聖書の言葉を聴きながら

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マルコによる福音書 1:1

2020年12月27日(日) 主日礼拝  
聖書:マルコによる福音書 1:1(新共同訳)

 

 聖書は、キリスト以前の旧約とキリスト以後の新約からなっています。新約の冒頭には、四つの福音書が収められていて、マルコによる福音書は二番目に収められています。二番目ですが、今日、マルコによる福音書が一番最初に編纂された福音書だと考えられています。
 なぜマタイによる福音書が一番最初に置かれているのか。それは、マタイ福音書ユダヤ人に向けて書かれた福音書で、(旧約で)「言われていたことが実現するためであった」とか「言われていたことが実現した」という表現が何回も出てきます。それで旧約とのつながりで一番目に置かれたのではないかと思います。

 マルコによる福音書は冒頭「神の子イエス・キリストの福音の初め」という簡潔な表現で始まります。
 先程言いましたように、福音書という形式の最初の文書がマルコによる福音書です。イエス キリストの生涯を福音という視点で捉えた最初のものです。
 福音というのは「よい知らせ」という意味です。ですから「イエス・キリストの福音」というのは、「イエス キリストがもたらしてくださったよい知らせ」という意味です。

 この個人名として用いられる「イエス キリスト」という名前ですが、これは名字と名前ではありません。当時、多くの人は名字を持たず、住んでいた土地の名前と合わせて「ナザレのイエス」つまりナザレ村に住んでいるイエスであるとか、父の名前と合わせて「アブラハムの子 イサク」だとか「エッサイの子 ダビデ」というように呼ばれていました。

 キリストというのは、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したもので「油注がれた者」という意味です。
 油を注ぐというのは、神の務めに聖別し任命することを表します。王や祭司を任職するときに油が注がれました。それがイエスがお生まれになった時代には、神が最後に遣わされる「救い主」を表す言葉として使われていました。ですからイエス キリストというのは、「イエスは救い主です」という信仰告白の表現でした。

 新約で最初に書かれたのは(ローマの信徒への手紙など)手紙・書簡ですが、最初のものは紀元50年前後に書かれたものであろうと考えられています。イエスの十字架と復活は、紀元30年頃ですから、その20年後ぐらいに書かれ始めました。その最初期に書かれたと考えられる手紙には「イエス・キリスト」という表現が何度も出てきます。紀元50年頃には、キリスト者の間で「イエス・キリスト」という言い方が定着していたことが分かります。
 ちなみにマルコによる福音書が書かれたのは紀元70年前後と考えられています。福音書が編纂されるようになった主な理由としては、イエスを直接知っている、イエスの話を直に聞いた、イエスの業を見ていた弟子たちが、地上の生涯を終えて天に召されていったからです。救い主イエスの言葉と業が、うろ覚えになったり、いい加減になったりしないように、イエスを直接知っている者たちの証言をまとめておこうとなっていったと考えられています。

 今日、マルコによる福音書の編集者が誰かは分からない、とされていますが、伝統に従ってここではマルコと呼んでおきたいと思います。
 マルコが、イエスがキリスト=救い主であると信じる主にある兄弟姉妹たちのために、またまだイエスを知らない人たちに「イエス キリストがもたらしてくださったよい知らせは、これです」とまとめたものが、マルコによる福音書です。
 その中身は「救い主が来られた。救い主が救いの御業を成し遂げられた。救い主はナザレのイエス。イエスが語られた言葉、なされた業はこれ。イエスは十字架にお掛かりになり、復活された」というものです。つまり、イエス キリストの福音=よい知らせというのは、イエス キリストご自身なのです。そしてマルコによる福音書は、イエスが救い主として歩み出されたところ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるところから始めます。

 そしてマルコは「イエス・キリストの福音の初め」と言って福音書を書き始めます。何が福音の初めなのか。それは、洗礼から十字架、そして復活に至る救い主の生涯こそが福音の初め、始まりなのです。ですから 1:1の言葉は、このマルコによる福音書全体の表題なのです。イエス キリストからよい知らせは始まったのです。そして、それは今に至るまで続いています。イエスが救い主=キリストであると信じて、救いに入れられ、永遠の命に与る神の子が起こされています。そしてこれからも続きます。救いの完成する日まで続いていきます。そしてその日まで、マルコによる福音書は読まれ、語られ続けるのです。

