聖書の言葉を聴きながら

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「救いへと招き続けてくださる主」(ルカによる福音書22:47~53)

  「救いへと招き続けてくださる主」

 

 2021年11月14日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章47節〜53節

 


  イエスは、弟子たちとの最後の晩餐を終え、オリーブ山のいつもの場所に祈るために来られました。イエスは十字架を前にして、苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血の滴るようにポタポタと地に落ちるほど切に祈られました。イエスは弟子たちに共に祈るようにお求めになりましたが、弟子たちはイエスと思いを共にして、祈ることはできず、悲しみの果てに眠ってしまいました。

 そこへイエスを捕らえるために一団の人々がやって来ました。おそらくイエスを逮捕するために派遣された者たちと、イエスが逮捕されるというので集まった人たちがいたのでしょう。そしてその先頭にいたのは、十二弟子の一人、ユダでした。彼はイエスに接吻しようとして近づいてきました。

 そこでイエスは言われます。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか。」

 かつてエデンの園で、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは(創世記 3:8)「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」とあります。罪人は、神から隠れることができる、神に自分の罪を知られずにいることができると考えます。イエスは自分を裏切るユダに対して「わたしは裏切るあなたを知っている」と示されたのです。ユダは気づくべきでした。イエスは自分のことを知っておられた、それでもイエスは自分を弟子にして側に置いてくださった、主がわたしを招いていてくださることに気づくべきでした。しかし残念ながら、ユダは気づけませんでした。

 「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言って、そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落し」ました。ヨハネ 18:10では、切りつけたのはペトロであり、耳を切り落とされたのは大祭司の手下、マルコスであったと記しています。

 ルカ22:38を代読説教したときに申し上げましたが、ルカが剣と言っている言葉は「過越の子羊を屠り解体するための小刀」であるという理解があります。この場面でも、ペトロは漁師であって、剣の扱いに慣れた兵士ではありません。剣を振り回してたまたま耳だけを切り落としたと言うよりも、小羊の解体などで使い慣れている小刀で切りつけたという方が、合点がいきます。

 イエスは弟子のこの行為に対して「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、その耳に触れていやされました。

 それから、押し寄せてきた祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

 罪に支配されているとき、人は自分が何をしているのか、それがどうなるのか理解することができなくなります。丁度、暗闇の中にいるように、自分でも見えないし、周りからも見えないと思ってしまいます。

 しかし、イエスの言葉は、彼らがみんなの前で堂々とすることのできないことを、今闇に紛れてしていることを指摘します。

 ルカがこの場面で示そうとしていることは、イエスの前に立ち、イエスの言葉を聞くとき、人が今何をしようとしているのか、どんな状態にあるのかが明らかになるということです。

 人が自分の顔を見るためには、鏡に映さないと見えないように、自分自身を知るためには、キリストの前に立って、神の言葉を聞かなくてはなりません。

 イエスは、自分を裏切ったユダに対しても語りかけられます。自分を逮捕し殺そうとしている祭司長、神殿守衛長、長老、に対しても語りかけられます。イエスの言葉は、悔い改めへの招き、救いへの招きなのです。今の自分自身がどんな状態なのかを示し、何に導かれ、どこへと向かっているのかを示しているのです。そして自分を滅ぼす道を行くのではなく、悔い改めて神へと立ち帰り、救いに与るようにと導く、招きの言葉をイエスは語っておられるのです。

 ルカはただ起こった出来事を記しているのではありません。イエス キリストこそ救い主であることを告げようとしています。裏切る者・殺そうとする者にも語りかけ、救いへと導こうとされるイエス キリストによって、今もわたしたち一人ひとりに救いが差し出され、救いへと招かれていることを告げようとしているのです。

 教会の内でも外でも、二千年にわたって、ユダがなぜ裏切ったのかが問われ続けています。しかし不思議なほどに、聖書はユダの裏切りの理由についてほとんど語りません。この場面でも、ルカが記すのは、イエスは自分を裏切った者、自分を殺そうとする者にも語りかけ、救いへと招かれる、そしてその者たちのためにもイエスは十字架を負われたということです。

 おそらくわたしたちの多くも、なぜユダは裏切ったのかということに関心を抱いているでしょう。けれども、聖書はそこを指し示すのではなく、イエス キリストが裏切った者、殺そうとして捕らえに来た者にも語りかけ救いへと招かれたということを語ります。

 わたしたちも罪の世で歩む中で、自分の弱さや愚かさ、罪深さに失望することがあるでしょう。けれども、イエスはそのあなたを知っておられます。そしてイエスが「わたしに従ってきなさい」と招かれているのです。あなたは自分に、この世界に失望しているかもしれない。しかし今このときでさえ、イエスはあなたに語りかけられ、招かれておられる。イエスはあなたのことを見捨てることもないし、見放すこともない。この方があなたの救い主なのだ、と聖書は告げているのです。ですから、わたしたちもこの場面を読むときに、なぜユダが裏切ったのか、ということに囚われてしまうのではなく、聖書が指し示しているイエス キリストにこそ目を向けていかなければなりません。そしてイエス キリストに出会い、その言葉が自分に向けて語られた言葉なのだと聞くとき、わたしたちは今この所からキリストに導かれて、救いへと招き入れられるのです。

 聖書は告げます。(ローマ 5:8)「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」 

 神は今も、イエス キリストを通してわたしたち一人ひとりを救いへと招き続けていてくださるのです。

 

祈り

 主イエスキリストの父なる神様、罪あるわたしたちにもかかわらず、あなたはわたしたちを悔い改めへと導き、救いの中に入れてくださることを感謝いたします。どうぞ、聖書のこの言葉が今のわたしたちに向けられた救いの招きの言葉であることを深く憶えさせてください。主イエスキリストの御名によって祈ります.