤへ行き、神が与えてくださる良き知らせ、福音を宣べ伝え始めました。

 ガリラヤは、イザヤの預言の中で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているようにユダヤにとっては辺境の地でした。イエス キリストの救いの御業はこのガリラヤから始まりました。わたしたちは人も多く、しがらみの少ない都会の方が伝道しやすいと思っていますが、教会の業は神の救いの御業であるということを忘れてはなりません。神の御業は人の思いを越えています。やりやすそうだとか、この人は信じるかもしれないではなく、命を造り出される神、救いのために独り子をさえ遣わされる神が御業をなされるのだということを心に留めなくてはなりません。

 ガリラヤでイエスは、神が与えてくださる良き知らせ,福音を人々に宣べ伝えました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 この言葉は、イエス自身が語った言葉であり、イエスがなした宣教を要約した言葉です。

 時が満ちたというのは、神の約束の時が満ちた、ということです。神がわたしたちの救いの業を成し遂げられる時が来た、ということです。

 神の約束の時が満ちたとき、神の国は近づいてきました。国という言葉は、元々支配する、治めるという意味の言葉です。神が支配し、治められるところが神の国です。神に従い,神に治められ、導かれる人のいるところに神の国は現れるのです。

 アダムとエバが罪を犯して以来、人は罪を抱えており、罪に導かれています。罪というのは、神とは違う思いを持ち、神から自由になって自分の思うままに生きようとすることです。罪は、神からの自由がわたしたちに幸せをもたらすかのように思わせます。しかし、罪が幸せをもたらしてくれるなどということはありません。神は、罪の支配からわたしたちを救い出し、神ご自身へと立ち返らせるために神の国を到来させてくださるのです。

 ところで、時が満ち、神がわたしたちの救いの業を成し遂げようとされるとき、神はご自身の独り子イエス キリストを救い主として世に遣わされました。そして、神は救い主イエス キリストを受け入れ、イエス キリストに従うことを求められました。つまり、神はイエス キリストにおいてご自分に従うこと,神に治められることをお求めになったのです。ですから、イエス キリストにおいて救いの約束の時は満ち、神の国は近づいたのです。

 イエス キリストがその人の前に立たれ、語りかけられるとき、神の国はその人の目の前に現れているのです。救いが差し出され、その人が救いに入れられる時が満ちているのです。

だから、悔い改めて福音を信じなさい、とイエスは言われるのです。

悔い改めるというのは、聖書ではとても大切な言葉です。しかし、この悔い改めるという言葉はしばしば「反省する」だとか「後悔する」という言葉と同じ意味であるかのように勘違いされます。けれど、キリストが求める悔い改めはそうではありません。方向転換をして振り返る、そして立ち返るというのがその意味なのです。間違った道を進んでいて、後ろから「そっちじゃないよ」と声をかけられる。その声を聞いて振り返る。するとそこにはキリストがおられる。「えっ、こっちの道じゃないんですか」と言うと「そっちじゃない。わたしと共に行こう。さぁ。」と招かれる。そしてキリストのそばに行く。これが悔い改めです。

 いつの時代の人々も、どこで暮らす人々もこっちを行けばうまくいくだろう、幸せになれるだろうと考えて道を選びます。しかし、わたしたちの選ぶ道はどれもわたしたちを救いへと導きはしないし、みんなで分かち合える幸せをもたらしはしません。わたしたちが日々目にし耳にする様々なニュース、政治でも、事件でも、世界の情勢でも嫌というほどそのことを教えてくれます。なぜなら,わたしたちは罪を抱えており、罪に支配され導かれているからです。罪は決してわたしたちを神へと導くことはありませんし、神が与えてくださる救いへと導くこともないからです。

 神はわたしたちを罪の支配から解放し、救いへと導くためにイエス キリストを遣わされたのです。イエスを自分自身の真の主として受け入れ、従うことで罪の支配から自由になり、神ご自身に治められ導かれて救いに入れられるのです。神が与えられる祝福の中に入るのです。

 イエス キリストが来られたことによって、神の国が目の前に現れました。救いの恵みによってわたしたちを治められる真の王が来られたのです。罪の支配から救い出され、神の国に入れられる時が来たのです。もはや罪に振り回されてさまよう必要はなくなったのです。だから「時は満ち,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とイエスは言われたのです。

 ここに福音という言葉が出てきます。福音というのは、良い知らせという意味です。この福音という言葉は、元々は聖書の言葉ではありません。一般には,新しく王が即位したとか、戦いに勝利したといった知らせを福音と呼んでいました。まさしくイエス キリストの福音は勝利の知らせでした。罪と罪がもたらす死に対する勝利の知らせでした。そして、福音という言葉は新しい王の即位にも使われたと言いましたが、罪と死からわたしたちを解放し、イエス キリストがわたしたちの新しい真の王、主となられたというのがイエス キリストの福音なのです。このイエス キリストの福音は、イエス キリストがご自分の命を懸けた十字架と復活によって最終的に成し遂げられました。ですから、イエス キリストの福音はイエス キリストがもたらしてくださった良い知らせであると同時に、イエス キリストご自身が良い知らせそのものなのです。イエス キリストが福音なのです。

 このイエス キリストが変わることのない空しくなることのないご自身の言葉によって,今、わたしたちの前に立って語っておられるのです。目には見えませんが、聖霊によってわたしたちと共にいてくださり、語っておられるのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」