 マルコによる福音書が編纂されたことは、大きな神の恵みです。マルコによる福音書ができたことから、マタイによる福音書ルカによる福音書が編纂されました。そしてヨハネによる福音書も。わたしたちは、福音書を通してイエス キリストに出会い、イエス キリストを知ります。会ったことがなくても、声を聞いたことがなくても、イエスがキリスト=救い主であると信じるほどに出会い、知ることができます。聖霊なる神が働いてくださり、「イエスは主である」と告白させてくださることを経験します(1コリント 12:3)。
 マルコによる福音書は、聖書の他の文書と共に神の言葉です。今も生きて働く神の言葉です。

 1:1には「神の子」という言葉が最初にあります。注の付いている聖書や、注解書を見ると、「神の子」という言葉は「最古の有力な写本の一つには欠けており・・後代に付加された可能性がある」といったことが記されています。これは、マルコが書き上げたマルコによる福音書の原本こそ本物のマルコによる福音書という錯覚があるのではないかと思います。
 マルコによる福音書は誰か一人の手によって書かれたのではなく、語り継がれてきたイエスが語られたこと、イエスがなされた業が福音書という文書に編纂されていきました。最初は繰り返し語られる口伝でした。先に言いましたように、マルコによる福音書が形を取ったのは紀元70年前後と思われます。イエスが十字架に掛かり、復活されたのが30年頃、では最初の福音書ができるまでの間、どのようにしてキリストの福音は伝えられたのでしょうか。それは弟子たちの証しであり、その証しを聞いた人たちの口伝なのです。そして文書になったものは、信じる者たち、つまり教会によって保存され、伝えられていきました。そしてそれを導かれたのは、イエス キリストをわたしたちに与えてくださった神ご自身です。誰よりも神ご自身がイエス キリストを伝えたいと願っておられるので、二千年の時を超えて、イエス キリストは伝えられてきました。

 聖書学の学問的研究は、大切なものだと思います。多くの益をもたらし、説教に影響を与えてきました。しかし、時を超えてイエス キリストを伝えてくださる神の御業の前に身を低くする謙遜さは必要です。
 「神の子」という表現は、後代の付加かもしれません。それも含めて神の導きであるとわたしは考えています。
 わたしは、古代のキリスト者たちが自分たちのシンボルとして魚のマークを秘かに用いていたその影響があるかもしれないと考えます。公にキリスト者であることを言えない迫害の時代に、地面に魚のマークを書いて自分がキリスト者であることを伝えていたと言われています。ギリシャ語で「イエス キリスト 神の 子 救い主」の頭文字をつなげると、イクテュス(ギリシャ語で魚)という単語になります。そこから魚のマークが使われたのですが、そこにある「イエス キリストは神の子」という信仰が影響を与えたのかもしれません。
 わたしは、この「神の子」という表現には、迫害という悪い状況の中でも信仰を持ち続けたキリスト者たちに対する、神の祝福が込められているのかもしれないと思うのです。

 今年は、新型コロナウィルスによる感染症 COVID-19に対する配慮から、主日礼拝への出席を控えて頂くようお願いし、教会の集会の多くを休みとするという教会にとって異常とも言える事態を経験しました。その影響は今も続いています。けれど、どんなに悪い状態が続いているように見えても、その事も含めて、ひとり子を遣わすほどにわたしたちの救いを願っておられる神が導いておられます。イエス キリストの到来により「神の子イエス・キリストの福音の初め」は始まり、今も続いています。教会が礼拝を中断しようと、集会を中断しようと、神の救いの御業は中断されません。誰も、何物も神の御業を妨げることはできません。そして神は、わたしたちを新しい年へと導いていってくださいます。
 神が始めてくださった「神の子イエス・キリストの福音の初め」は、今もわたしたちを包み、救いの完成へ、神の国へと導いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 御言葉を通して、時を貫いてなされるあなたの救いの御業を思うことができましたことを感謝します。様々な出来事があったこの年の終わりに、今もあなたの救いの御業がわたしたちを包み、導いていてくださることを覚えることができますように。あなたにある希望を持って、委ねて新しい年へと歩み出させてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン