聖書の言葉を聴きながら

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「祈りなさい」(ルカによる福音書22:39~46)

「祈りなさい」

 

 2021年11月7日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章39節~46節

 

 最後の晩餐が終わり、ここから場面が変わります。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。」

 

 この場面は「ゲツセマネの祈り」として知られているところです。ところがこのルカによる福音書には「ゲツセマネ」という言葉が出てきません。このルカによる福音書は、ローマに住む異邦人のために書かれたものなので、エルサレムの細かな地名は省略されたのではないかと思われます。加えて、ルカによる福音書のこの場面は、マタイやマルコによる福音書のゲツセマネの祈りの記事よりも簡潔に記されています。そのため、この場面のテーマがよりはっきりと示されています。

 

 結論から言いますと、この場面のテーマは「祈り」です。始めにイエスは言われます「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてイエスご自身の祈りが記されます。最後に「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」というイエスの言葉でこの場面が締めくくられます。このように、ルカはキリスト教の「祈り」について伝えるために、この場面の記述を簡潔にして「祈り」を際立たせているのです。

 

 イエスは「いつものように」オリーブ山に行かれました。21章37節には「日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。」とあります。イエスはいつものように、いつもの場所へ行かれました。それで、ユダはイエスを捕らえる者たちを案内することができました。

 

 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言って、少し離れた石を投げて届くほどの所でひざまずいて祈られました。

 

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」

 

 この杯というのは、これから負われる十字架のことです。イエスは神の子だから何の苦もなく十字架を負われたのではありません。罪人の救い主として真に人となられたイエスにとって、十字架はできることなら取りのけてほしいものでした。十字架は罪の裁きです。罪故に神に見捨てられることです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34、マタイ27:46)と叫ばずにはいられない苦しみ、悲しみ、それが十字架です。イエスは真に人となられて、罪人の苦しみ、悲しみを負ってくださいました。

 

 しかしイエスは続けて「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。これは主の祈りの「御心が行われますように。」(マタイ6:10)と同じです。イエスは主の祈りを教えてくださっただけでなく、わたしたちと共にこの祈りを祈っていてくださいます。

 

 そしてこのイエスの祈りは、わたしたちキリスト者、神の民の祈りがどのようなものであるかを明らかにするものです。わたしたちは神に聞いて頂きたい様々な願いがあります。わたしたちはそれを神に祈ります。しかしそのとき、わたしたちは神の御心の成るところに救いが現れることを信じ、ゆべてを神に委ねて「御心が行われますように。」と主の祈りの中で繰り返し祈り続けていくのです。

 

 わたしたちの祈りは、自分の願いを叶えるための祈りではありません。わたしたちのすべてを知って、すべてを益とし、救いをなしてくださる神に、すべてを委ね、御心がなされることを求めていく祈りなのです。

 

 イエスが祈っておられると「天使が天から現れて、イエスを力づけ」ました。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られ」ました。そして「汗が血の滴るように地面に落ちた。」のです。イエスはわたしたちのために、そしてわたしたちと共に信仰の戦いを戦ってくださったのです。信仰の戦いには、神の助けが必要なことを天使の力づけを受けることを通して示し、その助けが確かにあることを示してくださいました。

 

 そして「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠りこんで」いました。

 

 イエスは「石を投げて届くほどの所」で祈っておられました。どれほどの時間、イエスが祈られたかは分かりませんが、弟子たちはイエスの祈りの言葉を聞き、切に祈る姿を見ていました。だからこうしてイエスの祈りの言葉、その姿が語り継がれ、福音書に記されたのです。弟子たちは、このエルサレムでイエスが苦難を受けると告げられたこと、自分たちのところから去って行くと言われたことを思い返し、深い悲しみに包まれ、悲しみのあまり意識を保ち祈り続けることができませんでした。

 

 イエスは彼らが眠ってしまっているのをご覧になり、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」とお語りになりました。

 

 イエスはこの場面の最初と最後で「祈りなさい」とお命じになられました。ここで「誘惑」と訳された言葉は、22章28節では「試練」と訳されています。神と共にあろうとする信仰は、常に試練・誘惑にさらされます。

 

 そして誘惑に陥らないために「祈りなさい」とイエスは命じます。弟子たちが寝てしまっているのをご覧になった後には「起きて祈っていなさい。」と言われました。

 

 ここで「起きて」と言われた言葉は、聖書では「復活する、よみがえる」という意味で使われる言葉です。ですからここの「起きて」は霊的に目覚めていること、罪の中で眠っている、死んでいるのではなく、神の御前に立っていることを表します。そして神に語りかけ、神の声を聞くのです。

 

 祈りは神と共にあるためになくてはならないものです。イエスエルサレムに来られて最初に宮清めをし、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」(19:46)と言われたのも、神の御前に出る神殿において、なくてならぬものが失われていたからです。神を信じる、神と共に生きるということには、祈るということが含まれているのです。

 

 十字架を前にして言われたイエスのこの命令を軽んじてはなりません。エフェソの信徒への手紙も「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(6:18)と命じています。

 

 日本キリスト教会信仰の告白の中には「信徒を訓練し」という文言があります。そして教会に託された信徒の訓練の中で、最も中心にあるものの一つが祈りです。神を信じ、神の助けと導きを求め、祈る。祈りによって神の御前へと立ち帰り、イエスに倣って、神に委ね、御心がなされ救いがなされることを信じて祈る。そのように祈りつつ生きる神の民へと訓練するのです。遣わされている所で一人でも祈る。兄弟姉妹と共に祈る。そして礼拝においても祈る。そのような神の民が育まれるように教会に訓練が託されているのです。教会生活の中にある祈る機会を、是非大切にして頂きたいと思います。単なる聖書の知識ではなく、活ける真の神と共に生きる信仰には、祈りはなくてならぬものなのです。

 

 祈りは、他でもなくわたしたち自身のために与えられたものであり、神と共に生きるために与えられた信仰の武器、そして恵みの賜物なのです。

 

 

 

いのります。

 

 

 

 私たちは、祈ることを忘れてしまったり、自分自身のために祈ることの多い者です。しかし、イエス様は真の祈りを教えて下さいました。生きる時も、死ぬ時も神さまの御心が成ることを求め、祈りつつ歩んで行くことの出来ますように導いてください。

 

この祈り、主イエスキリストの御名によりまして、御前におささげいたします。

 

 

 

アーメン