聖書の言葉を聴きながら

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「キリストの復活」(マルコによる福音書16:1~8)

 「キリストの復活」

 

 2022年4月17日(日) 

聖書箇所:マルコによる福音書 16章1節~8節

 

 きょうは復活節、イースターです。イエス キリストの復活を記念する日です。歴史的には、本来土曜日だった礼拝が、キリストが復活された日曜日にも集会をしている中で、日曜日の礼拝になってきました。ですから、毎週の礼拝もキリストの復活を記念して行われています。けれど復活節は、聖霊降臨節と並んで最も古くから覚えられ祝われてきた祝日です。今年はマルコによる福音書からご一緒に聞いてまいります。

 

 イエスが十字架に掛けられたのは、金曜日のことでした。金曜日の午後3時にイエスは息を引き取られました(15:37)。当時一日は日没から日没までとされていたので、日没を迎えると金曜日は終わり土曜日、つまり安息日になります。安息日には「いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト 20:10)と十戒で命じられていますから、この日の夕方15章43節~47節に記されているように,アリマタヤのヨセフという人がピラトにイエスの遺体の引き取りを願い出て(15:43)、墓に埋葬し(15:46)、イエスに付き従ってきた女性たちがこれを見届けました(15:47)。

 

 安息日は、今で言う土曜日の日没で終わりました。イエスの埋葬は、安息日になる前に慌ただしく行われたので、亜麻布で包んだだけでした。そこで女性たちは、イエスを丁寧に葬るために安息日が終わるとよい香りのする香料を買い求めました。そして週の初めの日、つまり日曜日の早朝、日の出の頃、墓に向かいました。週の初めの日とは、天地創造のとき、神が「光あれ」と言って創造を始められた日です。

 

 今、イエスが救いの業を成し遂げられて、新たなる創造の業がなされようとしていますが、女性たちはそれを知りません。彼女たちが思っているのは、自分たちでは動かすことのできない墓の入り口を塞ぐ大きな石を誰が転がしてくれるだろうか、ということでした。しかし、墓まで来て、目を上げて見ると、石は既に転がしてありました。

 生きているものの世界と死の世界とを隔てる大きな石が取り除かれたのです。

 今、キリストの復活により、新しい命の道が開かれたのです。

 

 彼女たちは墓の中に入ります。彼女たちは、イエスの遺体に香料を塗るために来たのですから、墓の中に入ります。すると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚きました。

 

 この若者は言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」この若者は御使い、天使です。天使によって、イエスの復活が告げられます。

 彼女たちは死んだ者の世界の中にイエスを探していました。しかし、イエスはもうそこにはおられないのです。イエスは復活して、死んだ者の世界に命の道を開かれました。

 墓穴を塞ぎ、闇の中に閉じ込めるその大きな石を取り除き、命の光が差す新しい命の道を開かれました。

 

 天使はさらに語ります。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 

 イエスは、最後の晩餐の後、ゲツセマネの園に行く途中で「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(14:28)と言われていました。なぜ復活のイエスガリラヤへ行かれたのでしょうか。

 それは、イエスの救い主としての活動がガリラヤから始まったからです。そして弟子たちもガリラヤでイエスに召されました。

 

 イエスが逮捕された場面14章50節で、聖書はこう記しています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」

 イエスは弟子たちをガリラヤに招き、新たに十字架と復活の信仰を持って、もう一度信仰の歩みをなさせてくださるのです。自分の信仰に頼るのではなく、イエス キリストの十字架と復活に依り頼んで新しく歩み出させて頂くのです。

 特にイエスを三度知らないと言ったペテロは、わざわざ名を挙げて伝えなさいと言われています。ペテロの信仰が失われてしまわないように、彼はこの知らせを聞かねばなりませんでした。

 これは、わたしたちも同じです。礼拝ごとに招かれ、立ち帰って、新たにキリストの十字架と復活に依り頼んで、何度でも信仰を新しく歩み出させて頂くのです。

 わたしたちの真実な救い主は、いつもわたしたちを招いていてくださいます。

 

 しかし女性たちは、おののき恐れながら、墓から出て逃げ去りました。そして、人には何も言いませんでした。恐ろしかったからである、と聖書は伝えています。

 

 復活は信じがたい出来事でした。昔の人は迷信深いから信じられたというのではありません。昔の人も信じられませんでした。自分たちの思いを超える出来事だったので、恐ろしくて、恐れおののきながら逃げ出さずにはいられない出来事でした。自分たちの経験したことを誰にも話せないほど、恐ろしいことでした。

 

 マルコによる福音書によれば、イエスは事前に三度ご自分の十字架と復活について教えておられます。8章31節と9章31節、そして10章33節, 34節です。聞いてはいたけれども、理解できない、受け入れられない、それが復活です。

 慕っている者の心の中に復活したとか、幻を見たというのではありません。イエスを慕う者たちでも信じられない、恐ろしい出来事が起こったのです。人間の理性、人間の力を超える神の御業が起こったのです。

 

 

 現代では、元々マルコによる福音書は 16章8節 で終わっていたと考えられています。この新共同訳訳聖書でも、9節から最後まで〔〕でくくっています。昔は手書きで書き写されて、読まれていったわけですが、書き写す中で、終わり方が不自然だと思った人たちが 9節以下を書き加えたと考えられています。

 

 確かに 8節で終わると不自然な感じがします。原文の最後の単語は「なぜなら」という意味の単語です。元々は文章が続いていたけれども、紛失してしまったと考えられています。しかし、繰り返し読んでいくと、この不自然な終わり方がマルコによる福音書の編者の意図に適っているように思えてきました。

 

 女性たちは、人には何も言いませんでした。すぐには言いませんでした。ですが、語り始めます。こうして福音書が記され、イエス キリストが今に伝えられているのがその証しです。

 女性たちは語り出すまで、何度も何度も墓での出来事、イエスが教えられたこと、なされたことを思い返したことでしょう。そして、自分たちの理解を超えるイエス キリストへの信仰に導かれていったのです。

 

 マルコによる福音書は、この終わり方で、天使が弟子たちをガリラヤへ招いたように、わたしたちを福音書の最初に招いているように思います。

 女性たちが何度も自分たちの体験を思い返したように、そして信仰へと導かれ語り出したように、福音書を読んだ人たちが、もう一度最初に戻って読み直し、何度でもイエス キリストを思い巡らして、信仰に導かれることを願って、このような終わり方をしたのではないかと思えるようになりました。

 

 聖書は、イエス キリストが十字架で死んで、三日目に復活したと言っている、というような情報としての知識であれば、1回読めば、いや読まなくても誰かから「そうらしいよ」という話を聞けば十分です。

 しかし、わたしたち罪人は、神の御業を信じられないのです。キリストの復活を既に信じているようであっても、実は信じられないのです。

 自らの死を前にしても、主の復活によって命の道が開かれていると信じられるようになるには、聖書の御言葉を何度も何度も思い巡らし、イエス キリストご自身に繰り返し出会って、信仰へと招かれ、導かれることが必要なのです。

 

 マルコによる福音書はイエス キリストへの招きの書です。

 冒頭に書かれているように「神の子イエス キリストの福音のはじめ」です。

 イエス キリストによってよき知らせが始まり、今に至っています。

 救い主イエス キリストに出会って、キリストの救い、その十字架と復活を信じられるようにと、キリストへと招き続ける神の言葉なのです。

 

 

 この福音書を通して、イエス キリストに出会い、信仰に導かれ、共に救いに与っていくことができますように。