聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

マルコによる福音書 15:33〜41

2018年3月25日(日)主日礼拝
聖書箇所:マルコによる福音書 15:33~41(口語訳)

 

 今週は受難週です。イエス キリストの受難、十字架を思い巡らし、覚えるときです。今年はマルコによる福音書からご一緒に聞いてまいります。

 イエスは十字架に付けられました。それは朝の9時でした。そして昼の12時になると、全地は暗くなって、3時になりました。
 過越の祭の時期は満月ですので、日食ではありません。これは「しるし」です。イエスはご自分のことを「世の光」(ヨハネ 8:12)と言われました。世の光であるイエスを拒絶し、十字架に付け、死に至らしめようとしていることがどういうことなのかを示すしるしなのです。イエス キリストを失うことは、生きる光を失うことなのです。多くの人はそのことに気づいていません。信仰を持っている者でさえ気づいていません。お分かりのとおり、イエスを十字架に付けようとした人々、イエスを嘲る人々は旧約の民であり、信仰ある人々です。多くの人は気づかぬまま、キリストがいなくても毎日生きていけるように思っています。そして死という抗うことのできない虚無に飲み込まれていくのです。
 この3時間に及ぶ闇が、罪がもたらすものを示しています。

 そして3時に、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。アラム語というのは、ヘブライ語と近い言葉で、当時のユダヤ人が話していた言葉です。
 側に立ってイエスの言葉を聞いていた人々が「エリヤを呼んでいる」と声を上げます。エリヤは旧約を代表する預言者です。聖書は彼を死んだとは言わず「火の戦車が火の馬に引かれて現れ・・エリヤは嵐の中を天に上って行った」(列王記下 2:11)と言い、預言者マラキは「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ 4:5)と言っています。それで人々は、エリヤが再び来ると信じていたので、イエスがエリヤを呼んでいると勘違いしたのです。

 しかしイエスが叫ばれたのは、わたしたちの罪を担い、わたしたちに代わって裁かれた贖罪の業が成し遂げられ、ご自身が神に裁かれ、神に捨てられたことを宣言されたのです。
 罪がもたらす神の裁きは、神がおられない、ということです。神がお語りになる大切なメッセージの一つは「わたしはあなたと共にいる」ということです。しかし罪は、神と違う善悪によって神から離れていきます。罪は神から離れます。神のいないところへと導きます。そして、祈っても神に届かない神のいない世界へと至らせるのです。それは完全な孤独の世界です。家族も弟子たちも誰も一緒にいない、そして祈りを聞いてくださる神さえもいない世界です。
 イエスのこの叫びは、神の子であり、神と共に歩まれた方が、わたしたちの罪を負われ、わたしたちに代わって裁かれ、捨てられて、贖いを成し遂げられたことの宣言の叫びです。

 36節は少し分かりづらい文章です。酸いぶどう酒を飲ませようとした人がいたのに、それを止めたような印象を受ける分掌です。ここは新共同訳の方が分かりやすいので、見てみましょう。36節(新共同訳)「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。」つまり、すぐに息を引き取らないように酸いぶどう酒を飲ませようとしたというのです。
 しかし、イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られました。
 そのとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この神殿の幕というのは、聖所と至聖所とを分かつ幕です。至聖所というのは、聖所の奥にある部屋で、1年に1度贖罪の日に大祭司が贖罪の儀式を行うために入る部屋です。ここで行われる贖罪の儀式は、この1年、贖われなかった罪を贖うためのものです。そして聖所と至聖所を分かつ幕が掛けられていました。それが裂けたというのは、キリストの十字架によって、完全な贖罪が成し遂げられ、もはや贖罪の儀式を行う必要がなくなったことを示します。
 ヘブル人への手紙9章にはこんな風に書かれています。「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。・・しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル 9:7, 8, 11, 12)つまり、神殿の幕が裂けたのは、罪の贖いが完全に成し遂げられた「しるし」なのです。

 この十字架のローマ側の責任者が、百卒長と呼ばれる100人の兵を率いる百人隊長でした。彼は刑執行の責任者として、イエスに向かって立っていました。彼はイエスを刑場に引き出し、十字架の最初から最後まで見ていました。その彼がイエスが息を引き取られたのを見て「まことに、この人は神の子であった」と言いました。
 おそらく彼はきょう初めてイエスを見たのではないかと思います。おそらく彼は、イエスの話を聞いたこともありません。イエスを求めていたわけでもありません。彼は自分の職務としてイエスの側近くにおり、十字架を見届けました。彼はイエスの十字架の最も重要な証人、証し人です。イエスの十字架を最初から最後まで、最も近いところで見届けました。そして、彼は「まことに、この人は神の子であった」と告白する信仰へと導かれました。
 信仰の中心にはキリストの十字架が立っているのです。聖書を全部理解してなくても、信仰には至るのです。しかし、キリストの十字架を知らずして信仰を持つことはできません。

 この出来事もまた大切な「しるし」です。それは、イエスの十字架によって信仰を告白したのが、異邦人であるということです。異邦人は、旧約を知りません。神の子という言葉の聖書的な意味も知りません。しかしそれでも、イエスの十字架と出会うとき、信仰が与えられるのです。旧約の神の民がさげすむ異邦人、信仰から最も遠いと思われる異邦人、しかもローマの命令によってイエスを十字架に付けた異邦人が、最初の信仰告白者となったのです。

 次に遠くの方から見ていた女性たちがいます。彼女たちは、イエスに従い仕えてきた者たちです。彼女たちは十字架の証人であり、埋葬の証人であり(15:47)、復活の証人(16:1~7)です。十二弟子は男性でした。しかし、信仰の最も重要な証言は、女性たちに託されました。

 百卒長も女性たちも、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ 3:28)というキリストの福音の証しする証人です。
 わたしたちの思いを超えて、神は、神の御業から遠くにいると思われている者、神の務めには用いられないと思われている者をお用いになります。わたしたちがよく知る迫害者であった使徒パウロもその一人です。

 キリストの十字架は、神とわたしたちを和解させ、あらゆる隔ての中垣を取り除くよき知らせです。神のひとり子が人となって、救い主となってくださった奇跡の現れです。このキリストの十字架よらず救われた人は、一人もいません。わたしたち一人ひとりの信仰の中心には、この十字架のイエス キリストがおられるのです。それ故、わたしたちの信仰は十字架のイエス キリストを仰ぎ見ることが必要なのです。

 この受難週の1週間は、わたしたちの救いのために十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ見、思い巡らす大切な時なのです。キリストの十字架によって、自分自身の救いを知り、イエス キリストがわたしの救い主であることを確信し、喜び感謝する時なのです。

ハレルヤ