聖書の言葉を聴きながら

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詩編 135:15〜21

2020年7月29日(水) 祈り会
聖書:詩編 135:15〜21(新共同訳)


 135篇は礼拝するために集った民に讃美を促します。3節「主を賛美せよ、恵み深い主を。/喜ばしい御名をほめ歌え。」主は恵み深い方であり、わたしたちにとって喜ばしい方。神の民は、主を讃美し、主に在って喜び歌います。
 きょうは15〜21節です。

 15〜18節は偶像批判を語ります。神は偶像礼拝を禁じます。旧約を代表する戒め十戒でも言われています。出エジプト 20:4~5「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」
 「熱情の神」は、口語訳では「ねたむ神」だったのを変更したのですが、新しい聖書協会共同訳では再び「妬む神」とされました。

 なぜ偶像礼拝はいけないのでしょうか。
 妬む神が嫉妬するからでしょうか。そう言って間違いではありませんがもう少し言いますと、それは、わたしたちが神にかたどり、神の似姿として造られていることが根本的な理由です。創世記 1:26~27「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
 わたしたちは神にかたどり、神の似姿として造られています。わたしたちは神に似る存在のです。だから18節「偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じように」なってしまうのです。偶像がそうだというだけでなく、わたしたち自身、口があっても神に語りかけることもなく、目があっても神の御業が見えず、耳があっても神の声が聞こえない。神に息を吹き入れられて生きる者となったのに(創世記 2:7)鼻と口には息の通わないのです。命の源である神との関係が失われ、死に囚われていくのです。

 神はわたしたちを神との交わりに内に生きる者として造られました。ですから神との交わりを失い、命を失うことを禁じられるのです。神は救いの神、命の神です。

 だから135篇は、礼拝に集う者たちに神の御前に立ち帰り、神を仰ぎ、神を誉め讃えることへと導くのです。
 「イスラエルの家よ、主をたたえよ。」神に召された神の民に呼びかけます。
 「アロンの家よ、主をたたえよ。レビの家よ、主をたたえよ。」アロンはモーセの兄で、出エジプトの際にモーセの補佐をした人です。祭司を担うことになるレビ族の出身で、アロンとアロンの子孫は祭司として仕えました。ここは主に仕える者たちを励ますように語りかけます。
 「主を畏れる人よ、主をたたえよ。」神殿には、イスラエルの神を敬う異邦人が礼拝する「異邦人の庭」と呼ばれる外庭がありました。19節の「イスラエルの家よ」と20節「主を畏れる人よ」で礼拝に集うすべての人たちを表します。135篇は礼拝に集うすべての人たちを讃美へと導きます。

 そして神へと思いを導きます。21節「シオンから、主をたたえよ。/エルサレムにいます主を。」シオンはエルサレムが立つ丘の名前です。そしてエルサレムには主の神殿があります。目に見えない神が、神の民と共にいます目に見えるしるし。神に礼拝を献げる場所です。神の民が巡礼の旅をして目指す場所。神へと立ち帰る場所です。神によって命を与えられたすべての人が本来いるべき場所が神の御許です。人々が神の御許に帰ってこれるように、神の御許から全世界に讃美を呼びかけるのです。

 ハレルヤで始まった135篇は、ハレルヤで終わります。ハレルヤは「神(ヤー)を讃美せよ」という意味です。
 新共同訳の102篇 19節には「主を賛美するために民は創造された」とあります。新しい聖書協会共同訳では「新たに創造される民は主を賛美するでしょう」となっています。救われた神の民は、神を讃美するのです。礼拝に集う皆さんが、代々の聖徒たちと共に讃美しつつ歩み、神との出会い・交わりを喜び楽しまれるようにと願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをあなたに型取り、あなたの似姿にお造りくださったことを感謝します。わたしたちはあなたとの交わりを喜び楽しむ者として命を与えられました。わたしたちは罪の世にあってなお、あなたが「よかった」と喜ばれた幸いへと招かれています。どうか代々の聖徒たちと共に御名を讃美しつつ歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン