聖書の言葉を聴きながら

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エペソ人への手紙 3:16〜19

2017年6月25日(日)主日礼拝  休暇のため説教原稿を長老が代読

聖書箇所:エペソ人への手紙 3:16〜19(口語訳)

 

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ人への手紙 3章16-19節)

 

 イエス キリストは、復活の後40日にわたって使徒たちに神の国について話されました(使徒行伝 1章3節)。そして、使徒たちの見ている前で天に上げられました(使徒行伝 1章9節)。これをキリストの昇天と言います。
 なぜイエスは天に上げられたのでしょうか。イエスがキリスト(救い主)であることを人々に知らせるには、復活したイエスがその姿を現し、イエスを憎む者の陰謀も死の力もイエスを滅ぼすことはできないということを明らかにするのが一番ではないでしょうか。
 しかし、それは愚かな考えであることに気づかされました。この世に人としているということは、時間と空間の限定を受けるということです。簡単に言うと、例えばわたしがある時間に新宮にいるということは、同じ時間に大阪にはいないということです。ある日曜日に新宮教会で礼拝しているということは、他の教会にわたしはいないということです。イエスが人としてこの世におられるとき、ある所である人たちと一緒にいるということは、別の場所にいる別の人たちとは一緒にいられないということなのです。しかし、イエスはすべての弟子たちといつも共にいることを願い、約束されたのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書 28章20節)
 そのためにイエスは、人としては天に昇られ、聖霊によってわたしたちと常に共にいるようにされたのです。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネによる福音書14章16−18節)これによって、イエスは時間と空間の制約を受けることなく聖霊において世界中のすべての弟子と共におられるのです。だからイエスはこうも言っておられます。「わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」(ヨハネによる福音書 16章7節)イエスは、すべての弟子たちといつも共にいるために天に昇られたのです。
 そして天に昇られたイエスは、神の国にあって今もなおわたしたちのために神に執り成しをし続けていてくださいます。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ人への手紙 8章34節)
 この今もなされているイエスの執り成しによって、わたしたちは神の国に住まいを得ているのです。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14章2−3節)
 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方のもとへと続く人生を生きているのです。
 
 イエス キリストの昇天は、ただこの世を離れて神の国に戻られたというのではなく、天に上げられるということを通して、常にわたしたちと共に生き、わたしたちを神の国へと導く救いの御業なのです。
 
 さて、聖霊なる神は、わたしたちを救い主イエス キリストに結び合わせ、キリストの命、キリストのすべてでわたしたちを満たすために遣わされました。聖霊なる神によってイエス キリストと一つにされたわたしたちは、もはや何ものによっても支配されることはありません。イエス キリストで満たされている今は、死もわたしたちを支配することはできなくなったのです。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙 8章38, 39節)
 
 また聖霊は、イエス キリストからわたしたちへという方向で恵みを与えるだけでなく、わたしたちからイエス キリストへ、そして父なる神へと結び付けてくださいます。
「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ人への手紙 8章26節)
 わたしたちの弱さを知って、聖霊なる神ご自身がわたしたちのために執り成してくださるのです。聖霊なる神によって、神の愛がわたしたちへと注がれ、わたしたちの祈りにならない思いが神へと執り成されているのです。
 
 例えて言うなら、聖霊なる神は命を支える息のようなお方です。息をしているとき、わたしたちは生きています。そして息をしているとき、目に見える肉体と目に見えない心とが一つに結び合わされて、わたしという一つの存在、一つの命として生きています。聖霊なる神が働かれるとき、目に見えるわたしたちと目で見ることのできないイエス キリストが一つに結び合わされて、わたしたちはキリストの復活の命に生きる新しい存在とされているのです。
 実は、旧約が書かれたヘブライ語で「霊」を表す言葉(ルーアッハ)は、「息」も表す言葉なのです。
 
 キリスト教の中心は「神と共に生きる命」です。神と共に生きるとき、命は滅びへ向かうことなく生きることができ、喜びをもって生きることができます。神と共に生きるとき、すべての命が神の愛の中で共に生きることができます。
 けれど、罪がわたしたちをこの恵みから引き離してしまいました。しかし、父なる神は罪を抱えてしまったわたしたちの救いを決意されたのです。そして、子なる神(父の独り子)イエス キリストによって罪の贖いの業がなされました。その神の救いの御業、死を打ち破って復活されたイエス キリストの命の恵みに、聖霊なる神が与らせてくださるのです。キリストと一つに結び合わせ、キリストを通して父なる神と結び合わせてくださいます。父・子・聖霊の三位一体の神の恵みに包まれて、わたしたちは神と共に生きるものとされ、本当の命の喜びを味わうものとされているのです。

ハレルヤ