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「神のものは神に返しなさい」(ルカによる福音書20:20~26)

「神のものは神に返しなさい」

 

 2021年6月13日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章20節〜26節

 

 

 イエスエルサレムに来ておられます。十字架を負って、救いの業を成し遂げるために、エルサレムに来られました。

 イエスは、エルサレムに来ると、神殿で人々に教えておられました。そこに祭司長や律法学者、長老たちが来て、9節以下に記されている譬えを語られました。祭司長や律法学者、長老たちは、この譬えが自分たちに当てて語られたと気づき、イエスに手をかけようと思いましたが、そこにいてイエスの話を喜んで聞いている民衆を恐れました。

 そこで彼らは、義人を装うまわし者を送りました。義人を装うとは、いかにも信仰を求めているかのように振る舞うということです。彼らの目的は、イエスをローマ総督に引き渡すための言葉じりを捕らえるためでした。このときエルサレムは、ローマ帝国支配下にありました。ローマから総督が派遣されており、この総督の許可がなければ、誰かを死刑にすることはできませんでした。つまり、このときエルサレムの指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちは、イエスを死刑にするためにまわし者を送り込んできたのです。

 

 彼らはイエスに尋ねてます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」さすがはまわし者。おべっかを使いつつも、抜かりはありません。1~8節のところでは、逆にイエスに質問されて、8節では「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えを拒絶されましたから、今度は答えを拒絶されないように、上手に質問します。

 彼らは22節で尋ねます。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 これは上手な質問です。「よい」と答えても、「いけない」と答えてもイエスを窮地に追い込むことのできる質問です。

 「律法にかなっている」と答えた場合、民衆はイエスに失望します。民衆は、神の民が異邦人に支配されているのを不満に思っています。もしイエスローマ帝国よりの答えをすれば、民衆の思いはイエスから離れます。そうしたら、指導者たちは民衆を恐れることなく、イエスに手をかけることができます。

 「律法に適っていない」と答えた場合、指導者たちはイエスを総督にローマ帝国に反逆する者として訴えることができます。そして総督がローマ帝国への反逆罪で死刑にしてくれるでしょう。

 この質問は、イエスに答えさせればよいだけの、彼らにとっては実に都合のいい質問なのです。

 

 しかし、イエスは彼らの思いを知っておられます。イエスの前でどのように取り繕ってみても、それは意味がありません。イエスはわたしたちの本当の思い、本当の姿を知っておられます。ペテロがまだ自分の罪にも弱さにも気づいておらず22章33節で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったときにも、イエスは34節で「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われました。イエスの前でわたしたちは本当の姿を隠すことはできないのです。

 24節でイエスは言われます。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」。彼らは答えます。「皇帝のものです」。すると25節でイエスは彼らに言われます。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 デナリというのは、ローマの銀貨で、多くの人々が使っていた銀貨です。当時、1デナリは労働者の日当で、仕事終わりにデナリ銀貨を1枚渡せばよかったので、多くの人々が常に持っていた銀貨です。この銀貨には、皇帝アウグストゥスの横顔と銘が刻まれていたといいます。ですから「そこには、だれの肖像と銘があるか。」と聞かれたとき、彼らは即座に答えました。「皇帝のものです」。それに対してイエスはお答えになります。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」。

 

 イエスの言葉じりを捕らえようとして送り込まれたまわし者たちは、絶句してしまいました。「皇帝に税金を納めてよい」と答えても「よくない」と答えても大丈夫な、最高の質問をしたのに、彼らは言葉を失いました。なぜでしょうか。それは「神のものは神に返しなさい」というイエスの答えが、あまりに衝撃的だったからです。

 

 わたしたちにはこの「神のものは神に返しなさい」という言葉は抽象的に思えます。しかし、この場にいる人々にははっきりと分かったのです。デナリ銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていました。それでは、神の肖像と銘が刻まれているものは何か。創世記1章27節には「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。この場にいた人々は皆、この創世記の言葉を思い起こしたことでしょう。イエスの答えは、そこにいた人々の思いを神の言葉へと導き、神の言葉の前に立たせました。

 

 人々は考えます。「そうか、神のかたちに造られ、神の名を帯びて生きるわたしは神のものか。」「では、わたしを神に返すとはどうすることなのだろうか。」皆イエスの答えに驚き、神の言葉の前で黙ってしまいました。

 神に返すというのは、神の御前に差し出すというイメージです。わたしは2つの場面を思い起こします。

 一つは、創世記3章8節エデンの園で、善悪を知る木の実を食べ、最初の罪を犯したアダムとエバは、主なる神の歩まれる音を聞いたとき、神の顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。

 もう一つはルカによる福音書22章60節~62節で、ペテロがイエスの言われたとおり、3度イエスを知らないといった後で、イエスは振り向いてペテロを見つめられました。するとペテロはイエスの言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣きました。

 

 わたしたちは、わたしたちの嘘偽りのない本当の姿を知っておられる神の前に立つことはできないのだと思います。イエスのこの言葉を聞くとき、自分を神に帰すことができない、恐くて、悲しくてできない、そのことに気づかされるのだと思います。パウロもローマの信徒への手紙7章24節でこう叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。自分は神の御前に立つことはできない。そのことに気づき、自分の中の望みがついえたとき、そのとき、わたしたちはイエスと出会っていくのだと思います。パウロもこの叫びの後ローマの信徒への手紙7章25節でこう語ります。「 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。

 

 わたしたちは、イエス キリストに依らずしては神に立ち帰ることはできない。神の御前に立つことはできない。そして自分を偽ったままでイエスと本当に出会うことはできません。

 先ほどパウロの言葉を紹介しましたが、パウロ使徒言行録に記されている回心の出来事があってから、この手紙を書くまでに20年以上の時が経っています。彼は自分の罪、自分の惨めさを思いながら、繰り返し繰り返しイエスと出会っていったのです。パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節ではこう語ります。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。

 

 神は、わたしたちがイエス キリストに本当に出会えるように、さらに深くイエス キリストの救いに与っていくことができるように、わたしたちを繰り返し繰り返し御前へと招き続けてくださるのです。イエス キリストに出会い、さらに深く救いに与っていく中で、わたしたちは神のものである自分自身を神に返していく、神の御前に差し出していくことができるのです。ヘブライ人への手紙10章19節はこう語ります。「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」。

 教会に集うお一人お一人が、イエス キリストの救いに深く深く与り、神へと立ち帰ることができるよう祈ります。

 

 

 父なる神さま

  私たちがイエスキリストに本当に出会えるように、私たちを御前に招いて下さいます。どうぞ  イエスキリストに出会いさらに深く救いに預かり、自分自身を神に返していける者となることができますように。

 

エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン