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「慈しみをもって見つめられる主」(ルカによる福音書20:9~19)

 「慈しみをもって見つめられる主」

 

 2021年6月6日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章9節〜19節

  

 

 イエスは民衆に対して譬え話しを語り出されます。この譬えは、寓話、つまりアレゴリーと呼ばれるタイプのものです。アレゴリーというのは、話の一つ一つが、これは、誰をなぞらえている、これは何をたとえている というようになっている話です。19節に「19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」とあります。この譬え話しアレゴリーの中で、自分たちが何になぞらえられており、どういう人物であると言われているのか、 よく分かったのです。

 

 9節の冒頭に書かれている「ある人」は、神さまを指し示しています。この人が造った ぶどう園は、神の民イスラエルです。このぶどう園を預けられている農夫たちが、祭司長、律法学者、長老たちです。

 ある人が、ぶどう園を造って、農夫たちに貸して、長い旅に出ます。これを言い換えると、神さまが、ご自身の民イスラエルを召し出し、民の責任者である祭司長や律法学者、長老たちに、お委ねになりました。

 当時、大地主の多くは、大都会や外国に住んでいた、と言われています。そして、レビ記によれば、果樹は植えてから3年間はそっとしておかねばなりませんでした。4年目にはすべての実を、主に献げなくてはなりません。5年目に初めて実を食べることが許されるのです。5年目に収穫を手にすることができるまでの間、持ち主は、農夫たちの給料を始め、すべての費用を負担します。そのことが、レビ記の19章の23節-25節に書かれています。 こういった当時の状況を、この譬え話を聞いていた人たちは、それぞれが思い浮かべたと思います。

 収穫の時期が来たので、ぶどう園の持ち主は、僕を送って、収穫の分け前を出させようとしました。これは、言い換えると、神さまは、ご自身の民イスラエルを神に献げるように、 ご自身の僕である、預言者をお遣わしになったということです。

 ところが、農夫たちはその僕を袋だたきにし、何も持たせずに、手ぶらで帰らせました。これは言い換えると、民の責任者である祭司長、律法学者、長老たちは、神が遣わされた預言者を拒絶し、預言者の言葉に従わなかったことを意味します。

 神は2回、3回と預言者を遣わしましたが、結果は同じでした。

 このことは、旧約聖書でも語られています。ネヘミヤ記9章の26節では「26しかし、彼らはあなたに背き、反逆し、あなたの律法を捨てて顧みず、回心を説くあなたの預言者たちを殺し、背信の大罪を犯した。」 と語られています。またエレミヤ書7章の25節と 26節では「26それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。27あなたが彼らにこれらすべての言葉を語っても、彼らはあなたに聞き従わず、呼びかけても答えないであろう。」と書かれています。

 最後にぶどう園の持ち主は、自分の愛する子を遣わしたら敬ってくれるのではないか、と考え、愛する息子を遣わします。これは、神さまが、ひとり子イエス・キリストを世にお遣わしになったことをあらわします。

 ところが、農夫たちは主人の息子を見ると、『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 と互いに話し合い、彼をぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。

 

 ユダヤ教の大切な聖書注解に、タルムードとミシュナーというものがあります。タルムードの中に、「農夫たちは、不在地主のために働いた土地の所有権を主張できる」と記されています。さらに、ミシュナーには「他に所有権を主張する者がいなければ、3年間土地を使用した者が、所有権を持つと見なされた」と書かれていいます。いわば農夫たちがおこなったことは、これらの規定、ルールを悪用しようとする出来事です。

 また、これは、祭司長、律法学者、長老たちのイエスご自身に対する思いを表すものであり、まさに、これから起こる十字架の出来事を指し示すものです。

 その後、ぶどう園の主人は、彼らをどうするでしょうか。16節のところ「主人は戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるにちがいない」と述べています。

 このルカによる福音書は、紀元80〜90年頃にまとめられたと考えられています。ですからルカが、この福音書をまとめているときには、既にエルサレムは、ローマ帝国によって破壊され、ユダヤという国は、滅び無くなっていました。紀元70年の出来事です。

 ルカは、「主が言われたとおりだったなぁ」と思いながら、この譬えを書き記したのではないかと思います。

 この譬え話を聞いていた人々は、イエスに向かって「そんなことがあってはなりません」つまり、「農夫たちのような不義な行いがあってはならない」と、抗議をしました。

 するとイエスは、彼らを見つめて言われました。17節 「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった』 。その石の上に落ちる者は、だれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。

 引用されているのは、詩篇118編の22節です。隅の親石というのは、石造りの家を支える要の石です。壁と壁が合わさる隅の土台となる石であり、上にあって壁が揺れないようにするための重しとなる石です。木造の日本建築で言えば、まさに大黒柱です。

 この建築の要である隅の親石は、家を建てる者が捨てた石であったというのです。家造りの専門家、つまり祭司長や律法学者、長老たちが不要のものとして捨てようとしているイエス・キリストこそ、神によって、隅の親石とされ、イエス・キリストによって、すべての人は裁かれると言うのです。

 非常にあからさまなアレゴリー、寓話です。律法学者たちや祭司長たちが、この譬が 自分たちに当てて語られたのだと、悟ったのも当然のことと思われます。

 この場面で、ルカは17節の「見つめて」という言葉に「エムブレポー」という単語を使います。ルカは、この単語を22章の61節でも使います。「61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」この「ペトロを見つめられた」の「見つめられた」が「エムブレポー」なのです。茂 洋という教団の牧師で、神学者は、この「エムブレポー」は 「慈しんで見る」と訳するのがよいのではないか、と言っています。

 自分の罪も弱さにも気づいていないペトロに対して、イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」とルカ22章34節で言われます。そして実際にそのことが起こったとき、イエスは慈しみをもってペトロを見るのです。

 ここでも、自分たちがイエスを捨てる、神の愛する子を捨てるのに気づかない人々に 対して、そのことが起こった後で、ペトロのように気づけるように、このアレゴリー、寓話を語り、慈しみをもって彼らを見つめられるのです。

 しかしこのとき、祭司長や律法学者たちは、あからさまに自分たちにあてつけられたと思い、イエスに手を下そう、つまりイエスを殺そうと思いましたが、民衆を恐れました。  そうです、彼らは、神を畏れるのではなく、民衆の評判、民衆の反応を恐れたのです。

 彼らはイエスの姿を見ました。肉声も聞きました。彼ら自身に向かって語られるイエスの教えを聞きました。しかし、彼らは悔い改めませんでした。肉の目や耳でイエスを知ることはできません。聖霊によって清められ、信仰の目、信仰の耳が開かれるのでなければ、イエスを知ることはできません。

 

 イエスは、今も、慈しみをもって、わたしたちを見つめていてくださいます。だからこそ、わたしたちは、今イエスに出会い、神へ立ち帰ることができるのです。イエスはわたしたちの救いを願っておられます。わたしたちの救いのために今も御言葉を通して語りかけてくださっています。マタイによる福音書4章の4節にあるように「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 のです。

 祈ります。