聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 23:26〜31

2018年4月29日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 23:26~31(口語訳)

 

 イエスは十字架に付けられるために処刑場へ引き立てられて行きます。
 十字架に付けられる犯罪者は、自分で自分の十字架を運びます。しかしイエスには、もう十字架を運ぶだけの体力がありません。イエスを連れて行く兵卒たちは、途中過越祭のために郊外から出てきたシモンというクレネ人を捕らえて十字架を負わせました。
 クレネというのは、エジプトの西の海岸にあるギリシャの植民地だと言われています(新共同訳聖書 聖書辞典、新教出版社)。当時、多くのギリシャ語を話すユダヤ人が暮らしていたと考えられています。この福音書の編纂者であるルカが、福音書に続いて編纂した使徒行伝にもクレネ人という言葉が出てきます(6:9, 11:20, 13:1)。
 ここでシモンという名前まで出ているのは、彼が後にキリスト者となり、教会でよく知られるようになった可能性が考えられます。マルコによる福音書の同じ記事では、シモンの二人の息子の名前も記されています。何が用いられ、キリストと出会い、信仰に導かれるかは、人の思いを超える神の御業です。

 さて「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った」と聖書は記します。民衆というのは、ピラトに呼び集められ「その人を殺せ」「十字架につけよ」と叫んだ民衆だけではないように思います。「悲しみ嘆いてやまない女たちの群れ」というのは、イエスの呼びかけから分かるように、エルサレムの住人です。
 イエスの逮捕は夜中に行われ、夜明けと共に裁判が始まりました。夜の間の出来事は知らされず、夜が明けてから噂が広まっていったものと思われます。イエスが十字架に付けられたのが朝9時頃(マルコ 15:25)ですから、イエスが刑場にひかれて行ったのは8時ぐらいでしょうか。朝起きて、外に出ると、イエスの逮捕、処刑の噂が流れてきて、通りに出ていると、鞭打たれ(マルコ 15:15, マタイ 27:26)傷つき疲れたイエスが刑場へと引かれて行く光景を目にしたのではないでしょうか。特に女性たちは悲しみ嘆きました。そしてイエスに従っていったのです。
 ですから民衆が「その人を殺せ」「十字架につけよ」と叫んだとありますが、民衆すべてがそのようにしたのではないのだろうと思います。祭司長たちの命令で集められた者たちが扇動されて、そのように叫ぶ。けれどもその他にも大勢の人々がエルサレムにはおり、イエスが逮捕され処刑されるという話を聞いて、衝撃を受けた人も多数いたのだと思います。

 するとイエスは、女性たちの方を振り向かれます。ペテロが三度知らないと言った後で振り向かれたように、イエスは振り向かれます。そして語りかけられます。
 「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。」

 この後、エルサレムには裁きが臨みます。自分の愛する子どもが裁きに巻き込まれて苦しむのを悲しむ日が来る、だから「あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われているのです。「こんな苦しみを味わわせるために生んだわけではない」「『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る」と言われるのです。ヨハネによる福音書で言われているように「信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ 3:18)と書かれています。救い主であるイエスを拒絶した罪が、何をもたらしたのか知る日が来るのです。
 それは今生きているわたしたちも同じです。大変豊かな社会に生きていますから、神など信じなくても生きていける、と多くの人は感じています。けれどもキリストの福音が伝えられ、それに心開かず、神に背を向けて生きた結果、罪が何をもたらすのかを知る日が一人ひとり来るのです。必ずすべての人生に、この世では死が訪れます。その死に向かう中で、あるいは死に飲み込まれた後で、キリストの福音が何であったのか、なぜ救いが必要だと言われていたのか、そのことを知る日が来るのです。
 「そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。」つまり、もう死んだ方がましだと思える裁きに遭う日が来るのです。
 「もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。
 罪は周りを巻き込みます。十戒でも「わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし」(出エジプト 20:5)と言われています。神に従わない者が一家の長であったときに、神に従わなかった結果が子や孫を巻き込んでいくのです。ここにいる女性たちは、イエスが十字架に付けられるのを悲しみ嘆いてやまない女性たちです。彼女たちはイエスを拒絶していません。それでもエルサレムの指導者たちの罪に対する裁きに巻き込まれてしまう日が来るのです。
 イエスが山上の説教で「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ 5:9)と語られましたが、平和をつくり出すとは、裁きに巻き込まれ悲しむ人を生み出さないように仕えることです。
 ここで「生木」は、イエスとイエスに従う者たちです。「枯木」は、イエスを拒絶した者たちです。イエスご自身、そしてイエスに従う者たちも罪の裁きに巻き込まれていく。神と共に生きる者たちがそうであるならば、一体イエスを拒絶した者たち、枯れ木はどのようになるのであろうかという問いかけをイエスはされたのです。

 イエスが十字架に付けられたのが紀元30年頃と考えられています。それから40年経った紀元70年、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊されました。そしてユダヤ人は国を失った流浪の民となり、世界に散らされました。
 ユダヤ人たちは、既に一度、神の裁きによって国を失いました。かつて存在したイスラエル王国は、北と南に分裂し、北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに征服されました。そして南ユダ王国は紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされ、住民はバビロンに捕らえられていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。この国が滅びる歴史は、列王記、歴代誌に記されています。またその時代に立てられた預言者たちの書によっても伝えられています。ユダヤ人たちは誰もが神の裁きを知っています。けれど、知っているというだけの知識では再び裁きへと向かってしまいます。神と共に生きる生きた信仰が必要なのです。自分の知識や経験を絶対視しないで、何度でも繰り返し悔い改め、神に立ち帰り、神と共に新たに歩み出す生きた信仰が必要なのです。裁きや滅びに至る信仰ではなく、神の御前に悔い改めていく生きた信仰が必要なのです。

 神は、この神と共に生きる生きた信仰を育むために、主の日の礼拝を定めてくださいました。週ごとに悔い改め、神に立ち帰っていくのです。神の言葉によって、新たにされ続けていくのです。だから、どんなに素晴らしい信仰の書があっても、インターネットやテレビやラジオで聖書や神学の知識を学ぶことができても、神が建て給うキリストの教会に連なり、礼拝を献げていくのです。
 教会に来て、聖書や信仰の知識が増えても、それだけでは信仰は育ちません。聖霊なる神が働いて、信仰を新たにし、育んでくださることを祈り求め、神と共に生きる信仰を育んでくださることを祈り求めていく信仰が必要です。礼拝と共に、一人ひとりが神を祈り求めることが、大切です。

 イエス キリストは、わたしたちが新しく生きることを願って、振り返ってくださいます。語りかけてくださいます。
 神と共に生きることを祈り求めましょう。悔い改めて、神に立ち帰ることを求めましょう。聖霊なる神が、わたしたちを新しくしてくださり、信仰から信仰へと生かしてくださることを求めていきましょう。神は、わたしたちの救いを、世界の救いを願っていてくださいます。

 

ハレルヤ