聖書の言葉を聴きながら

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「私よりも優れた方」(マルコによる福音書1:2~8)

  「私よりもすぐれた方」

 

 2022年7月17日(日) 聖霊降臨日後第6主日

聖書箇所:マルコによる福音書 1章2節〜8節

 

    マルコによる福音書は、福音、つまり良き知らせの始まりを預言が成就したという知らせから始めます。「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ,わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れたと、2節、3節に書かれています。

 

 2節に預言者イザヤの書にこう書いてあると、ありますが、2節はマラキ書3章1節からの引用です。イザヤ書40章3節の引用は3節で、2つの引用が組み合わされていることになります。

 このように複数の引用がされるのは、当時、救い主の到来を待ち望んでいた人たちによって、預言者の言葉の中から、救い主の到来を示すメシア預言と呼ばれるものを集めた証言集が作られていたからだ、とも言われています。

 

 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 「あなたの道を準備させよう」というのは、救い主がやって来るための道がないということです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、救い主が来るために必要な道は、整っていないし、真っ直ぐになっていないということです。

 この罪にあふれた世の中、そしてわたしたち一人ひとりの救いのために、救い主に来て頂くための道が全く整っておらず、荒れ放題なのです。

 

 しかし、神は、救い主を遣わすと仰います。救い主が来ることが期待されている。救いを必要としている。しかしながら、救い主を迎える準備は、何ひとつできていない。

 そのような中、神は、備えのないところに、救い主を遣わすために、事前準備を行う使者をも、遣わしてくださるのです。

 

 聖書における「預言」とは、未来に起こることを予め告げるという意味よりも、神の御心、神の意志を告げるものです。

 どれほどの時が経とうと神の御心に変わりはありません。長い時間が経っても主の約束は、うやむやになることなく、実現に向けて備えがなされ、導かれていったのです。

 そして、かねて預言者を通して伝えられていたとおり、救い主を遣わすにあたり、その準備をする使者を遣わされました。それが洗礼者ヨハネです。

 洗礼者ヨハネは、救い主が来られる準備のために、荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。ヨハネのこの姿は、旧約の預言者エリヤと重なるものです(列王記下1:8)。

 2節の言葉はマラキ書からの引用だと言いましたが、マラキ書では、この引用された言葉の後に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(3:23)と書かれています。主の日が来る前に遣わされる預言者エリヤとして、洗礼者ヨハネは遣わされ、そして主の業がなされていったのです。

 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は、みなヨハネのもとに来て,罪を告白し,ヨルダン川で、彼から洗礼を受けました。神の御業に呼応して、すべてのところで動きが始まりました。 ヨハネは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。これは,悔い改めに対する罪の赦しが与えられたことをしるしづける洗礼です。

 洗礼は、あくまで清められたことを表すしるしです。悔い改めがなくても、洗礼を受ければ恵みがあるというものでは決してありません。洗礼は、まず悔い改めがあって、それに対して、神が罪の赦しを与えてくださったことを表すしるしなのです。罪の赦しは、洗礼という儀式が与えるのではなく、あくまでも神が与えてくださるものなのです。 

 ここで大切になってくるのは、悔い改めです。聖書における悔い改めとは、自分の歩み、自分の思いの方向を転換して、神の許に立ち返るということです。自分が神から離れてしまっていることに気づいて、神の方へと向き直ることが悔い改めです。自分の歩む先が、神へと向かっていないことに気づいて、神の方へ向き直り、神に向かって歩み出す、これが悔い改めです。

 ちなみに罪という言葉は、的外れを意味しています。自分の思いが神から外れており、神から離れていってしまうことを示しています。神様という大切な的、目標から外れていることに気がついて神様の許に立ち返る、これが悔い改めなのです。

 

 この悔い改めに対して、神は罪の赦しを与えてくださるのです。

 神が与えてくださるということも忘れてはいけない大切な点です。

 わたしたちが行う悔い改めは、完全なものでも、完璧なものでもありません。けれども、完全、完璧ではないが、神の許に立ち返りたい,神に従い、神と共に歩みたいと真実に願うならば、神は、罪の赦しを与えてくださるのです。そして、罪が洗い清められたことを表す洗礼を与えてくださるのです。

 完全な悔い改めではなかったとしても、罪が示されたとき、これまでの歩み、自分の思いの方向を転換して神の許に立ち返りたいと願うとき、神と共に生きていきたいと願うとき、神が、このわたしの罪を洗い清めてくださるのです。

 

 すべては、神の憐れみ、神の御業なのです。だからヨハネは、こう宣べ伝えます。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 履物のひもを解くというのは、奴隷がする仕事でした。ヨハネは自分の後から来るイエス キリストに対して、奴隷の仕事をする価値もないと言っているのです。

 ヨハネが行う洗礼は、神が与えてくださる罪の赦しを証しし、それをしるしづけるものです。

 しかし、イエス キリストが、授けてくださる洗礼は、聖霊により、まさしく罪の赦しそのものが与えられる洗礼なのです。その洗礼を与えるために,イエス キリストは、人となられ,命を捧げてくださったのです。

 ヨハネは、自分の務めは、キリストを指し示し、キリストと出会い、受け入れる道を備えることだと知っていました。 教会の業、わたしたちの業も、洗礼者ヨハネと同じです。教会での洗礼が、救うのではありません。また、わたしたちが優れているのでもありません。

 イエス キリストの御業が、救うのであり、イエス キリストご自身が救いなのです。そしてイエス キリストこそ、優れているのです。

 だから、わたしたちは真の救い主イエス キリストを指し示し、宣べ伝えるのです。悔い改めを求め、キリストと出会い、受け入れるための道の備えをするのです。

 

 そして、わたしたち自身が、常に悔い改め、キリストの許に立ち返り、キリストと共に生きるのです。この方の許にこそ、赦しがあり、恵みがあり、新しい命があるからです。

 

 エフェソの信徒への手紙1章7節にはこうあります。 

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ,罪を赦されました。

  これは、神の豊かな恵みによるものです。」