聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 23:13〜25

2018年4月15日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 23:13~25(口語訳)

 

 ユダヤ教エルサレムの指導者たち=ユダヤの最高法院の議員たちは、イエスを死刑にするため、ユダヤ属州総督のピラトにローマに対する反逆罪で訴えました。
 しかしピラトは、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」と判断します。けれどそれではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言いつのります。「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです。」ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけました。
 ヘロデはイエスを見て非常に喜びました。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと思っていましたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと思っていたからです。それで、いろいろと質問してみましたが、イエスは何もお答えになりませんでした。祭司長たちと律法学者たちはイエスを訴えましたが、ヘロデは兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえしてしまいました。ヘロデにとってエルサレムの祭司長や律法学者の期待に応えようなどという気持ちはありませんでした。
 さてピラトは、イエスが送り返されてきたので、イエスの件を処理しなくてはなりません。ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言います。
 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう。」
 ピラトは、イエスを訴えた指導者たちの顔を立てつつ、無実のイエスを鞭打って解放する妥協案を出しました。
 しかし、彼らはわめきたて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけました。
 ピラトは三度目に彼らにむかって言います。「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。
 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求したのです。
 これは皮肉なことです。彼らというのは、13節に出てくる「祭司長たちと役人たちと民衆」のことです。役人というのは、最高法院の議員を指します。神に導かれて歩んできたはずのユダヤ人たちが、イエスをどうしても殺そうとして、異邦人であるピラトが、イエスの無実を認め、何とかして赦そうとしているのです。この場面において、神の言葉に養われ導かれてきたはずのユダヤ人の信仰は全く役に立ちません。役に立たないどころか、神に敵対します。そして異邦人世界の知恵であるローマの法律が、イエスを救おうとしています。
 ここで信仰ある者たちは、神からの問いかけを受けます。あなたの信仰は、神に従い、神の御業に仕える信仰か、それとも、神に敵対し、神の導きを拒絶する信仰か。
 この場面において、この時のユダヤ人の信仰は、神に立ち帰ることも、神に従って新しく歩み出すことも求めていませんでした。彼らは、自分たちの願いをかなえてくれる神、自分たちの誇りを満たしてくれる神を求めていました。彼らが見ていたのは自分であって、神ではありませんでした。信じてはいても、信じている自分を見ているのであって、神を見てはいませんでした。

 そして、その彼らの声が勝ちました。ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定したのです。そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせました。
 彼らは「よし、やった」と思ったことでしょう。しかし、自分の意のままにというのが、まさに罪なのです。神の御心に従うのではなく、自分の意のままにというのが罪なのです。しかし、罪の中にいる者は、自分が罪を犯していることが分かりません。だから神は、悔い改めを求めるのです。罪から離れて、神へと立ち帰るのでなければ、罪は見えてこないのです。自分の願い、自分の願望、自分の信仰、そして自分自身からも離れて、神の御前に立ち帰るのです。信仰のあるわたしは、あの彼らの中の一人かもしれないと、問いかけながら考えながら、「主よ、御心をお示しください。僕はあなたに従います」と祈り求めていくのです。

 この場面は、とても悲しくなる場面です。そして自分もまた自分の信仰を見ているのではないか。自分も神が救い主を遣わされたとき、拒絶してしまう信仰なのではないかと、いろいろな不安を巻き起こし、そしてとても悲しい気持ちにさせられる場面です。

 聖書は、イエス キリストが「わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(1ヨハネ 2:2)と証ししています。イエス キリストは、自分自身を十字架につけろと叫んでいる者たちをも救うために十字架を負われました。
 この場面、自分の信仰は大丈夫だろうかと様々な不安に陥るわたしに対して、イエス キリストがそのあなたの罪をも負って十字架に付かれた。十字架に付けろと叫ぶ声を前にして、一言も発せず、その罪のすべてを負って、その罪を贖うために自らを差し出された。このイエス キリストが、このわたしを罪から救ってくださるのだ。自分の罪にさえ気づいていないこのわたしをもこの方が救ってくださるのだ。この方だけが、わたしを知っておられる。自分でさえ気づいていない罪をも知っていてくださり、その罪のすべてを贖うために、自らの命を献げてくださったことを、聖書は証しします。

 イエス キリストがわたしたちを罪から救ってくださいます。わたしの信仰が救うのではありません。イエス キリストだけがわたしたちを罪から救います。
 大切な教えを悟り、教えてくれる素晴らしい偉大な人物は歴史上何人もいます。しかし、わたしたちを罪から救い、死から永遠の命へと導いてくださるのは、イエス キリストただお一人なのです。
 だからこそわたしたちは、聖書が言うように、イエス キリストを誇りとし(1コリント 1:31)、イエス キリストに望みを置いて生きていくのです。

 

ハレルヤ