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  「死んで葬られ、陰府にくだり」(ルカによる福音書23:50~56)

  「死んで葬られ、陰府にくだり」

 

 2022年3月20日(日) 受難節第3主日 

聖書箇所:ルカによる福音書 23章50節~56節

 

 イエスは十字架においてご自身の命を献げ、地上の生涯を終えられました。

 

 ここでアリマタヤのヨセフという人物が登場します。彼は、アリマタヤという町の出身で、ユダヤの最高議会サンヘドリンの議員でした。彼は、善良で正しい人であり、神の国を待ち望んでいました。

 

 彼は、突然イエスの埋葬の場面で登場しますが、四つの福音書すべてに登場します。マタイによる福音書27章57節では、彼は金持ちで、イエスの弟子であったと記されています。マルコによる福音書15章43節では、彼は身分の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であったと書かれています。ヨハネによる福音書19章38節では、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していたと記されています。

 

 ここで初めて登場する人物ですが、マタイ、ヨハネの証言から、イエスの弟子であったようです。ただし、ヨハネが記しているように、ユダヤ人を恐れて、密かに弟子になりました。そしてルカの記述を見ると、彼は議会の議決や行動に賛成していませんでした。しかし、みんなの前でイエスの弟子となったことを明らかにし、議会の議決に反対を表明することはできませんでした。

 

 それなのに、ヨセフはピラトのところへ行って、イエスの遺体の引き取りを願い出ました。マルコによる福音書によれば「勇気を出してピラトのところへ行き」と書かれています。

 

 なぜ彼は願い出たのでしょうか。

 

  この日は過越祭の前日、準備の日でした。時は3時を過ぎていましたから、間もなく日没を迎えます。ユダヤでは日没から一日が始まりますから、もうすぐ安息日、しかも過越の祭が始まります。彼が決断しないと、エレミヤ書26章23節に記されているように、イエスの遺体はおそらく共同墓地に捨てられてしまいます。彼は墓地を持っていました。しかも、まだ使っていない墓地を持っていました。彼は決断します。「同僚の議員たちに、イエスの弟子であることが分かってもかまわない。どう思われようとも、自分がイエスの遺体を引き取らねばならない。」

 

 人は遅いと思うかもしれません。十字架に掛かる前に「自分はみんなの考えに反対だ」と言うべきだったと思うかもしれません。ヨセフ自身もそう思ったかもしれません。けれど、十字架は神の御心であり、イエスの決断でした。ヨハネによる福音書10章17~18節でイエスは言われました。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」キリストの十字架は、ヨセフがイエスの弁護をしたから避けることのできるというものではありませんでした。

 

 実は、四つの福音書すべてがアリマタヤのヨセフのことを記していますように、彼はイエスの埋葬のために神が備えられた器だったのです。それこそが彼が担わないといけない務めでした。

 

 彼が遺体を引き取ったことによって、イエスが確かに死んで葬られたことが明らかになりました。イエスと一緒にガリラヤから来た女たちは、後について来て、その墓を見、イエスの体が納められる様子を見届け、証人となりました。

 

 まだ誰も葬ったことのない新しい墓。そこにきれいな亜麻布に包まれ、ただ一人葬られました。そして入り口は石が転がされて塞がれました。

 

 わたしたちが毎週告白する「日本キリスト教会信仰の告白」の後半、使徒信条では「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し」と告白されています。アリマタヤのヨセフはこの「死んで葬られ、陰府にくだり」というキリストの御業に仕えるために、神によって備えられた器なのです。

 

 

 この使徒信条が告白する「死んで葬られ、陰府にくだり」について、聖書はペテロの手紙1 3章18~19章 でこう語っています。キリストは「肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」キリストは陰府にくだって福音を宣べ伝えられたのです。

 

 こうしてイエス キリストは、母の胎から陰府に至るまで、人が存在するすべての場所に救い主として存在し、すべての人に救いをもたらす真実の救い主となってくださったのです。

 

 人はいろいろな理屈を考えます。母の胎にあってまだ信仰を持たずに天に召された子どもは救われるのか。信仰を持たずに死んでしまった人はもう救われないのか。

 

 救われるかどうかは、神がお決めになることです。この神がお決めになることについて、わたしたちが勝手に救われる、救われないと言うべきではありません。わたしたちがすべきことはその人の救いを願って神に執り成し祈ることです。

 

 

 神がわたしたちに聖書を通してお示しくださっていることは、神は母の胎に救い主をお遣わしになった。キリストは陰府にまでくだって福音を宣べ伝えられた。テモテへの手紙一2章4節では「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。そして、6節では「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」。キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物」です。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」なのですとヨハネの手紙一の2章2節に書かれています。

 

 この母の胎に来られ、救い主としてわたしたちの罪を負い、十字架で命を献げ、陰府にまでくだられたイエス キリストの前で、「この人は救われない」とあきらめなければならない人は、一人もいないのです。

 

 アリマタヤのヨセフは、単に十字架から復活にいたるつなぎの場面で登場しただけの人物ではありません。彼は神に備えられたのです。キリストが、死んで、葬られ、陰府にくだるために、神によって備えられ、用いられたのです。

 

 

 わたしたち一人ひとりも彼と同じです。人間的には、ああすべきだった、こうすべきだったと反省することが限りなくあります。しかし、わたしたちは御言葉によってこう教えられています。ローマの信徒への手紙8章28節にはこうあります「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」。神がちゃんとわたしたちを用いてくださいます。だからわたしたちは、恐れずに神に従い、仕えるのです。神が救いの御業をなしてくださると信じて、仕えるのです。わたしたちは、わたしたちの思いをはるかに超えて救いの御業をなしてくださる神の御手にすべてを委ねるのです。そして「主よ、お用いください。御業をなしてください」と祈るのです。

 

 

 旧約の詩人は詩編103編10節~13節でこう告白しています。

 

「主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。

 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。

 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」

 

 

 わたしたちの命を造り、わたしたちを愛し、わたしたちを救われる神にすべてを委ねましょう。そこにこそ、わたしたちの生きる道、救いに至る道があるのです。